部室に入ると事務用の机に向かって糸杉がスマホで動画を見ていた。

――午後7時頃、黒田根市の路上で38歳の会社員が運転する乗用車が女性をはね、女性は運ばれた病院で死亡が確認されました。死亡したのは市内の高校に通う女子生徒16歳で、運転手の証言などから自殺の可能性が高いとみられるが遺書は見つかっておらず、警察は事故と自殺、両方面から捜査していく方針です――

 俺が入ってきたことに気づいているにも関わらず無視して動画を再生し続ける。

「その事故がどうかしたのか?」

 ゆっくりとした動作でこちらに振り返る糸杉は、いつものように悲哀の色を深く刻んだ瞳で俺を見る。

「この事件、小紫さんの一件があった日に起こっているのよ」

 霧のような雨が降ったあの日。この町でまた一つの命が消えていた。最近はこんなことが多発している。ニュースを見ないようにしている俺の耳にすら届くほどだ。

「あの日にあったから何なんだ?」
「別に……」

 糸杉が言葉を飲み込むなんて珍しい。今日は雪でも降るんじゃないだろうか。

 以前にも糸杉は事故について言及していた。

 もし糸杉の目的が多発する事故に関係しているのだとして何がしたのか。自殺する人間を救いたいなんて大仰なことを言い出すわけがあるまい。そうでないことは悲哀の色を深く刻んだ瞳が証明している。

 あの日の事で思い出したが、俺は重要なことを聞きそびれていた。

「聞いてなかったけど、どうしてあんな指示を出したんだ? よく考えてみたら谷中さんを誘き出すにしては過激すぎる。他の目的は何だったんだ?」

 もし俺が指示通りに動いたとして直ぐに止められる位置にいたとしても、糸杉は谷中さんの真意を知らなかった。小紫を囮に誘い出すことは確実性がない。だとしたら何のためにあんな指示を出したのか。

 それに俺が指示を無視していたら何も起こらずに終わってしまう。

 実現の可能性が著しく低いことを糸杉がするだろうか。

「それに関して音霧くんには申し訳ないと思っているわ」

 糸杉の口から謝罪の言葉出るなんて槍が降るのではないだろうか。

「何に対する謝罪だ?」
「あなたを疑っていたことよ」
「何の疑いだ?」
「事件の」
「どの事件だ?」

 まるで会話が噛み合わない。それもそうなのだろう。俺と糸杉はきっとまるで違う方向を見て話している。

「女性生徒が道路へ飛び出す事件よ」
「あれは事故だろ」
「そうかしら? いくら何でも件数が多すぎるわ。それに共通点も多い。雨の日、女子生徒、道路に飛び出す。本当に飛び出しているの?」
「まさか誰かが突き飛ばしてるとでも言いたいのかよ」
「その可能性もゼロではないでしょ。雨の日なのは傘で姿を隠すため、女子生徒は力の弱い立場だから」

 糸杉が上げる理由は確かに一理あるが、だとしたら警察がすでに動いているはず。それに遺書が見つかっている事例もある。
 こいつの言っていることは荒唐無稽だ。

「それで俺が疑われた理由は?」
「言った方がいい?」

 悲哀の色を深く刻んだ瞳、その奥に違う色が少しだけ見えたのを見逃さない。こいつはいま確かに笑った。

「言わなくていい」

 思い当たる節がないわけでもない。

「もし仮に糸杉の言う通りだったとして、そんな奴人間じゃない。狂ってる」
「そうね。あなたは普通の人間だった」

 さっきから会話に距離を感じる。これはきっと気のせいではない。

「それじゃもう行くから。戸締りはよろしく」

 こちらに興味がなくなったと言わんばかりに、部室から出ていこうとする糸杉の腕を掴む。違和感をそのままにすることに居心地の悪さがあった。

「早く帰った方がいいわよ。雨が降りそうだし」

 糸杉は腕を振り払おうとするが、俺の腕はそう簡単には離れない。

「生徒会長から何を頼まれた」
「簡単な探し物よ」
「何の探し物だ」

 しつこくすがる俺に珍しく瞳に感情を乗せた糸杉は忌々しく睨む。だが、すぐにいつもの悲哀の色に戻すと吐き捨てるように言った。

「行方不明の生徒の捜索と保護よ」

 どこが簡単な探し物だ。それに物ですらない。

 散々振り回しておきながらここにきて除け者にされることに苛立ちを覚えた。

「これこそ警察の出番だろう。どうしてここに依頼に来たんだ?」

 糸杉は説明を求められたことにうんざりしているのか、それとも察せない俺に嫌気がさしているのか、握られた腕を振りほどきながらこれ見よがしにため息をつく。

「私が説明しよう」

 狙ったようなタイミングで関山先生が扉を開けて颯爽と入ってくる。

「盗み聞きですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。それと珍しく音霧がやる気なのだからちゃんと説明してやらないと可哀想だろう」

