「それじゃ教室に戻るから」
「ええ。運んでくれてありがとう」

 誰かが話している声が聞こえるが、靄がかかったようにはっきりとしない。

 奇妙な模様の天井を覚醒しきっていない頭でぼんやりと眺める。
 
 虫に食われたような模様の天井は模様の一つが動き出しそうな気がして、直視するのが嫌になり身体ごと視線を横にずらした。

「目が覚めたのね」

 スツールから少しだけ腰を浮かせて糸杉はこちらを覗き込む。垂らした髪からは淡い香りが漂ってくる。
 
 自然と目が合ってしまう。いつもと変わらない悲哀の色が深く刻まれた瞳がこちらを見据えている。

 心配なんてこれっぽっちもしていない目だ。

 周りはカーテンで仕切られて外の様子を伺うことは出来ない。しかし、ほのかに漂う消毒液の臭いで状況を察する。

「保健室か」
「そうよ。先生は休みで居ないみたいだけれど」

 室内は照明が落とされて薄暗かった。

「わざわざ運んでくれたのか」

 こいつならそのまま放置もありえそうだが、僅かながらに良心が残っていたらしい。

「お礼は越水くんにして。実際にここまで運んだのは彼だから」
「仙都が?」
「ええ。偶然通りかかったそうよ」
「そうか……あとで言っておくよ」

 わざわざ人気のない場所を選んだのだ。偶然通りかかることなんてことはあり得ない。仙都の事だから気になって尾行したのだろう。気にしていない素振りをしていたくせに。

「私も音霧くんにはお礼を言わなくてはいけないわ」
「どういう意味だ?」
「音霧くんのような社会不適合者にも優しく手を差し伸べたのよ。周囲からの評価は上がったに違いないわ」
「そうかよ」

 良心なんて露ほども残っていなかった。

「なんで周りの目とか気にするんだ? お前みたいな奴は絶対に気にしないタイプだろう」
「何を言っているの? 周囲の評判の良し悪しは慈善活動に大きく影響するのよ」

 自分への信頼が慈善活動への信頼に直結する。糸杉は本気で慈善活動をする気でいるらしい。正気の沙汰とは思えない。

「その活動でお前に何の」
「お前はやめてくれるかしら」

 お願いというよりも命令に近かった。

 自分の口から糸杉の名前が出ることに抵抗していたが、こちらを見下す人形のような大きな瞳は、それすらも見通しているように見えた。

「……糸杉にとってメリットはあるのか?」
「色々あるわよ。将来的にね」

 満足そうに微笑むと、糸杉は将来なんてまったく見据えていない曇った瞳でそんな事を口走る。どこまでが嘘で、何処までが本当なのか。それとも全てが嘘なのか。

 遠くの方でチャイムが聞こえる。糸杉はその場から離れようとはしなかった。

「授業は良いのか?」
「ええ。受けても意味ないもの」

 それは既に頭に入っていると暗に自慢しているのだろうか。どこまでいってもいけ好かない奴だ。
 糸杉は腹の前で組んだ腕を僅かに締める。

「それに……雨は、嫌いだから」

 それは俺に伝えるというよりも、水を溜め込んだ雨雲から雫がぽとりと落ちるような呟きだった。

 どんな表情でその言葉を言ったのか。

 気になりはしたけれど直視してはいけないような気がして寝返りを打つ。

「俺もだ」

 親近感なんて程遠い。けれどもそれに似たような感情が確かに芽吹いていた。

「ほんと……嫌い」

 糸杉はもう一度、自分に言い聞かせるように今度ははっきりと言い放った。

「授業サボったら周囲の評価が下がるんじゃないか?」
「お腹が痛いって越水くんには言ってあるわ」
「用意周到だな」
「ええ。私完璧だから」

 自分でそれを言ってしまうのか。しかし完璧なのは外見だけで中身は真黒だ。

「でも、いきなりお腹が痛くなるのは不自然ね。音霧くんと話すとお腹が痛くなるってことにするわ」
「そっち方が不自然だろうが。俺は何かのウイルスを口から飛ばしてるのか?」
「唾を飛ばさないで。うつるでしょ」

