陸上部が活動をしているグラウンドへ向かうと、隅に人だかりが出来ていた。既にトラブルは起こっている様子で、他の部活の部員も数名が気にするように人だかりに視線を向けている。
おそらくあの中心に糸杉がいることだろう。
あいつはいつだって相手の神経を逆なでするようなことをする。今回もそうに違いない。
「言いがかりはよしてもらえるか?」
「私は一つの可能性を話しているの」
糸杉と部長と思われる大柄な男子、双方とも腕を組んで剣呑な雰囲気を出している。周りの部員数名も糸杉に敵対する視線を向けていた。集まってくる他の部員を遠ざけようとする生徒はいるものの、二人を宥めてその場を収めようとする者は誰もいない。
「一人ずつ話を聞くくらい問題ではないでしょ」
「その必要はない」
「なぜ?」
「陸上部の中でそんな奴がいるわけがないからな」
部長の言葉に周りの部員も賛同するように頷く。
「そうやって同調圧力で口を塞いでいるのがわからないの?」
案の定、糸杉は陸上部を挑発して本音を引き出そうとしている。こういうところは全く成長しない。これでは余計に頑なになるだけだ。
「糸杉それ以上は辞めた方がいい」
俺の制止も無視して糸杉は続ける。
「もしかしてそれが狙い? そうすれば裏での行いが明るみに出ないものね」
「お前はどうしても俺たちが裏で何かをしたと思いたいらしいな」
「先ほども言ったけれど一つの可能性の話をしているの。ここまで話の分からない人がトップだと組織も駄目になるわ。早々に引退する方が部の為じゃないかしら」
「何も知らないくせに」
「失礼だろ」
「謝れ!」
部長を馬鹿にされた部員たちが詰め寄る勢いで騒ぎ始める。これ以上は話し合いが出来るような雰囲気ではない。
「帰るぞ。これ以上はお互いに無意味だ」
「そうね」
ようやく引き下がった糸杉は俺たちに怒りをむき出しにする部員たちに余計な一言を放つ。
「こうやって支倉さんも追い込んだのかしら」
ぎりぎりのところで耐えていた部員たちだったがついにそのうちの一人が耐えられなくなる。
「いい加減にしろよ!」
糸杉に詰め寄る男子部員との間に割って入るとそのままの勢いで頬を殴られる。
「部外者のくせに」
態勢を崩してよろめいたところを、胸倉をつかまれ無理やり立たされる。首が絞められて息が出来なくなる。力の差が歴然で抵抗する暇などない。
「支倉は俺たち弱小陸上部の希望だったんだ。あいつがいなかったら俺たちはこうしてグラウンドを使わせてもらうことなんて出来なかった。そんなことも知らないで、俺たちが支倉を追い詰めただと。ふざけるな!」
「やめろ!」
拳を振り上げる男子部員に向けて水がかけられる。必然的に俺も水がかかった。
「支倉の帰る場所をなく気か!」
部長の一喝がグラウンド中に響き渡り、こちらを気にしながらも活動を続けていた他の部も中断を余儀なくされた。
「すみませんでした……」
部長の喝がよほど効いたのか、びしょびしょに濡れた男子部員は胸倉から手を放して引き下がる。息のできない苦しさから解放されるが、濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。
「申し訳ない。責任は部長の俺にある」
「殆どこちらの所為なので気にしないでください」
深々と頭を下げる部長にこちらも頭を下げると、教師たちが来る前にその場から立ち去る。
「行くぞ」
呆然としていた糸杉の腕を引くと先ほどまでの頑なさが嘘のようにあっさりとついてくる。その軽さに心配になって振り向くと糸杉は普段とは違った瞳の色でこちらを見つめていた。
「なんだよ。文句があるのか?」
「いえ……血が……」
確かに口の中が鉄の味がする。それに気づいた途端、悶絶するほどの痛みに襲われた。
