駅に戻る頃に雨は降り始め、本降りになる予感があった。
糸杉と仙都からの連絡がないということはまだ見つかっていないと考えるのが普通だ。
小粒の雨が頬に当たるたびに焦りが増していく。
支倉が行方をくらませてから四日。その間に気持ちが変わっていることを願いたいが、その可能性はほとんどないだろう。
追い詰められて答えを出した人間はその答えに固執する。
あとはきっかけが来るのを待つだけ。
焦るこちらをあざ笑うかのように雨は強さを増していく。
傘をさして歩く人の顔を注意深く見ながら捜索するが、傘が邪魔をして思ったようにいかない。
とにかく車の通りが多い大きな道路沿いを選んで探す。夜が更けようとしているのに駅周辺は眠ることを知らずに賑やかさを保っている。金曜日ということもあり雨にも関わらず通りを歩く人々はみんな陽気な雰囲気だ。
ふと向かいから流れてくる人波の中にパーカーを目深に被り傘で視線を隠した人影に視線が向く。
その足取りは足枷をつけられた様に重く、ゆらゆらと人波に翻弄される姿は川面に落ちて行く当てもなく流される枯れ葉のようで、気力が感じられない。
それは周りの賑やかさとの対比で顕著に表れている。
直感で支倉だと確信する。
咄嗟に裏通りに隠れて通り過ぎる瞬間に顔を確認する。
間違いなく支倉だった。その瞳には写真で見た時のような溌溂とした輝きはなく、ぼんやりとここではないどこか遠くを眺めている。
気づかれないように後をつける。制服姿を見られただけでも警戒される。相手は陸上部のエースだ。本気で逃げられたら追い付けるわけがない。
糸杉に今の居場所と連絡を入れるとすぐに返事が来た。
『越水くんは近くにいる?』
そんなことを気にするのか。どれだけ仙都が嫌いなんだ。
『いない』
『言われたこともこなせないのね。役立たず』
礼を言われることを期待していたわけではないが、まさか罵倒されるとは思っていなかった。
『尾行して。合流したら挟み撃ちで確保』
送られてきた指示に異議はなかったのでそのままスマホを閉じると、さらにメッセージを受信した音がする。
『あなたがいて助かった』
ホーム画面に映し出されたメッセージを見て固まる。
このメッセージを送ったのは本当に糸杉だろうかと疑ってしまう。素直に礼を言われても違和感で気持ち悪かった。あいつはやっぱり罵倒する方が似合っている。
うかうかしていると見失ってしまうので返信をせずに支倉を尾行する。本降りになった雨が煩わしかったが傘を買っている暇などなかった。
支倉はこちらに気づいた様子もなく街をさまよう。
どんなことが支倉に起こっており、どうすれば解決できるのか。寧ろ支倉を確保してからが本番といえる。今後の事を考えると気が重たくなる。
ふと、支倉はなんでもない場所で立ち止まるとスマホを確認する。
何かを確認するように少し画面をいじったところで突然、彼女は走り出した。
直ぐにこちらも追いかける。予想に反して俺たちの距離は簡単には離れなかい。
陸上部といっても走りが専門ではないのかもしれないが、日ごろ運動をしていない人と変わらないというのは違和感がある。
彼女は日本で一位二位を争う選手だ。男女の差を差し引いてもおかしい。
冷静に分析している場合ではない。距離が縮まらないとしても追い付けないのだから見失うのは時間の問題だ。
次第に息が絶え絶えになり足元がおぼつかなくなる。
途端、何かに足を取られて前のめりに倒れ込んだ。
慌てて支倉を確認すると姿が人の波に消えていくのが遠くで見えた。
『ごめん。逃げられた』
『存在感のない音霧くんにどうして気づいたのかしら?』
そんな場合ではないだろうに、常に俺を貶すことは忘れない。
『誰かが支倉に知らせたみたいだった』
『やはりね。今の彼女の精神状態で周りに気を配れると思えないし』
糸杉の言う通りで見かけた支倉は周囲を気を配れるほどの余裕はなさそうだった。
誰かから知らせを受けたことは間違いない。
