「意外と早かったのね。もう少しゆっくりしていてよかったのに」
「俺がいないと何をするかわからないからな」

 嫌味で返しても相変わらず糸杉は気にした様子はない。

 糸杉の隣に腰を掛けながら様子を伺うけれど特に何かを話した様子ではなかった。

「今飲み物を持ってくるよ。大丈夫、支払いは私がするから」

 谷中さんはこちらの返事をさせずに席を立つとドリンクバーへと向かってしまう。この空間から逃げ出したかったのだろう。俺だって糸杉と二人きりでファミレスなんて奢られても断る。

「それでこの後はどうする気なんだ?」

 監視するように谷中さんの背中を凝視する糸杉に小声で話しかける。

「彼女が素直にすべてを話せばそのまま解放するわ」
「まるで犯罪者を捕らえたみたいな台詞だな」
「その通りでしょ」

 糸杉としては彼女の行いがストーキングであることは決定事項らしい。

「そんな簡単なことに思えないけどな」
「随分肩入れするのね」
「肩入れという訳じゃない。先ほどの態度を見るに谷中さんが小紫に危害を加えようとしている可能性は低い」
「それを肩入れというのよ。ピンチの時に助けて相手を油断させている可能性だってあるじゃない」

 こいつの周りには悪人しかいなかったのだろうか。

「ウーロン茶で良かったかな?」
「ありがとうございます」

 よく冷えたウーロン茶は乾いた喉に沁みた。

 向かいに座った谷中さんは湯気の立っていないコーヒーを一口飲むと溜まった何かを吐き出すように息を吐いて視線を店の外へと向けた。

「君達の目的を聞いても良いかな?」
「私たちの目的は小紫さんの生活を脅かすものを阻害することよ」

 どうしてそんな言い方しかできなのか。

「それはあの子が言ったの?」

 谷中さんは縋るような視線を向けるが、それには意に介さず不遜な態度そのままに糸杉はさらに続ける。

「そうよ。小紫さんは大変困っている。後ろを付きまとわれて困惑しない女子がいるわけがないでしょ」
「糸杉」

 俺の非難の視線も無視して続ける。

「けれどストーカーが女性だったなんて予想外だった」
「ストーカー。そうかあの子はそんな風に」
「自覚がなかったの? 後をつけるなんてストーカー以外誰もしないことよ」

 糸杉はわざと挑発の意味でその言葉を浴びせている。冷静さを欠けば本音が聞けると思っていのかもしれないが、こんなやり方では誰も得をしない。

 今の言葉や先ほどの行動からもわかる通り、やはり谷中さんは小紫に危害を加えるつもりはない。むしろ逆なのだろう。

「どういうつもりで行動しているのか知らないけれど、あなたの気持ちは彼女には届くことは」
「それ以上は辞めろ」

 思ったよりも語気が強くなったことで店内の空気が凍ってしまう。糸杉も目を見開いてこちらを見つめた。直ぐに店内は普段通りの賑わいに戻るが席の空気は重たいまま。それでも黙っていては何も進まない。

「小紫の意思を曲げてまでするようなことじゃない。小紫は別に恐怖を覚えたりはしていなかった。確かに戸惑っていたかもしれないが、ただ知りたかっただけだ」
「……そうね。依頼人の意志は尊重すべきだったわ」