丁度そこへ教師数名が騒ぎを聞きつけて駆け付ける。その中には関山先生の姿もあった。
「大丈夫か?」
「めちゃくちゃ痛いです」
「そこは男らしく大丈夫くらい言えないのか」
俺の正直な感想にあきれ顔の先生だが、そういう考えは時代遅れだ。男であろうとも痛いものは痛い。
「死ぬほど痛いですけど、大事にしないでくださいよ。悪いのはこちらですし」
手を挙げたことは非難されるべきことだ。しかし、そう仕向けたのは糸杉なのだからあちらだけ罰を受けるのは忍びない。
「わかっている。事情を聞いて注意をするだけだ。音霧は保健室で治療して貰え。ついでに洗濯機も借りるといいだろうな。糸杉は音霧の体育着を持ってこい。それくらいはしてやれ」
「……はい」
強い風も吹けば飛んで消えてしまいそうなほどの弱々しい声で糸杉は返事をする。
反省の色を見せている糸杉を見て、案外こいつも普通なのだと感じてしまった。
俺たち以外に誰もいない保健室には洗濯機が回る音だけが空しく響いている。
鏡を見ての自己判断に過ぎないが、唇を切ったくらいで怪我の具合は大したことはなさそうであった。大きく腫れることもないだろう。
適当に要した氷嚢で冷やすと痛みが次第に和らいでくる。
糸杉は洗濯機の傍でこちらに背を向けて立っている。その背中は先日見せたものと同じだった。
こんな姿は見たくない。見せられてしまったら嫌でも考えさせられてしまう。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって」
すんなり謝罪されたことの居住まいの悪さといったらこの上ない。それに謝る相手は俺ではない。俺は勝手に割り込んで怪我をしただけ。本当ならもっと早く無理やりにでも糸杉をあの場から引き離す方法もあった。
それをしなかったのは僅かにでも彼らを疑っている気持ちがあったからだ。
それならば俺も同罪だろう。
「もう少し賢いやり方があっただろ」
糸杉は黙っていれば容姿は良いのだ。クラスでしているように少し偽って相手のペースに合わせれば、聞きたいことは勝手に向こうが話してくれる。
「悠長なことをしていられないでしょ。それに……」
僅かに逡巡して言葉を切った後、諦めたように言葉を紡ぐ。
「私はこのやり方しか知らないから」
糸杉の言葉がすとんと身体の内側に落ちていく。こいつは出会った時からそうであった。相手の本音さえ聞ければ自分はどう思われても構わない。目的のためには自分を犠牲にすることを厭わない。
嫌われることが平気ということではなく、嫌われる方法しか知らない。
そうなってしまうほどの事が糸杉にあったということなのだろう。
「もうあんなことするなよ」
「ええ。そうね」
妙に素直だな。なんて思ったのもつかの間。
「盾がこんなに貧弱では危ないものね」
さっきまでの態度はどこへ消えてしまったのだろう。反省の時間は終了したようで今度はこちらを攻めにかかる。
「まさかあんなに弱いなんて思わなかった。ボロ雑巾のように弄ばれた挙句に濡れネズミ状態。恥ずかしくて目を背けてしまったわ」
開いた口が塞がらない。いったいどの口がそれを言っているのか。
「俺がいなかったらお前がそうなってたんだぞ」
「それこそ大事にすると脅して本当のことを聞くつもりだったわ」
あたかも余計なことをしてくれたと言わんばかりの言い方。それに彼らが本当のことを言っていない前提で話をするのだから余計にたちが悪い。
「自分の考えに固執するのをどうにかした方がいいと思うぞ。この前のこと忘れたわけじゃないだろ」
「そうね……」
小紫の件を引き合いに出すと雄弁だった口が途端に塞がる。
目的を前にして冷静さを欠いているように見える。