これで協力者がいることが確定してしまう。それが糸杉の言う通りの相手でなければいいのだが。
だが、誰がこんなことをしているのか。それにこんなことをして何の利益があるというのか。
とりあえず、糸杉と合流して先の事を考えなくてはならない。
焦る俺とは対照的に街を行き交う人は陽気さを増していく。大声で歌いながら千鳥足で歩く男性の気楽さがこちらの気持ちを逆なでする。
ゲラゲラと笑い声をあげながら横に広がり歩く彼らはこちらの行く手を阻んで横断歩道を渡っていく。
赤に変わった信号がこちらの気持ちを急かした。
こうなっては背に腹は代えられない。糸杉に詰られる覚悟で仙都に電話を掛ける。
『どうした?』
「今どこにいる」
『今か。ちょうど黒田根駅に戻ったところだ』
「ちょうどよかった。支倉を見つけたんだけど逃げられた」
『そうか。わかった。オレも探すよ。どの辺だ?』
電話の向こうから先ほどの陽気な歌声と笑い声が聞こえる。
「ちょうど……」
その辺りにいる。そう言おうと視線を前に向けた時、向こう側にパーカーのフードを脱いだ支倉が立っているのが見えた。
『どうした?』
支倉は焦点の合わない目で地面を見つめている。
駄目だ。
その一言が喉の中で空回りするだけで出てこない。
ふと支倉が緩慢な動作で視線を右へ向ける。つられて視線を向けると、一台の乗用車が近づいていた。
「やめろ!」
俺が叫ぶのと同時に支倉はその身を道路へ投げ出していた。
ブレーキの甲高い音に間髪入れず身体と車がぶつかる鈍い音がする。
足元をすくわれるような形の支倉はフロントガラスにその身を打ち付けて人形のように宙を舞う。
あの時と同じ光景に全身が金縛りにあったように動かなくなる。
宙に浮いた支倉の身体が地面に叩きつけられるまでの一瞬の出来事が何倍にも引き延ばされ時間がゆっくりと流れていく。
その場にいる誰もが時間が止まったようにその光景に見入っていた。
女性の悲鳴で間延びした時間が引き締められ再び動き出す。
ざわめきが形を成したように野次馬がうねるように道路に倒れる支倉を囲っていく。
歩行者の信号が青に変わるとこちら側の人たちも光に向かう虫のように吸い寄せられていった。
俺はまだ動けないまま心臓が過剰に血液を全身に供給する。
それらの光景がカメラを通して観ているようで、頬に当たる雨の感覚すら感じられなくなっている。額から滴るのが冷や汗なのか雨なのかわからない。
あの日と同じで感情が抜け落ちていくような感覚になる。
あの日と同じなのだとしたら俺はこの後何をした。何をしなくてはならない。
働かない頭に語り掛け、無理やり身体を動かそうと試みる。
『自分がどうしたいのか。それが大事だよ』
楓の言葉が頭に浮かんだ瞬間、地面に縛られた足が動き出していた。
こうなったことへの自分に対する嘲りや罵りの言葉はいくつも浮かぶけれど、そのどれも今の行動に制限を掛けられるような力はない。
あの日と同じ結末にするわけにはいかない。
人垣から支倉の様子を伺う。彼女は意識を失っているようでうつ伏せのまま動かないでいる。その傍には狼狽して立ち尽くす運転手の姿がある。
これだけ集まって騒いでいるくせに誰も支倉に駆け寄る者はいない。スマホで撮影する者、友人となにがあったのか話している者、非難の視線を向ける者。
誰かがやるだろう。そうした空気が辺りを支配していた。そんな人たちに嫌悪するものの、それを感じている時間すら惜しい。
「きゅ、急に女の子が飛び出して、それで」
狼狽した運転手らしき男すら自らの義務を失念している。
「すみません。通してください」
人垣をかき分けうつ伏せに倒れる支倉の傍らに片膝を立てて肩を叩く。
「大丈夫ですか?」
こちらの問いかけに全く反応を示さない。
衝撃を与えないよう、丁寧に仰向けに体位を変える。頭部の外傷、その他大量の失血箇所はない。足は骨折しているだろうが命にかかわるようなことではない。
胸部の上下運動が見られない事から考えて呼吸をしていない。