 非難の視線を受け流しながら糸杉をソファーへと誘導していく。

「その子は生徒会長の友人で近所に住む後輩なんだ。先日から学校を休んでいたのだが、どうやら突然行方をくらましたらしい。警察に届けるべきだと言ったのだが、親や学校は大事にはしたくないみたいでな」

 先生は唇を噛みながら足元を睨む。

「そこで君たちの出番というわけだ。勘違いしてほしくないが君たちだけに任せる気なんてない。警察には私個人で掛け合うつもりだ。もちろん私も時間を空けて捜索する」

 もはや慈善活動だとか生易しい話ではなくなっている。

「本気でやるつもりなのか?」
「もちろんよ。困っている人を放っておけないもの」

 これほど嘘だとわかる言葉は他にはない。糸杉は今回の件が一連の事故につながる可能性を考えているから協力しているのだ。

 何が糸杉をそこまでさせるのか。この町で起こっている事故に何があるのか。

「それにここは慈善活動部でしょ」

 嘘だらけの言葉を先生だって見抜いているはずだが、今は協力を得られるのであればどうでもいいのかもしれない。

「便利な言葉だな」
「どう思われても構わないわよ」

 嫌味を涼しい顔で返されてしまう。

「それで顔と名前は?」

 俺の一言に室内の空気か凍ったように止まってしまう。目の前に視線を向けると、糸杉が目を丸くしている。

「なんか変なこと言ったか?」
「別に。やけに協力的だと思っただけよ。気持ち悪い」
「言葉尻に性格の悪さが滲み出てるぞ」
「音霧くんになら別に構わないでしょ」

 視線をスマホに移してつまらなそうにつぶやく。

「音霧もついに部員として自覚が芽生えてきたようだな」

 関山先生は俺の肩を掴んで今にも泣きだしそうなほど感動している。

 最近では抵抗しても無駄という考えが刷り込まれて早くことを済ませてしまおうと思うようになっている。

 環境に適応しすぎてしまった結果だった。

「今回は状況が状況ですから。四の五の言っていられないじゃないですか」

 俺はまだ仮入部の身だ。あと一週間すれば俺はこの部とは関係がなくなる。

「茶番は終わったかしら?」
「先生の感動を茶番とかいうなよ」
「音霧くんの無駄な抵抗を茶番と言ったのよ」

 冷たい視線を向けながらスマホをこちらに向けてくる。

「会長の隣のいるのが家出中の支倉(はせくら)あざみさんよ」

 スマホには微笑む生徒会長に抱き着いて無邪気な笑顔を見せる女子生徒が写っている。背が高くまるで大型犬が主人にじゃれついているようだ。

 健康的に日焼けた肌とくせ毛のショート髪が彼女の活発さを体現している。

「ちなみに一年生よ」
「これで一年か」

 背が高いから会長と同じ三年生と勘違いしていた。
 
 それなりの恰好をしてしまえば大学生と言われても疑われないだろう。

 漫画喫茶くらいなら数日は潜伏していても怪しまれることはなさそうだ。

 もう一度支倉あざみをまじまじと見つめる。

「どこかで見た覚えがあるような気が……」

 糸杉が何かを言いたそうにこちらを見るが、いくら待っても口を開くことはなかった。

「何か言いたいことでもあるのか?」
「見た覚えがあるなんて適当なことを言っていると思っただけよ。それにあなた人の顔覚えられるの?」

 俺のことを心底馬鹿にしているような物言いだが、実際のところ人の顔を覚えるのは苦手なので反論することができない。

「彼女は優秀な陸上選手で朝礼でも表彰されているし、将来の陸上界を背負うと取材も受けている。音霧に見覚えがあるのはおかしなことじゃないぞ」

 関山先生が割って入るようにこちらの味方をしてくれるが、俺が見た覚えがあるのはそこではない気がする。

「それでは支倉さんについて教えていただきますか?」

 糸杉はこともなげに尋ねる。

「やはり一流の選手だけあって一年生であるが責任感の強い性格で皆からも頼りにされている。生活態度は良好で彼女を悪く言う人間は教師を含めて誰もいなかった。不登校の件で色々と聞いて調べたが、不登校になる直前は思いつめた様子だっただけで、これといって原因となるようなことは起こっていない」
「教師側からでは見えないこともありますからね」