「あの人たちは嘘を言っていない」
「それくらい私にでもわかったわ。だから音霧くんに謝ったの。私のしたことは無意味だったわけだから」
「それがそうでもない」
殴られて頭がおかしくなってしまったのか可哀想。みたいな顔をされる。
「陸上部は支倉にかなり頼っていた。それも部の存続がかかっているほどに。一年生の彼女がそれを重荷に感じていても不思議じゃない」
「けれど彼女は責任感の強い生徒よ。それくらいで投げ出すとは思えないわ」
「責任が果たせなくなる事態になったとしたら?」
俺の問いかけに糸杉は黙って顎に手を当てて考え込む。
「音霧くんにしてはなかなか言い着眼点ね」
「素直に褒められないのかよ」
責任感の強い支倉はその責任を果たせなくなる何かを抱えていた。それを知らない周りの人間は彼女にさらなる期待を押し付ける。良心の呵責に耐えられなくなった心の糸は遂に切れてしまった。
大筋はこれであっていると思う。
責任感の強い人間ほど糸が切れてしまうまで周りに言えないでいるもの。今の支倉がその状態なのだとしたら取り返しのつかないことになる前に見つけなくてはならない。しかし支倉の精神状態がわかったところで居場所がわかるわけではない。
「こんなこと言いたくはないが、既にってことはないか?」
「それはないわね。その選択をするときは一連の事故と同じ方法を選ぶはずよ」
「どうしてそれが言い切れる」
俺の問いかけに糸杉は悲しみを深く刻んだ瞳をこちらに向ける。
「だってこの町にはそういう空気が流れているでしょ」
深い悲しみを刻んだ瞳が僅かに微笑む。
「こういう空気は容易に伝播する。それに……」
わざと言葉をそこで切ってから、悲哀の色が刻まれた瞳でこちらを睨む。
「そうするように手引きしている人間がいるもの」
糸杉は一連の事故には裏があると思っている。おそらくこの依頼を引き受けたのも真相に近づけると考えたからだ。
支倉が自殺をする前に保護して問い詰めるつもりなのだろう。本当にそんな人間がいるのか。それを知っていったい何をする気なのか。
「糸杉の本当の目的は何なんだ?」
「初めに言っているじゃない。私は深く刻みたいの」
何を、誰に、どうした方法で刻もうとしているのか。聞きたいことは次々と湧き出てくる。
ただそれを聞いたところで糸杉が素直に答えるわけがない。
そうこうしている内に時間は過ぎていき空気の重たさに口ら開けなくなる。
「ずいぶん派手にやられていたけど大丈夫か?」
重い空気を吹き飛ばすように陽気な声が夕暮れの保健室に響く。
「仙都か。もう少し静かに入ってきてくれ」
「なんだ。二人きりの時間を邪魔されて拗ねてるのか?」
俺たちの間に入って茶化すように俺たちを交互に見る。
「冗談でもそれはきついぞ」
「そうね。不愉快よ」
仙都が入ってきた途端に糸杉の機嫌が悪くなる。それを仙都が感じ取れないわけもなく、作った笑顔が次第に引きつっていく。
「ま、冗談はそこまでにしよう。支倉のことで動いてくれてるんだろ。俺も手伝うよ。学校に来ていないのは何となくわかってたし」
仙都は支倉から相談を持ち掛けられていた唯一の人物だ。グラウンドであれだけ騒げば察してもおかしくない。
手がかりが何もない以上、手当たり次第に調べることになる。仙都を巻き込むのはあまり気が進まないが人では多い方がいい。
「結構よ」
しかし、俺の考えとは裏腹に糸杉は仙都の提案を無下に断る。言葉にははっきりと拒絶の意志が込められていた。
「あなたがいると邪魔だから」
「オレは糸杉さんと話してないよ。聡に話してるんだ」
仙都は明らかに挑発するような話し方をする。
「それに君が見つけても意味がないだろ。説得が出来るのか?」