移動させることは極力避けるべきだ。
「ハザードランプを付けて後続車の誘導をお願いします」
「え、え? 後続?」
茫然自失していた運転手はこちらの意図を汲めず視線を泳がせ言葉を零す。
「彼女を移動させるのは危険なのでここで応急処置をします。あなたは後続の車に追突されないように誘導をお願いします。こちらは何とかしますから」
「わ、わかった」
運転手は何度も首を縦に振ると車へと引き返していく。本当にわかっているのか不安になるほどに狼狽していたが、近くで騒がれるよりもましだ。
「誰かAEDを」
「持ってきたわよ。既に救急隊への連絡も済ませてある」
AEDを持った糸杉が俺の傍らに立っていた。
「使ったことは」
「ないけど大丈夫。あなたのすべきことをやって」
この子を助けたい。向けられた眼差しから強い意志を感じる。
状況を冷静に把握できている相手がいると非常に助かる。あの時とは状況が違う。今は一人じゃない。
糸杉は俺の向かい側に移動すると、迷うことなくAEDを起動させ、女子の上着のボタンを外していく。
手際が良いところを見るに、こうした経験は初めてではないのかもしれない。
AEDの音声に従いショックを行ない、再び充電が完了するまでの間は心肺蘇生、胸骨圧迫30回に人工呼吸2回を行なう。
肋骨が折れる感覚が掌に伝わるが、ここで躊躇ったら助けることは出来なくなる。
この感覚をもう一度味わうなんて思わなかった。
胸骨圧迫は普段運動をしている人でもかなり疲れる。先ほど走ったこともあって直ぐに息が上がり、汗が額に滲んだ。
「くそっ」
次第に手首が悲鳴を上げ始める。しかし、手を止めるわけにはいかない。
死なせるわけにはいかない。これは自分の為だ。善意十割で行っているわけじゃない。
祈るよう思いで圧迫を続ける。
「代わるわ」
「必要ない」
「でも」
「大丈夫だから」
掌から伝わる命を直接握っている感覚は形容しがたい不安、緊張、恐怖へと変換される。俺はいま支倉の生死に一番近い場所にいる。何もなければ関わることがなかった赤の他人の命を左右している。
こんな感覚を味わうのは自分一人で十分だ。
遠くで聞こえていたサイレンがすぐ近くでその音を止める。
「救急隊です。通してください」
数名の隊員が人をかき分けてこちらに向かってくる。
「ご苦労様です。後はこちらで引き継ぎます」
「お願いします」
これまでの応急処置の内容を簡潔に伝えて下がる。張り詰めていた気持ちが一気に緩み視界がぼやけて来る。
ここから早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
野次馬の集団を縫うようにして抜ける。野次馬たちの視線はパトライトの赤い光に向けられその場から離れる俺を気に掛ける者はいなかった。
少し離れた場所で呼吸を整える。鈍い痛みが広がる手首は震え、抑え込もうと両手を強く手を握っても治まる気配を見せない。
ここにいる意味はもうない。
重い足取りで騒がしいこの場所から逃げる。
気づけば雨は小降りになっている。しばらくすれば止んでしまうだろう。
言いようのない敗北感が俺の肩にのしかかってくる。
このまま帰るような気分になれずにあてもなく歩いた。
あてもなく歩き続ければ自然と足がここに向かっているのは分かっていた。
深夜の公園は奇妙に静まり誰も寄せ付けようとしない。
当然、楓の姿はなかった。寧ろいなくてほっとした。いたら俺は甘えてしまっただろう。
濡れたベンチに腰掛けると、乾き始めていた尻からじわりと冷たさが伝わってくる。
すぐ近くにある横断歩道。信号は赤。
あの日、悲劇はあの場所で起こった。ふと青に変わった横断歩道を渡ってくる人影が見える。
「なんでお前がここに来るんだよ」
「さあ。何となく歩いていたらここについてしまったの」
今は誰とも会いたくないのに、さらに最も会いたくない人間が目の前にいる。
糸杉は躊躇することなく濡れたベンチに腰を掛ける。