 糸杉が珍しく引き下がった。

「……確かにストーカーだな」

 沈黙を破り溜息を吐いた谷中さんの表情は穏やかだった。

「少し言い訳をさせてくれないかな?」
「円満に解決できるのであればそれに越したことはないわ」

 険のある言い方であったが、その表情にいつものような鋭さを感じない。

「先にこちらの方から話してもいいですか? 勘違いを解いておきたいので」
「勘違い?」

 小紫が俺たちに依頼するまでの経緯とそれからの事を簡潔に話す。その間糸杉は口を噤んで口のつけられた様子のない自分の分のコーヒーをじっと見つめていた。

「つまり音霧くんと陽花は恋人関係ではないんだね」

 念を押すように確認される。

「そうです。すみません。嘘を付いて」
「それを聞いて本当に安心したよ」

 安堵の笑みを浮かべて胸をなでおろす。どういう意味だとは聞かないでおこう。

「じゃあ今度は私の番だね」

 居住まいを正した彼女の瞳には覚悟が伺えた。

「私は陽花を守りたかったんだ」
「誰から?」

 それまで黙って聞いていた糸杉が間髪入れずに問いただす。いつも諦めたように濁っている眼光が獲物を見つけた獣のように鋭く光ったように見えた。

「最近、女子高生が道路に飛び出す事故が多発しているのは知っているかい?」

 以前そんなことを糸杉から聞いたような気がする。

「ええ。その殆どが自殺だと言われているけれど、遺書もなく動機も不明瞭。彼女たちは衝動的な何かに突き動かされたように飛び出している。それが何か?」

 糸杉は原稿を読むようにすらすらと抑揚なく話す。

「あなたも調べているんだね。もう一つ加えるならその事故は必ず雨の日だという事」

 雨の日の事故。その事柄だけで心臓が針金で縛られたような感覚になる。

「あの子は色々と抱えているからね。心配で見守っていたんだ。冷静になって考えてみればストーカー行為と変わりなかったけれどね。そしたら変な男を彼氏と言って連れてくるじゃない」

 変な男。聞くまでもなく俺の事だ。変である自覚はあるから素直に受け入れることにする。

「さらにその男は雨の日に不審な行動をとろうとした」

 糸杉が説明を付け加える。

「あいつは陽花に危害を加えようとしているんじゃないか。そう思ったら勝手に体が動いていたよ」

 それがここまでの経緯だった。

「どうしてそこまでするんですか?」

 俺の質問に視線を他の席の女子高生へと逸らすと考えこむように瞳を閉じる。しばらくして開いた瞳には迷いが消えていた。

「陽花は私の娘なんだ」

 不思議と驚きはなかった。心のどこかでそうなのではと思っていた。

「私は十七の時にあの子を産んでね。私には親はいなかったし止める人は誰もいなかった。あの頃の私は現実を甘くみてたんだ。高校も出てない女が子供を育てるなんて無理があった。頼る宛がなかった私は結局、施設にあの娘を捨てたんだ。自分が生きていくために」

 自分が犯した過ちを忘れないように、決して望んでしまわないように。呪いの言葉を自分に言い聞かせていように聞こえる。

「それからは真面目に働いてここまで来た。最近ではお店を任されるようにもなって、やっと心のゆとりができ始めた時に、目を泣き腫らした陽花がお店に来たんだ。施設に預けて以降、会ってないのにすぐに陽花だってわかった。それと同時に神様のいたずらだなって思ったよ。だけど私はその神様のいたずらを利用することにしたんだ。名乗れなくても構わない、あの子が幸せになれるのであればどんなことでもしてあげたい。あの子が苦しんでいる理由を作った私がこんなことを言うのはおかしな話だけどね」