仙都の言う通りだ。糸杉は人を挑発して焚きつけることは出来るけれど、説得をして思い留まらせることは苦手だ。
「それなら別行動にしましょう。あなたがいると見つけられそうにないもの」
「別行動には賛成だな。糸杉さんは余計なことをするからその方がいい」
二人とも微笑みながら話しているけれど、目が笑っておらず互いに鋭い眼光のぶつけあいをしている。保健室の空気は少しの火花でも爆発しそうなほどである。
そこへちょうど洗濯機が洗濯完了の音を鳴らす。陽気なその音はスタートの合図のように睨み合って動かなかった二人を動かした。
「それじゃ俺は着替えてくるから聡も準備しててくれ」
それまでの一触即発の雰囲気が嘘のように朗らかな笑顔を俺に向けて颯爽と保健室を出ていく。
「越水くんは昔からあんな感じ?」
「そうだけど、それが何か?」
「胡散臭いと思っただけよ。全てが嘘に見える」
仙都の事をそんな風に見たことは一度もなかった。あいつは昔から周りを巻き込んで率いてくような奴で、あんなことがあった後でも俺と違って狂ってしまうことはなく現実を生きている。
「音霧くんは彼の子守をお願い。雨が降り出す前に探し出さないと」
糸杉の焦る気持ちもわかる。昨日も今日も予報は雨を示していた。
しかし、最近は雨の予報が的中しない日が続いている。今日も夕方からの雨予報なのだが雨は一向に降りそうにりそうにない。まるで誰かが雨を降らせないようにしているみたいだ。
「今日もこのまま予報が外れて雨が降らなければいいのにな」
「そうね。あの日もそうであったらよかったのに」
思わず零れてた糸杉の言葉は悔恨だけではなく、別の感情も混ざっているように見えた。
「彼が戻ってくる前にさっさと行くわ」
どういう意味だとこちらが問いかける前に逃げるようにして保健室を出ていく。
残された俺はしばらく呆然と糸杉が出ていった方向を見ることしかできなかった。
俺は言い訳のしようがないほどに糸杉に気を取られている。
おそらくあの中心に糸杉がいることだろう。
あいつはいつだって相手の神経を逆なでするようなことをする。今回もそうに違いない。
「言いがかりはよしてもらえるか?」
「私は一つの可能性を話しているの」
糸杉と部長と思われる大柄な男子、双方とも腕を組んで剣呑な雰囲気を出している。周りの部員数名も糸杉に敵対する視線を向けていた。集まってくる他の部員を遠ざけようとする生徒はいるものの、二人を宥めてその場を収めようとする者は誰もいない。
「一人ずつ話を聞くくらい問題ではないでしょ」
「その必要はない」
「なぜ?」
「陸上部の中でそんな奴がいるわけがないからな」
部長の言葉に周りの部員も賛同するように頷く。
「そうやって同調圧力で口を塞いでいるのがわからないの?」
案の定、糸杉は陸上部を挑発して本音を引き出そうとしている。こういうところは全く成長しない。これでは余計に頑なになるだけだ。
「糸杉それ以上は辞めた方がいい」
俺の制止も無視して糸杉は続ける。
「もしかしてそれが狙い? そうすれば裏での行いが明るみに出ないものね」
「お前はどうしても俺たちが裏で何かをしたと思いたいらしいな」
「先ほども言ったけれど一つの可能性の話をしているの。ここまで話の分からない人がトップだと組織も駄目になるわ。早々に引退する方が部の為じゃないかしら」
「何も知らないくせに」
「失礼だろ」
「謝れ!」
部長を馬鹿にされた部員たちが詰め寄る勢いで騒ぎ始める。これ以上は話し合いが出来るような雰囲気ではない。
「帰るぞ。これ以上はお互いに無意味だ」
「そうね」
ようやく引き下がった糸杉は俺たちに怒りをむき出しにする部員たちに余計な一言を放つ。
「こうやって支倉さんも追い込んだのかしら」