何を考えているのか表情を伺うけれど、悲しみを深く刻んだ瞳には何も映らない。
「音霧くんは経験があったの?」
何が。と問う必要はない。態々口に出して言いたくない。
「昔、同じことがあった」
「そう……」
質問の意図を図りかねたが糸杉はそれで納得した様子でそれ以上は聞いてこなかった。
「そういえば仙都に連絡するの忘れてた」
「その辺は問題ないわ。先生への連絡もした」
「悪いな。面倒なことやってもらって」
「平気よ。これくらい。今回、私は役立たずだったもの」
「役立たずだったのはお前だけじゃない」
それに糸杉が役に立たなかったというのは誤りだ。糸杉がいなければ迅速に応急処置を置こうなうことはできなかっただろう。
だからこそ、当時の事を思い出して暗い気持ちになる。
あの時も糸杉のような人がいたら、と。
「そろそろ帰るぞ。風邪ひいたら明日、会長に報告できなくなる」
残念な報告になるがしないわけにはいかない。起こったことを捻じ曲げずに伝える義務が俺たちにはある。
「そうね。どんな誹りも受ける覚悟をしておいた方がいいわ」
「そうだな」
妙なところで意見が合致する。
びしょ濡れになった男女が深夜の公園で二人。そこには敗北感だけが漂っていた。
翌日、幸いにも支倉が一命をとりとめたことを関山先生から聞かされた。
最悪の結果にならなかったが、もっと良い結果に繋げることだって出来たはずだ。糸杉も同じなのだろう。先生が話している間、一言も口を挟まず足元をじっと見つめていた。
結局のところ突発的な自殺として今回も例外なく処理されることだろう。
今度のことで裏で誰かが糸を引いている可能性に懐疑的だった俺の考えは変わった。支倉の意識が戻ればそのことは明るみになることだろう。
そしてこの事態に陥ったことに対して、誰も俺たちを責める者はいなかった。
理不尽でも、八つ当たりでも、なんでもいい。誰か一人でも俺たちの所為にしてくれる人がいたのなら、少しはこの重みから解放されるのかもしれない。
糸杉と仙都からの連絡がないということはまだ見つかっていないと考えるのが普通だ。
小粒の雨が頬に当たるたびに焦りが増していく。
支倉が行方をくらませてから四日。その間に気持ちが変わっていることを願いたいが、その可能性はほとんどないだろう。
追い詰められて答えを出した人間はその答えに固執する。
あとはきっかけが来るのを待つだけ。
焦るこちらをあざ笑うかのように雨は強さを増していく。
傘をさして歩く人の顔を注意深く見ながら捜索するが、傘が邪魔をして思ったようにいかない。
とにかく車の通りが多い大きな道路沿いを選んで探す。夜が更けようとしているのに駅周辺は眠ることを知らずに賑やかさを保っている。金曜日ということもあり雨にも関わらず通りを歩く人々はみんな陽気な雰囲気だ。
ふと向かいから流れてくる人波の中にパーカーを目深に被り傘で視線を隠した人影に視線が向く。
その足取りは足枷をつけられた様に重く、ゆらゆらと人波に翻弄される姿は川面に落ちて行く当てもなく流される枯れ葉のようで、気力が感じられない。
それは周りの賑やかさとの対比で顕著に表れている。
直感で支倉だと確信する。
咄嗟に裏通りに隠れて通り過ぎる瞬間に顔を確認する。
間違いなく支倉だった。その瞳には写真で見た時のような溌溂とした輝きはなく、ぼんやりとここではないどこか遠くを眺めている。
気づかれないように後をつける。制服姿を見られただけでも警戒される。相手は陸上部のエースだ。本気で逃げられたら追い付けるわけがない。
糸杉に今の居場所と連絡を入れるとすぐに返事が来た。
『越水くんは近くにいる?』
そんなことを気にするのか。どれだけ仙都が嫌いなんだ。
『いない』
『言われたこともこなせないのね。役立たず』
礼を言われることを期待していたわけではないが、まさか罵倒されるとは思っていなかった。
『尾行して。合流したら挟み撃ちで確保』