 乾いた笑いを浮かべて谷中さんはコーヒーカップに口をつける。

 掛ける言葉を見つけられなくて、俺は目の前に置かれたウーロン茶を飲むことで誤魔化した。何の味もしない。無味な液体が食道を通って行く。

「ごめんね。こんな話に付き合わせて。これからは後もつけないから安心していいよ」
「名乗りでるつもりは」

 突き刺すように糸杉が質問をする。

「しないよ。絶対に。私はあの子を捨てた。生きていくためには邪魔だったからね」

 戒めのように言い聞かせる言葉はまるで自らの体に杭を打ち付けているように聞こえた。

「理由はどうであってもそのことに変わりはない。なかったことにして母親面する資格はない。自業自得なのさ」

 別に放っておけばいい。本人がそう言っているのだ。これ以上立ち入ることに意味なんてない。

「小紫さんの悩みを知ってもなおその言葉が言えるのね。まだ間に合うというのに……」

 そんなことは糸杉だって承知しているはずなのに、責める言葉を止めようとはしない。

「別に勝手にすればいいわ。ただ、あなたの小さなプライドの為に小紫さんが犠牲になっていることは忘れないで」

 俺には今の糸杉が八つ当たりをしているように見える。

「結局あなたは彼女に拒絶されるのが怖いだけでしょ。娘の為ならどんなことでもすると言っておいて、自分がしたことを謝ることすらできない」

 糸杉らしくない強い語気に困惑する。こんな風に感情を顕わにするのは初めてだ。

「あなた達にはまだ未来がある。償うことだってできる。何をすべきかもう一度考えなすことね」

 言いたいことを言い終えた糸杉は、千円札を叩きつけるように机に置くとそのまま席を立った。

「拒絶されるのが怖い……か」

 糸杉の言った言葉を繰り返しながらコーヒーの黒い液体を見つめている。

「すみません。あんな言い方しか出来なくて」
「正論を叩きつけられて寧ろ清々しい気分さ」

 そう言って頬をかきながら破顔する谷中さんから小紫の面影を見る。

「君も同じ意見なのかな?」
「俺は……」

 ふと二人が仲良く街を歩いているところを想像してみる。幸せそうな二人の姿に得体の知れない感情が芽生える。

「このままなかったことにして過ごすのもありかと思います。小紫だってどうしても自分の出生を知りたいわけではないでしょうし、知ったところで悩みが全て解決するわけではない。現状維持であれば犠牲になるのはあなただけで済むでしょうし、余計ないざこざで他人を巻き込むような事態には……」

 芽生えた感情の正体に気づいて思わず口を噤む。きっとこの感情は嫉妬だ。 

 償う機会があるこの人が羨ましいのだ。だから適当なことを言って流そうとしている。

「すみません」
「謝られるようなことを言われた覚えはないよ。寧ろ甘やかされていたと思うけどね」

 微笑みながらコーヒーを飲む谷中さんは俺の真意に気づいていない。

「君は女子高生の子供がいる女性を甘やかして何を企んでいるのかな?」
「別になにも深い意味は……」
「冗談だよ。今のはからかっただけだ」

 谷中さんはすっかり冷めてしまったコーヒーに映る自分の顔をみて嘲笑する。

「君たちは良いコンビだね」
「それは最悪の悪口ですよ」

 俺の言葉から何を感じ取ったのかわからないが谷中さんは決心の付いた表情をしている。

「過去に縛られて今を殺すことで私は償ったつもりでいたのかもしれないね」

 彼女の言葉は今を殺し続けている俺にも深く突き刺さる。

「追いかけた方が良いよ」

 谷中さんは糸杉が置いていった千円札を俺に押し付ける。

「あの子、酷い顔をしていた。彼女を慰められるのは君だけだろ」

 心外だった。そんな役目を買った覚えはない。

「私の心配はいらないよ。どうするかはもう決めたから。君たちのおかげでね」

 ここにきて一番の笑顔を向けられる。

「私がもう少し若かったら君に惚れていたかもしれないね」
「年下の男子をからかうのは良くないですよ」
「からかわれたくなかったら早く追うことだね」

 追い出されるように店を出る。

 外は相変わらず音のしない霧のような雨が降っている。

 このまま帰っても誰も責めはしないが、押し付けられた役目を放棄する気にもなれず頬に当たる雨に不快感を覚えながら糸杉を追いかけることにした。


 走ると空気中に漂う水分が頬に纏わりついて気持ち悪い。

 糸杉はさほど遠くへは行っておらず、近くの交差点でぼんやりと佇んでいた。ふとした瞬間に道路に飛び出してしまいそうな雰囲気を感じ取り思わず声をかける。

「糸杉」

 こちらが声を掛けても振り返ることはしない。

 その方が良かった。弱っている糸杉の顔を俺は見たくない。そんなものを見てしまったら忘れられなくなる気がする。

「今振り向いたら音霧くんは優しく慰めてくれる?」
「冗談が言えるなら大丈夫だな」

 俺は糸杉の背中に、糸杉は誰も居ない前方に。信号が青になっても渡ることなく、一定方向の会話は続く。

「これで良かったのかしら。説教なんてらしくないことしたと思うわ。少し感情的になってしまったし」
「言葉に嘘がなければ構わないと思うけど」

 正直なところそれが良かったのかわからない。けれど、わからないとは言いたくなかった。わからないと言ってしまう事は考えることを放棄している気がして、関わってしまった手前それでは無責任だ。答えが出なくても向き合うことでその責任を果たしたい。