 黙って聞いていた糸杉がぽつりと呟く。

 つまりいじめということだろう。

「支倉さんはまだ一年生です。上級生からの嫉妬がその行為に至ってしまってもおかしくはない。それに生徒間で口裏を合わせてしまえば表に出ることはありませんからね」

 相変わらず糸杉はこの世には悪人しかいないと言いたげだ。

「それはないと思いたいが……可能性としてはありうる」

 神妙な面持ち話す二人だが、その可能性は万に一つもないように思えた。支倉は将来陸上界を背負うほどの選手だ。そこまでの実力ならば嫉妬は生まれにくい。寧ろ周りの人間は彼女の事を虎の威を借りように誇っているはずだ。わずかな嫉妬心を表に出せば虐げられるのはこちら側。圧倒的な実力は意図せずにそういう空気を作り出す。

 俺の近くにもそういう人間がいるからわかる。

 そうは思っているものの余計なことを挟もうものなら大怪我しそうな雰囲気なので、疎外感を覚えながら二人の会話をおとなしく聞く。これもまた圧倒的な力の差が作り出す空気だ。

「クラスの方はどうですか?」
「担任や仲の言い生徒に事情を聴いたが問題は確認されていない。むしろ彼女は悩みを聞く側で話す側ではなかった」
「なるほど。まるでどこかの誰かさんね」

 糸杉が俺に目配せをする。珍しく意見が一致したことに驚嘆する。

 仙都の姿を思い浮かべると、ふとあの日の光景が蘇る。

 薄暗い教室で仙都と話していた女子生徒、あれが支倉あざみだ。あの時の彼女は写真からでは想像できないほどに気落ちしていた。

「そういうわけで申し訳ないが小紫の時のように力になれそうにないな」

 小紫のように? 

 こちらが疑問の視線を向けると糸杉は合った目を逸らして何事もないように話し始める。

「小紫さんの事情は先生から聞いて全て知っていたわ。でも、実の親がこんなに近くにいるなんて知らなかったけれど」
「私の情報も万能ではないからな」

 生徒のプライバシーを平気で話すなんてどうかしている。しかもこんな奴に。

 こんなことが明るみになったら先生だってただでは済まされない。

「そんなぬるいことを言っているから女性に関節技を決められるのよ」
「まだ何も言っていないし、あれはお前があんな指示を出すからだそっちに気を取られて」
「言い訳が上手い人間は碌な大人にならないわよ」

 碌な大人にならないのはそっちの方だ。直ぐに他人を悪者扱いするし、見下す。こんな上司がいたら即刻パワハラで訴えている。

「あんな体たらくでよく小紫さんを守れると思ったわね」

 糸杉は立ち上がると荷物を持たずに部室を出ていこうとする。

「どこに行く気だ?」
「お手洗い」

 侮蔑のまなざしを向けられる。小紫の一件から俺に対する態度が変わっている気がするのは気のせいではない。

「仲良くやっているようだな」
「先生の目は節穴ですか?」

 今のやり取りを見て仲が良いと判断したのだろうか。

「これでもちゃんと見ているつもりだ。この調子であの子をずっと気にかけてくれ」
「あんな奴のお目付け役はごめんなんですが」
「それもあるが、あの子はふとした拍子にどこかへ飛んで行ってしまいそうだからな」

 まるで風船やたんぽぽの種のような可愛いい表現の仕方をしているが、あれはどちらといえば爆薬を積んだ戦闘機だ。

「わかっているのなら先生が見ておくべきでは?」
「私はこう見えても忙しいからな。それに音霧を信頼している。君ならしっかりと自分の役目を全うできるだろうさ」
「役目とは?」
「それを知ってしまったら君は反射的に拒否するだろうから言わないでおくよ。こういうことは言葉で表すよりも感じることが大事だ」

 関山先生らしい言葉ではあるけれども教師としてどうなのだろう。できれば言葉で生徒を導いてほしいものだ。

「ところで追いかけなくていいのか? 糸杉がおとなしく音霧に行き場所を告げるとは思えないが」

 それを言われて妙に納得してしまう。

「追いかけても邪険に扱われるだけだと思いますよ」
「君の眼はまだまだ節穴だな」

 関山先生は扉を開け放してこちらに退室するように促す。

「あの子には君が必要だ」

 俺と糸杉を関わらせようとする意図が見て取れるけれど、それが今ではあまり嫌に思えないでいる。どうせトラブルを起こすのだ。仲裁に入って借りを作っておくのもいいかもしれない。