スマホで連絡を取ろうにも電源が入っていないのかコールもしないし既読もつかなかった。

 直接糸杉に会いに行くことに決めた俺は、住所を知るために職員室へと出向いた。

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
「ラスボスみたいな台詞ですね」
「だろう。まあ、実際はそろそろ私が出向くべきかと悩んでいたところだ」

 心境を吐露しながら関山先生は裏紙に筆を走らせる。達筆なその字は先生の性格をそのまま表している。

「糸杉の住所だ」
「あっさり教えますね」
「これ以上、生徒が傷つくのは看過できないからな」

 ありがたく頂戴する。住所が書かれた紙を受け取ろうとするが、強く握られた紙は先生の手から離れない。

「渡す気はないんですか?」
「少し話をしよう」
「急いでいるので」

 素早く腕を引いてメモを先生の手から引き抜く。

「待て。私にも格好を付けさせてくれ」

 出ていこうとすると縋るように腕をつかまれてしまった。

 生徒に縋る時点で格好良いところなどないように思えたが、とりあえず先生の話を聞いておくことにする。

 俺たち以外に誰も居ない職員室はその広さと相まって、静けさが重く感じられる。

「済まなかった」

 開口一番、先生は頭を下げる。

「謝らなくちゃいけないことしたんですか?」

 俺みたいな高校生にまで頭を下げなくてはならないのだから先生という職業はつらいものだ。絶対に選択しないようにしなくては。

「私は君たちの事情を全て知っていた。だがそれを話さなかった」
「そうですか」

 事情の全て。言葉通り受け取るのであれば楓のことも知っているのだろう。

 やはり、謝るようなことではない。寧ろ全てを話されてしまったら俺はこの人を拒絶していたことだろう。

「君たちは君たちの世界で完結していた。それを広げるために私はあの部を創設したんだ」

 つまり俺と糸杉が出会ったのは偶然ではなかった。

 そしてその企みは或る程度は成功していた。と言える。

「だが私は生徒が抱えている闇を甘く見ていた」

 コーヒーの黒い表面に映る自分の疲れた顔を見ながら先生は溜息を吐く。

 生徒とは誰のことをいうのか。俺か、糸杉か、はたまた……

「糸杉はまた日の当たらない薄暗い洞穴の中に戻ろうとしている」

 抽象的な言い方だが、何が言いたのか俺にはわかる。

「そこで私から慈善活動部である音霧に相談だ。糸杉に前を向かせてやってほしい」
「難しい依頼ですね」

 だが悩む必要はない。元よりそのつもりだった。

「音霧がここに来なかったら、いまの台詞で焚きつけようと思ったのだがな」
「残念でしたね。良い後輩が出来たので」
「私の采配もなかなかだろ」
「自画自賛ですか」

 これで大義名分は頂いた。俺がしたことで糸杉に文句を言われたらすべてこの人に押し付けてしまおう。

「ところで、どうして慈善活動部だったんですか?」
「それは人の為に何かをすることは心地よい事だからに決まっているだろ」

 闇をも焼き尽くす眼光。この人は相変わらず、熱血で暑苦しい教師だった。



 教えてもらった住所を辿って付いた場所は閑静な住宅街だった。糸杉の家は同じような家が並ぶ一角にあった。

 木製の和式住宅は経年劣化から逃げることは出来ず、全体的にくすんだ色をしている。庭の手入れが行き届いているところを見るに、予想よりも年月が経っているのかもしれない。

 くすんだ色に家族の歴史を感じさせる。どこかから漂ってくる夕食の匂いがそう感じさせた。

 インターホンを押そうとしてその家の表札が糸杉でないことに気づく。

 もう一度、教えてもらった住所を確認するがこの家で間違いない。

「うちに何か用?」

 どうするべきか逡巡していると突然後ろから声を掛けられた。

 気だるげな声の主は二十代前半と思わしき女性で、ウェーブの掛かった髪を茶色に染めて、ナチュラルメイクで清楚を演じている。全体的な顔立ちは綺麗だった。

 糸杉の姉、だろうか。それにしてはあまり似ていない。

「糸杉梓さんを訪ねてきました」

 糸杉梓、その名前を口にした途端。彼女の様子が一変した。柔和な笑みを湛えていた瞳は鋭く光り、こちらをまじまじと観察する。つま先から頭頂部までゆっくりと舐めまわすようにしてから今度はいたずらを思いついた子供のように笑った。