 糸杉の設定は確定なようで、異論は認めないというふうに鞄から取り出していた文庫本を口元に持ってくる。

「なんか楽しそうだな」
「そう見える? だったらそうなのかもしれないわね」

 否定しないということはそうなのだろう。人に毒を吐いて楽しむとは悪趣味な奴だ。

 俺と話している時の糸杉は水を得た魚のようだった。いつもは借りて来た猫のように大人しく周囲の動向を伺っている。それも監視に近いような形で。

 こいつの内面は完全に狂っている。

 そんな糸杉の様子を見ていると妙な気持ちになる。

 俺と糸杉はどこか似ている。雨が嫌いなところ、周囲と打ち解けようとしないところ。

 今さら気づいたことだが、楓と仙都を除いてこんな風に会話する相手はいない。

 それはやはり、お互いが似た者同士だからなのだろうか。

 しかし、警戒を怠ってはいけない。

 こうして本を読んでいる時でさえも彼女は俺をどのようにして追い詰めようかと考えているのだろう。

 どうしたらこの状況から抜け出せるか。

 考えに集中したいのに、窓を叩く雨音がそれをさせてくれない。

 雨なんて降らなければいいのに。

 雨音から逃れるように布団を被る。知らない内に俺は眠っていた。


 放課後の保健室は鍵が閉められ、俺は追い出される形になった。
 
 目が覚めた時には糸杉はいなかった。おそらく教室に戻ったのだろう。

 雨は放課後になっても止むことはなく、しとしと降り続けている。

 傘を持っていない俺はこのまま濡れて帰る気になれず、時間を潰すために図書室へと向かう。

 しかし扉には『暫く休館させていただきます』という立札がかけられていた。

 思い通りにはいかない。その事を最近は痛感させられる。

 とりあえず、教室に自分の荷物を取りに戻る。教室は吹奏楽部のパート練習に使われており、部外者がそのまま居座れる状況ではなかった。

 あてもなく校内をゾンビのように徘徊する。

 とにかく人気のない方へと進み、本校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下を歩く。
その先にあるのは一番近寄りたくないあの教室がある。

『慈善活動部』

 相撲部屋のように大仰な看板を下げたそこは、誰も寄せ付けないオーラを漂わせている。

 不本意ではあるが、今の俺にはここしか居場所がない。

 室内の明かりが付いてないところを見るに、誰も居ないのだろう。もしも糸杉が居たのなら濡れてでも帰ろうと思っていたが、不幸中の幸いというやつだ。

 ソファーでもう一眠りしていこう。その頃には雨も止んでいるだろう。

 大海原で木片を見つけたように俺は部室の扉を開く。

 思わず出そうになった声を無理矢理飲み込んだ。

 部室には先客がいた。

 二人掛けのソファーに糸杉は胎児のように膝を丸めて眠っている。

 捲れたスカートからは白磁のように抜けた白い肌が露になっている。

 ブレザーを脱ぐと、露になっている足へと掛ける。糸杉の為ではない。こち
らの視線のやり場がなかったからだ。

 誰にでもなく言い訳をしてから向かいのソファーに腰かける。

 普段の表情からは想像できない穏やかな寝顔に同情のような感情を抱く。

 この数日間、糸杉を見ていて印象に残ったことはない。こいつは印象に残らないように普通の生徒を演じている。あと一カ月もすれば転校生という枠組みから解放され、彼女は何処にでもいる普通の生徒になるだろう。