 こうした曖昧な感情に振り回されることも、人との関わりがあるからであり、本来ならそれが普通なのだろう。

「音霧くん、少し変わったわね」
「糸杉もな」

 以前ならこうした感情を持つことはなかった。以前の俺は他人との関係を簡単に絶ってしまえて、他人の感情に鈍感だった。それは糸杉も同じだ。

 認めたくはないが、俺たちは何処か似ている。

「人間って意外と悪意のない生き物なのね」
「俺の目前にいる人間は俺に対して悪意しか見せないけどな」
「だって私は人間じゃないもの」

 平然とした返事が返ってくる。

 落ち込む背中に追い打ちをかけるように揶揄したが、俺程度がこいつを傷つけることはできないらしい。

「そうかもな。あんな指示を出すほどだし」

――小紫さんを道路に突き飛ばして――

 これが糸杉からの指示だった。狂っている。念まで押させて俺が本気で実行するとでも思っていたのだろうか。

「たとえ本気で実行しようとしたとしても彼女が止めていたでしょ。音霧くんは全く気付いてなかったけれど、私たちはあなたのすぐ後ろにいたのよ」

 あの瞬間俺がどんな気持ちでいたかなんてこの女には関係ないのだ。自分の目的のために平気で自分ですら蔑ろに出来る奴なのだから。

「まあどちらの結果になっても私にはどうでもよかったのよ」

 道路へ吐き捨てるような言葉には何の感情も籠っていない。またわざと嫌われるような言葉を並べている。

 これ以上近づかせないように。自分からも近づかないように。

「本当に人間じゃないのかもな」
「だったら今すぐ私を突き飛ばした方がいいんじゃない?」

 糸杉の向こう側では車が速度を落とすことなく通り過ぎていく。ふとその背中が刑の執行を待つ罪人のように見えた。

『糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます』

 ふと小紫が言ったことを思い出す。糸杉は俺に何を望んでいるのだろうか。他人と深く関わることを避けている俺にはたどり着くことの出来ない答えだ。

「雨が強くならない内に帰る事ね。風邪を引いても休ませないから」

 答えに迷っている間に糸杉は信号を渡って行く。俺は後を追わない。一人になりたかった。それは糸杉も同じだろう。

 お金を返しそびれていることに気づいたが、その頃に信号は赤に変わり糸杉の姿は通り過ぎる車に遮られて見えなかった。



 その後、雨はあっけなく止んでしまった。

 そのまま家に帰る気にはなれず、何かに縋るように街を彷徨っているといつの間にかいつもの公園に辿り着いていた。

 夜の公園は静寂に満ちて湿った落ち葉を踏む音すら大きく聞こえる。

「あれ? こんな時間にどうしたの?」

 楓はいつもの場所で街頭に照らされた紅葉を眺めていた。

「なんとなく寄ってみた」

 そう言いながら俺は制服が濡れることも厭わずにベンチに座る。湿ったベンチは想像以上に居心地が悪かった。

 どうしてここに来たのだろう。こんな姿を楓に見せて心配させてしまうだけだというのに。

「何かあったんだね」

 透き通った水晶玉のような瞳がこちらを捉える。

「……」

 こういう時には相変わらず鋭い。

 目を逸らしてしまった為に誤魔化すことは出来なかった。

「話してごらん。楓お姉さんが聞いてあげるから」

 とてもお姉さんとはいえない笑顔で優しく語り掛ける。

 掻い摘んで話すつもりだった。けれど、話し始めると止まらなくなり、自分が思っていた以上に溜めこんでいたのだと思い知らされる。

 楓は一言一句聞き逃さないように真剣に俺の話を聞いていた。

「余計な事をしたんじゃないかって思ってるんだね」

 俺は黙って首を縦に振る。

 きっとそれは糸杉も同じだったのだろう。自分が何かをしたことで誰かの関係が壊れてしまう。それを俺たちは恐れている。

「大丈夫。その親子なら大丈夫だよ」

 何の保障もない大丈夫が妙に心強い。

「それと、その気持ちは聡くんが正常だって証だよ」

 楓は何かに安堵するようにこちらに微笑む。いつもは太陽のように眩しい笑顔が今日は少し優しく感じる。

「だからその感情を捨てないでね」

 それだけ言い残して楓はふっと何処かへ行ってしまった。気を遣わせてしまったようで申し訳ない気持ちになる。



 数日後、俺たちは小紫からユヅキさんが実の母親であったと報告を受けた。

 小紫は照れくさそうに頬をかきながら笑い、愛情が二倍になったと純粋に喜んでいた。

 結局、俺たちの心配は杞憂であり余計なお世話だったわけである。

 またしても俺たちは想定した形での改善を思う様に果たすことが出来なかった。

 ただ一つだけ改善した点があるとすれば、小紫の報告を聞きながら興味なさそうに本を読んでいた糸杉が、ふっと笑みを浮かべたことくらいだろう。