「君……あの子の彼氏?」
「いいえ」

 はっきりと否定する。

「じゃあ、ストーカー?」
「友人です」
「ふーん。死んだ魚を三日間放置したような目をしているから勘違いしちゃったよ」
「そうですか」

 久しぶりに言われた気がする。俺はまだそんな目をしているか。変わったと言われてもそこだけは変わらないらしい。

 そんな事より、彼女は糸杉について否定しなかったということは、糸杉はこの家に住んでいるという事だ。

「それよりもあの子に友人がいるなんてね」

 どういった事情であるのか知らないが、彼女が糸杉を良く思っていないことは態度からすぐにわかる。

「せっかく来てくれて悪いけど、あの子ならいないよ。最近は夜遅くに返って来けど、何処で何してるんだか」

 小馬鹿にするように言うと、横を通り過ぎて玄関の鍵を開ける。

「そうですか。ありがとうございます」

 お礼を言って帰ろうとすると、肩を軽く叩かれる。

「入りなよ。あの子の事が知りたいんでしょ。聞かせてあげる。それに、私もあの子がどんな学校生活を送っているのか興味があるし」

 目を細めて笑う仕草は嗜虐的で、新しいおもちゃを見つけたような子供っぽさを感じさせた。悉く糸杉とは似ていない。

 罠のような危うさを感じずにはいられなかったが、先生に頼まれたことを遂行するには、まず糸杉を知らなくてはならない。

 その為にはこの人から話を聞く必要がありそうだ。


「その辺適当に座って」

 言われた通り、適当にソファーに腰かける。

 家の中は綺麗に掃除されていて清潔感があった。埃一つ落ちていないのではないだろうか。性格からしてあの人ではない。糸杉が掃除を担当しているのだろう。

 一般的な家庭。それが部屋を見渡しての第一印象だった。

 しかし、テレビの隣に置かれた家族の写真に糸杉の写真は一枚もない。あの女性とその両親、この家は三人家族であるかのように見える。

「お待たせ」

 インスタントコーヒーの安い香りを漂わせて彼女がキッチンから戻ってくる。詮索していたことがばれないように居住まいをただす。

「先にさ、学校でのあの子を聞かせてよ」

 この人は俺に何かを吹き込もうとしている。

 俺はそれに乗るふりをしてクラスでのことだけを話した。慈善活動部に関する話は一切しない。自分は糸杉に好印象を持っている。そう思わせることにした。

「そうなんだ。あの子、本当はそんな人間じゃないのよ」
「本当は、とは?」

 罠にかかった得物にじっくりと毒を回すように重厚で濃密な間を取る。

「あの子ね……」

 彼女の目は真剣なのだが、口元が笑いを隠せていない。

「殺人犯の娘なのよ」
「……っ!」
「あ、まだ死んでいないから殺人犯ではないわね。でも相手は三年間も眠ったままなのだから死んでいるのと変わりないわよ。あの子の親は一人の女の子の人生を滅茶苦茶にしたの。不注意による交通事故で」
「三年前……交通事故」

 今の俺の表情は彼女が求めていたもの以上のものだっただろう。それ程俺は動揺している。しかし、それは彼女の意図したものではなかった。

 三年前、眠ったまま、女の子、交通事故。そのキーワードが俺をここまで動揺させていた。

「それをあの子は頑なに隠しているみたいね。それもそうよね。前の学校ではそれが知られて相当ひどい目にあったみたいだし」

 ひどい目というのが何であるのか聞くまでもない。

「それに当時は世間からのバッシングがすごかったのよ。苗字が違うのは気づいているでしょ。あの子の家族はあの事故以降ばらばらになったの。私はあの子の親戚。だからあの子が本当はどんな性格か知ってるの。それなのに今のあの子はいつ居なくなっても気づかれないように空気みたいに存在を薄くして、親の罪を肩代わりするように過ごしてる」

 いつの間にか愚痴になっていたことに気づいたのか、彼女は失敗した時のような苦い表情をしてコーヒーを啜る。

「その事故の被害者の名前、知っていますか?」

 どうしてそんな事を知りたいのか。彼女は怪訝な視線を向けるが特に問いただすことはしない。

「知ってるよ。確か紅葉楓っていう子だったと思う。当時中学二年生。あの事故がなければ君たちと同い年の高校二年生だね」

 いままでの事、全てがここに辿り着くための布石だったのだと気付かされる。糸杉は初めから三年前のけじめを付ける気でいた。

「ありがとうございました」
「普通でいたいのなら、あの子に近づきすぎない事ね」
「そういう訳にはいきません。俺は糸杉を連れ戻さなくてはいけませんから」

 適当に返事をして席を立てばこの場は治まったのにそれが出来なかった。

「どうして?」
「似たもの同士だからですかね」

 糸杉がどういうつもりで三年前とけじめをつけるのかわからないが、そこに俺がいないのは許されない。

 糸杉は俺が部外者だと勘違いしている。それは間違いだ。俺がいなければあの悲劇は起こらなかった。

 玄関を出ると先ほどまで秋特有のイワシ雲を見せていた空は曇天に包まれていた。予報は外れやがて雨が降るだろう。

 このまま糸杉が返って来るのを隠れて待っている手もあった。しかし、言いようのない焦燥感に駆られて俺は『家の人から全て聞いた』とメッセージを送りあの場所に向かう。

 あいつが最期に選ぶとしたら場所は一つしかない。

『俺にしか見えない楓』のいる公園前。

 俺たちの三年前にようやく終わりが迎えられようとしていた。