ぎりぎりのところで耐えていた部員たちだったがついにそのうちの一人が耐えられなくなる。
「いい加減にしろよ!」
糸杉に詰め寄る男子部員との間に割って入るとそのままの勢いで頬を殴られる。
「部外者のくせに」
態勢を崩してよろめいたところを、胸倉をつかまれ無理やり立たされる。首が絞められて息が出来なくなる。力の差が歴然で抵抗する暇などない。
「支倉は俺たち弱小陸上部の希望だったんだ。あいつがいなかったら俺たちはこうしてグラウンドを使わせてもらうことなんて出来なかった。そんなことも知らないで、俺たちが支倉を追い詰めただと。ふざけるな!」
「やめろ!」
拳を振り上げる男子部員に向けて水がかけられる。必然的に俺も水がかかった。
「支倉の帰る場所をなく気か!」
部長の一喝がグラウンド中に響き渡り、こちらを気にしながらも活動を続けていた他の部も中断を余儀なくされた。
「すみませんでした……」
部長の喝がよほど効いたのか、びしょびしょに濡れた男子部員は胸倉から手を放して引き下がる。息のできない苦しさから解放されるが、濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。
「申し訳ない。責任は部長の俺にある」
「殆どこちらの所為なので気にしないでください」
深々と頭を下げる部長にこちらも頭を下げると、教師たちが来る前にその場から立ち去る。
「行くぞ」
呆然としていた糸杉の腕を引くと先ほどまでの頑なさが嘘のようにあっさりとついてくる。その軽さに心配になって振り向くと糸杉は普段とは違った瞳の色でこちらを見つめていた。
「なんだよ。文句があるのか?」
「いえ……血が……」
確かに口の中が鉄の味がする。それに気づいた途端、悶絶するほどの痛みに襲われた。
丁度そこへ教師数名が騒ぎを聞きつけて駆け付ける。その中には関山先生の姿もあった。
「大丈夫か?」
「めちゃくちゃ痛いです」
「そこは男らしく大丈夫くらい言えないのか」
俺の正直な感想にあきれ顔の先生だが、そういう考えは時代遅れだ。男であろうとも痛いものは痛い。
「死ぬほど痛いですけど、大事にしないでくださいよ。悪いのはこちらですし」
手を挙げたことは非難されるべきことだ。しかし、そう仕向けたのは糸杉なのだからあちらだけ罰を受けるのは忍びない。
「わかっている。事情を聞いて注意をするだけだ。音霧は保健室で治療して貰え。ついでに洗濯機も借りるといいだろうな。糸杉は音霧の体育着を持ってこい。それくらいはしてやれ」
「……はい」
強い風も吹けば飛んで消えてしまいそうなほどの弱々しい声で糸杉は返事をする。
反省の色を見せている糸杉を見て、案外こいつも普通なのだと感じてしまった。
俺たち以外に誰もいない保健室には洗濯機が回る音だけが空しく響いている。
鏡を見ての自己判断に過ぎないが、唇を切ったくらいで怪我の具合は大したことはなさそうであった。大きく腫れることもないだろう。
適当に要した氷嚢で冷やすと痛みが次第に和らいでくる。
糸杉は洗濯機の傍でこちらに背を向けて立っている。その背中は先日見せたものと同じだった。
こんな姿は見たくない。見せられてしまったら嫌でも考えさせられてしまう。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって」
すんなり謝罪されたことの居住まいの悪さといったらこの上ない。それに謝る相手は俺ではない。俺は勝手に割り込んで怪我をしただけ。本当ならもっと早く無理やりにでも糸杉をあの場から引き離す方法もあった。
それをしなかったのは僅かにでも彼らを疑っている気持ちがあったからだ。
それならば俺も同罪だろう。