送られてきた指示に異議はなかったのでそのままスマホを閉じると、さらにメッセージを受信した音がする。
『あなたがいて助かった』
ホーム画面に映し出されたメッセージを見て固まる。
このメッセージを送ったのは本当に糸杉だろうかと疑ってしまう。素直に礼を言われても違和感で気持ち悪かった。あいつはやっぱり罵倒する方が似合っている。
うかうかしていると見失ってしまうので返信をせずに支倉を尾行する。本降りになった雨が煩わしかったが傘を買っている暇などなかった。
支倉はこちらに気づいた様子もなく街をさまよう。
どんなことが支倉に起こっており、どうすれば解決できるのか。寧ろ支倉を確保してからが本番といえる。今後の事を考えると気が重たくなる。
ふと、支倉はなんでもない場所で立ち止まるとスマホを確認する。
何かを確認するように少し画面をいじったところで突然、彼女は走り出した。
直ぐにこちらも追いかける。予想に反して俺たちの距離は簡単には離れなかい。
陸上部といっても走りが専門ではないのかもしれないが、日ごろ運動をしていない人と変わらないというのは違和感がある。
彼女は日本で一位二位を争う選手だ。男女の差を差し引いてもおかしい。
冷静に分析している場合ではない。距離が縮まらないとしても追い付けないのだから見失うのは時間の問題だ。
次第に息が絶え絶えになり足元がおぼつかなくなる。
途端、何かに足を取られて前のめりに倒れ込んだ。
慌てて支倉を確認すると姿が人の波に消えていくのが遠くで見えた。
『ごめん。逃げられた』
『存在感のない音霧くんにどうして気づいたのかしら?』
そんな場合ではないだろうに、常に俺を貶すことは忘れない。
『誰かが支倉に知らせたみたいだった』
『やはりね。今の彼女の精神状態で周りに気を配れると思えないし』
糸杉の言う通りで見かけた支倉は周囲を気を配れるほどの余裕はなさそうだった。
誰かから知らせを受けたことは間違いない。
これで協力者がいることが確定してしまう。それが糸杉の言う通りの相手でなければいいのだが。
だが、誰がこんなことをしているのか。それにこんなことをして何の利益があるというのか。
とりあえず、糸杉と合流して先の事を考えなくてはならない。
焦る俺とは対照的に街を行き交う人は陽気さを増していく。大声で歌いながら千鳥足で歩く男性の気楽さがこちらの気持ちを逆なでする。
ゲラゲラと笑い声をあげながら横に広がり歩く彼らはこちらの行く手を阻んで横断歩道を渡っていく。
赤に変わった信号がこちらの気持ちを急かした。
こうなっては背に腹は代えられない。糸杉に詰られる覚悟で仙都に電話を掛ける。
『どうした?』
「今どこにいる」
『今か。ちょうど黒田根駅に戻ったところだ』
「ちょうどよかった。支倉を見つけたんだけど逃げられた」
『そうか。わかった。オレも探すよ。どの辺だ?』
電話の向こうから先ほどの陽気な歌声と笑い声が聞こえる。
「ちょうど……」
その辺りにいる。そう言おうと視線を前に向けた時、向こう側にパーカーのフードを脱いだ支倉が立っているのが見えた。
『どうした?』
支倉は焦点の合わない目で地面を見つめている。
駄目だ。
その一言が喉の中で空回りするだけで出てこない。
ふと支倉が緩慢な動作で視線を右へ向ける。つられて視線を向けると、一台の乗用車が近づいていた。
「やめろ!」
俺が叫ぶのと同時に支倉はその身を道路へ投げ出していた。
ブレーキの甲高い音に間髪入れず身体と車がぶつかる鈍い音がする。
足元をすくわれるような形の支倉はフロントガラスにその身を打ち付けて人形のように宙を舞う。
あの時と同じ光景に全身が金縛りにあったように動かなくなる。
宙に浮いた支倉の身体が地面に叩きつけられるまでの一瞬の出来事が何倍にも引き延ばされ時間がゆっくりと流れていく。
その場にいる誰もが時間が止まったようにその光景に見入っていた。
女性の悲鳴で間延びした時間が引き締められ再び動き出す。