 誰の記憶にも残らないように、自分が居なくなっても困らないように、俺には糸杉が率先してそれらを演じているように見える。

 人を欺き、自分を欺き、世界を諦めて過ごしている。彼女が突然この世界から消えてしまっても、誰も気づきはしない。

 俺と接している時のようにもっと自由に、奔放に振る舞っていたなら、違った糸杉梓の人生があったのだろう。

 どうしてこうなってしまったのか。

 糸杉梓はこの世界に馴染めずにいる。

 普通の枠組みから外れて、それでもこの世界からは外れることは叶わず。

「ごめん……なさい」

 それまで穏やかな寝顔を見せていた糸杉はうなされているように悲痛に顔を歪ませる。目尻から薄っすらと雫が流れた。

「わたしが……」

 呟かれる寝言は雨音にかき消されて聞こえづらい。

 身を乗り出して聞き取ろうとする。

 悪夢から目覚めた糸杉が息を飲む音が聞こえる。

 合ってしまった目を離すことが出来ず、俺たちは世界から時間の概念が失われたように暫くそのままでいた。

 糸杉の透き通った瞳に驚いた表情を見せる自分が映っている。普段からは想像も出来ないくらいに綺麗な瞳だった。

「音霧くんの瞳ってどうしてこんなに汚いのかしら」

 至近距離から躊躇なく毒舌を浴びせられる。透き通るほどに綺麗な瞳は幻のように消えてなくなってしまい、いつもの悲哀の色を帯びる。

「人間は生きていれば汚れていくものだろう」
「そうね。汚れが移りそうだから半径十メートルくらい離れてもらえる?」
「それじゃあ、ここに居られないだろう」
「そう言ったのだけれど。汚れが頭まで侵食して理解できなかった?」

 憐れむように溜息まで付かれる。

「ところでどうしてここにいるのかしら?」
「いたら悪いのかよ」
「別に。あなたも一応部員なのだから悪いことはないわ。ただ不快ではあるわね」

 容赦ない毒舌に言葉が出てこない。

 不思議と糸杉は俺が何をしようとしていたのか聞いてこなかった。

 だから俺も話題にしない。あの寝言は聞かなかったことにする。そうすることが俺たちにとって一番な気がした。

「糸杉って普段からそうやっていれば良いのに」

 仕返しとばかりに皮肉を込める。

「無理よ。こんな性格がばれたら誰も友達になろうなんて思わないでしょ」
「自覚あるんだな」
「音霧くんこそ、どうして」

 糸杉の言葉を遮るように扉が開く音がする。

 ここに来る人と言えばあと一人しかいない。

「おお……これは夢か?」

 俺を見つけた関山先生は死んだ人間が生き返ったかのような表情を浮かべる。

「残念ながら現実ですよ。先生」

 さっきから何なんだこいつ。

「糸杉は俺がいると残念らしいので帰りますね」

 関山先生は横を抜けて帰ろうとする俺の肘関節を極める。その手際の良さに恐怖を覚える。

「せっかく来たんだ。活動に参加していけ」
「いててっ、これって体罰になるんじゃ」
「体罰? なにそれ美味いのか?」

 外国人に道を聞かれて全く日本語が通じない時と同じくらいの絶望感だった。

 結局ここに来た時点で俺はこうなる運命だったのだろう。諦めるしかない。

「しかし先生。俺はこの部の具体的な活動内容を知らないのですが」
「心配するな音霧。今日は私が依頼者だ」

 俺を糸杉の隣にきっちりと座らせてから関山先生はゆっくりと腰を下ろす。

 どうせ活動といっても学校の雑用をさせられるに違いない。良くてトイレ掃除かゴミ捨て場の清掃。最悪で体育倉庫の整理か。幸い今日はよく眠ったので体力は余っている。

 しかしそれが果たしてそれは慈善活動といえるのだろうか。

「少し長くなるが黙って聞いてくれ」

 これから起こる面倒なあれやこれやを想像していると、前置きを置いて咳払いをした先生は頬を僅かに赤く染めて語り始めた。