「もう少し賢いやり方があっただろ」
糸杉は黙っていれば容姿は良いのだ。クラスでしているように少し偽って相手のペースに合わせれば、聞きたいことは勝手に向こうが話してくれる。
「悠長なことをしていられないでしょ。それに……」
僅かに逡巡して言葉を切った後、諦めたように言葉を紡ぐ。
「私はこのやり方しか知らないから」
糸杉の言葉がすとんと身体の内側に落ちていく。こいつは出会った時からそうであった。相手の本音さえ聞ければ自分はどう思われても構わない。目的のためには自分を犠牲にすることを厭わない。
嫌われることが平気ということではなく、嫌われる方法しか知らない。
そうなってしまうほどの事が糸杉にあったということなのだろう。
「もうあんなことするなよ」
「ええ。そうね」
妙に素直だな。なんて思ったのもつかの間。
「盾がこんなに貧弱では危ないものね」
さっきまでの態度はどこへ消えてしまったのだろう。反省の時間は終了したようで今度はこちらを攻めにかかる。
「まさかあんなに弱いなんて思わなかった。ボロ雑巾のように弄ばれた挙句に濡れネズミ状態。恥ずかしくて目を背けてしまったわ」
開いた口が塞がらない。いったいどの口がそれを言っているのか。
「俺がいなかったらお前がそうなってたんだぞ」
「それこそ大事にすると脅して本当のことを聞くつもりだったわ」
あたかも余計なことをしてくれたと言わんばかりの言い方。それに彼らが本当のことを言っていない前提で話をするのだから余計にたちが悪い。
「自分の考えに固執するのをどうにかした方がいいと思うぞ。この前のこと忘れたわけじゃないだろ」
「そうね……」
小紫の件を引き合いに出すと雄弁だった口が途端に塞がる。
目的を前にして冷静さを欠いているように見える。
「あの人たちは嘘を言っていない」
「それくらい私にでもわかったわ。だから音霧くんに謝ったの。私のしたことは無意味だったわけだから」
「それがそうでもない」
殴られて頭がおかしくなってしまったのか可哀想。みたいな顔をされる。
「陸上部は支倉にかなり頼っていた。それも部の存続がかかっているほどに。一年生の彼女がそれを重荷に感じていても不思議じゃない」
「けれど彼女は責任感の強い生徒よ。それくらいで投げ出すとは思えないわ」
「責任が果たせなくなる事態になったとしたら?」
俺の問いかけに糸杉は黙って顎に手を当てて考え込む。
「音霧くんにしてはなかなか言い着眼点ね」
「素直に褒められないのかよ」
責任感の強い支倉はその責任を果たせなくなる何かを抱えていた。それを知らない周りの人間は彼女にさらなる期待を押し付ける。良心の呵責に耐えられなくなった心の糸は遂に切れてしまった。
大筋はこれであっていると思う。
責任感の強い人間ほど糸が切れてしまうまで周りに言えないでいるもの。今の支倉がその状態なのだとしたら取り返しのつかないことになる前に見つけなくてはならない。しかし支倉の精神状態がわかったところで居場所がわかるわけではない。
「こんなこと言いたくはないが、既にってことはないか?」
「それはないわね。その選択をするときは一連の事故と同じ方法を選ぶはずよ」
「どうしてそれが言い切れる」
俺の問いかけに糸杉は悲しみを深く刻んだ瞳をこちらに向ける。
「だってこの町にはそういう空気が流れているでしょ」
深い悲しみを刻んだ瞳が僅かに微笑む。
「こういう空気は容易に伝播する。それに……」
わざと言葉をそこで切ってから、悲哀の色が刻まれた瞳でこちらを睨む。
「そうするように手引きしている人間がいるもの」
糸杉は一連の事故には裏があると思っている。おそらくこの依頼を引き受けたのも真相に近づけると考えたからだ。