ざわめきが形を成したように野次馬がうねるように道路に倒れる支倉を囲っていく。
歩行者の信号が青に変わるとこちら側の人たちも光に向かう虫のように吸い寄せられていった。
俺はまだ動けないまま心臓が過剰に血液を全身に供給する。
それらの光景がカメラを通して観ているようで、頬に当たる雨の感覚すら感じられなくなっている。額から滴るのが冷や汗なのか雨なのかわからない。
あの日と同じで感情が抜け落ちていくような感覚になる。
あの日と同じなのだとしたら俺はこの後何をした。何をしなくてはならない。
働かない頭に語り掛け、無理やり身体を動かそうと試みる。
『自分がどうしたいのか。それが大事だよ』
楓の言葉が頭に浮かんだ瞬間、地面に縛られた足が動き出していた。
こうなったことへの自分に対する嘲りや罵りの言葉はいくつも浮かぶけれど、そのどれも今の行動に制限を掛けられるような力はない。
あの日と同じ結末にするわけにはいかない。
人垣から支倉の様子を伺う。彼女は意識を失っているようでうつ伏せのまま動かないでいる。その傍には狼狽して立ち尽くす運転手の姿がある。
これだけ集まって騒いでいるくせに誰も支倉に駆け寄る者はいない。スマホで撮影する者、友人となにがあったのか話している者、非難の視線を向ける者。
誰かがやるだろう。そうした空気が辺りを支配していた。そんな人たちに嫌悪するものの、それを感じている時間すら惜しい。
「きゅ、急に女の子が飛び出して、それで」
狼狽した運転手らしき男すら自らの義務を失念している。
「すみません。通してください」
人垣をかき分けうつ伏せに倒れる支倉の傍らに片膝を立てて肩を叩く。
「大丈夫ですか?」
こちらの問いかけに全く反応を示さない。
衝撃を与えないよう、丁寧に仰向けに体位を変える。頭部の外傷、その他大量の失血箇所はない。足は骨折しているだろうが命にかかわるようなことではない。
胸部の上下運動が見られない事から考えて呼吸をしていない。
移動させることは極力避けるべきだ。
「ハザードランプを付けて後続車の誘導をお願いします」
「え、え? 後続?」
茫然自失していた運転手はこちらの意図を汲めず視線を泳がせ言葉を零す。
「彼女を移動させるのは危険なのでここで応急処置をします。あなたは後続の車に追突されないように誘導をお願いします。こちらは何とかしますから」
「わ、わかった」
運転手は何度も首を縦に振ると車へと引き返していく。本当にわかっているのか不安になるほどに狼狽していたが、近くで騒がれるよりもましだ。
「誰かAEDを」
「持ってきたわよ。既に救急隊への連絡も済ませてある」
AEDを持った糸杉が俺の傍らに立っていた。
「使ったことは」
「ないけど大丈夫。あなたのすべきことをやって」
この子を助けたい。向けられた眼差しから強い意志を感じる。
状況を冷静に把握できている相手がいると非常に助かる。あの時とは状況が違う。今は一人じゃない。
糸杉は俺の向かい側に移動すると、迷うことなくAEDを起動させ、女子の上着のボタンを外していく。
手際が良いところを見るに、こうした経験は初めてではないのかもしれない。
AEDの音声に従いショックを行ない、再び充電が完了するまでの間は心肺蘇生、胸骨圧迫30回に人工呼吸2回を行なう。
肋骨が折れる感覚が掌に伝わるが、ここで躊躇ったら助けることは出来なくなる。
この感覚をもう一度味わうなんて思わなかった。
胸骨圧迫は普段運動をしている人でもかなり疲れる。先ほど走ったこともあって直ぐに息が上がり、汗が額に滲んだ。
「くそっ」
次第に手首が悲鳴を上げ始める。しかし、手を止めるわけにはいかない。
死なせるわけにはいかない。これは自分の為だ。善意十割で行っているわけじゃない。
祈るよう思いで圧迫を続ける。
「代わるわ」
「必要ない」
「でも」
「大丈夫だから」
掌から伝わる命を直接握っている感覚は形容しがたい不安、緊張、恐怖へと変換される。俺はいま支倉の生死に一番近い場所にいる。何もなければ関わることがなかった赤の他人の命を左右している。