支倉が自殺をする前に保護して問い詰めるつもりなのだろう。本当にそんな人間がいるのか。それを知っていったい何をする気なのか。
「糸杉の本当の目的は何なんだ?」
「初めに言っているじゃない。私は深く刻みたいの」
何を、誰に、どうした方法で刻もうとしているのか。聞きたいことは次々と湧き出てくる。
ただそれを聞いたところで糸杉が素直に答えるわけがない。
そうこうしている内に時間は過ぎていき空気の重たさに口ら開けなくなる。
「ずいぶん派手にやられていたけど大丈夫か?」
重い空気を吹き飛ばすように陽気な声が夕暮れの保健室に響く。
「仙都か。もう少し静かに入ってきてくれ」
「なんだ。二人きりの時間を邪魔されて拗ねてるのか?」
俺たちの間に入って茶化すように俺たちを交互に見る。
「冗談でもそれはきついぞ」
「そうね。不愉快よ」
仙都が入ってきた途端に糸杉の機嫌が悪くなる。それを仙都が感じ取れないわけもなく、作った笑顔が次第に引きつっていく。
「ま、冗談はそこまでにしよう。支倉のことで動いてくれてるんだろ。俺も手伝うよ。学校に来ていないのは何となくわかってたし」
仙都は支倉から相談を持ち掛けられていた唯一の人物だ。グラウンドであれだけ騒げば察してもおかしくない。
手がかりが何もない以上、手当たり次第に調べることになる。仙都を巻き込むのはあまり気が進まないが人では多い方がいい。
「結構よ」
しかし、俺の考えとは裏腹に糸杉は仙都の提案を無下に断る。言葉にははっきりと拒絶の意志が込められていた。
「あなたがいると邪魔だから」
「オレは糸杉さんと話してないよ。聡に話してるんだ」
仙都は明らかに挑発するような話し方をする。
「それに君が見つけても意味がないだろ。説得が出来るのか?」
仙都の言う通りだ。糸杉は人を挑発して焚きつけることは出来るけれど、説得をして思い留まらせることは苦手だ。
「それなら別行動にしましょう。あなたがいると見つけられそうにないもの」
「別行動には賛成だな。糸杉さんは余計なことをするからその方がいい」
二人とも微笑みながら話しているけれど、目が笑っておらず互いに鋭い眼光のぶつけあいをしている。保健室の空気は少しの火花でも爆発しそうなほどである。
そこへちょうど洗濯機が洗濯完了の音を鳴らす。陽気なその音はスタートの合図のように睨み合って動かなかった二人を動かした。
「それじゃ俺は着替えてくるから聡も準備しててくれ」
それまでの一触即発の雰囲気が嘘のように朗らかな笑顔を俺に向けて颯爽と保健室を出ていく。
「越水くんは昔からあんな感じ?」
「そうだけど、それが何か?」
「胡散臭いと思っただけよ。全てが嘘に見える」
仙都の事をそんな風に見たことは一度もなかった。あいつは昔から周りを巻き込んで率いてくような奴で、あんなことがあった後でも俺と違って狂ってしまうことはなく現実を生きている。
「音霧くんは彼の子守をお願い。雨が降り出す前に探し出さないと」
糸杉の焦る気持ちもわかる。昨日も今日も予報は雨を示していた。
しかし、最近は雨の予報が的中しない日が続いている。今日も夕方からの雨予報なのだが雨は一向に降りそうにりそうにない。まるで誰かが雨を降らせないようにしているみたいだ。
「今日もこのまま予報が外れて雨が降らなければいいのにな」
「そうね。あの日もそうであったらよかったのに」
思わず零れてた糸杉の言葉は悔恨だけではなく、別の感情も混ざっているように見えた。
「彼が戻ってくる前にさっさと行くわ」
どういう意味だとこちらが問いかける前に逃げるようにして保健室を出ていく。
残された俺はしばらく呆然と糸杉が出ていった方向を見ることしかできなかった。
俺は言い訳のしようがないほどに糸杉に気を取られている。