こんな感覚を味わうのは自分一人で十分だ。
遠くで聞こえていたサイレンがすぐ近くでその音を止める。
「救急隊です。通してください」
数名の隊員が人をかき分けてこちらに向かってくる。
「ご苦労様です。後はこちらで引き継ぎます」
「お願いします」
これまでの応急処置の内容を簡潔に伝えて下がる。張り詰めていた気持ちが一気に緩み視界がぼやけて来る。
ここから早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
野次馬の集団を縫うようにして抜ける。野次馬たちの視線はパトライトの赤い光に向けられその場から離れる俺を気に掛ける者はいなかった。
少し離れた場所で呼吸を整える。鈍い痛みが広がる手首は震え、抑え込もうと両手を強く手を握っても治まる気配を見せない。
ここにいる意味はもうない。
重い足取りで騒がしいこの場所から逃げる。
気づけば雨は小降りになっている。しばらくすれば止んでしまうだろう。
言いようのない敗北感が俺の肩にのしかかってくる。
このまま帰るような気分になれずにあてもなく歩いた。
あてもなく歩き続ければ自然と足がここに向かっているのは分かっていた。
深夜の公園は奇妙に静まり誰も寄せ付けようとしない。
当然、楓の姿はなかった。寧ろいなくてほっとした。いたら俺は甘えてしまっただろう。
濡れたベンチに腰掛けると、乾き始めていた尻からじわりと冷たさが伝わってくる。
すぐ近くにある横断歩道。信号は赤。
あの日、悲劇はあの場所で起こった。ふと青に変わった横断歩道を渡ってくる人影が見える。
「なんでお前がここに来るんだよ」
「さあ。何となく歩いていたらここについてしまったの」
今は誰とも会いたくないのに、さらに最も会いたくない人間が目の前にいる。
糸杉は躊躇することなく濡れたベンチに腰を掛ける。
何を考えているのか表情を伺うけれど、悲しみを深く刻んだ瞳には何も映らない。
「音霧くんは経験があったの?」
何が。と問う必要はない。態々口に出して言いたくない。
「昔、同じことがあった」
「そう……」
質問の意図を図りかねたが糸杉はそれで納得した様子でそれ以上は聞いてこなかった。
「そういえば仙都に連絡するの忘れてた」
「その辺は問題ないわ。先生への連絡もした」
「悪いな。面倒なことやってもらって」
「平気よ。これくらい。今回、私は役立たずだったもの」
「役立たずだったのはお前だけじゃない」
それに糸杉が役に立たなかったというのは誤りだ。糸杉がいなければ迅速に応急処置を置こうなうことはできなかっただろう。
だからこそ、当時の事を思い出して暗い気持ちになる。
あの時も糸杉のような人がいたら、と。
「そろそろ帰るぞ。風邪ひいたら明日、会長に報告できなくなる」
残念な報告になるがしないわけにはいかない。起こったことを捻じ曲げずに伝える義務が俺たちにはある。
「そうね。どんな誹りも受ける覚悟をしておいた方がいいわ」
「そうだな」
妙なところで意見が合致する。
びしょ濡れになった男女が深夜の公園で二人。そこには敗北感だけが漂っていた。
翌日、幸いにも支倉が一命をとりとめたことを関山先生から聞かされた。
最悪の結果にならなかったが、もっと良い結果に繋げることだって出来たはずだ。糸杉も同じなのだろう。先生が話している間、一言も口を挟まず足元をじっと見つめていた。
結局のところ突発的な自殺として今回も例外なく処理されることだろう。
今度のことで裏で誰かが糸を引いている可能性に懐疑的だった俺の考えは変わった。支倉の意識が戻ればそのことは明るみになることだろう。
そしてこの事態に陥ったことに対して、誰も俺たちを責める者はいなかった。
理不尽でも、八つ当たりでも、なんでもいい。誰か一人でも俺たちの所為にしてくれる人がいたのなら、少しはこの重みから解放されるのかもしれない。