僕のクラスには、ひときわ目立つ少女がいる。
大きな二重瞼の瞳に、ほのかに桃色に染まった頬。白い肌に似合う、栗色の柔らかそうな髪。鈴の音のような声とは不釣り合いに見える、まっすぐな背筋。
コロコロと変わる表情はどこか自由で伸びやかで、弾けるような笑顔はその場にいる者たちを惹きつける。
性格はとても明るく、成績は上位で、運動もそこそこできる。『悩みなんてなさそう』と言ったクラスメイトに共感できるほど、いつも元気で楽しそうだ。
〝美少女〟というにはひどく親しみやすい雰囲気を纏い、けれど〝可愛い〟よりは〝綺麗〟と形容したくなる容姿を持つ彼女は、空野未来。
反して、僕――日暮優はなんとも冴えない。
黒くてやぼったい髪に、インドア派を代表するように日焼けしていない肌。成績は真ん中くらい……と言いたいところだけれど、残念ながらそれよりも少しだけ下だ。運動も苦手で、唯一の自慢は視力がいいことくらい。
そんな名前負けの僕から見れば、名前まで明るく前向きな空野は、まるでみんなに愛されるために生まれてきたような存在に見える。
クラスの人気者と、友達と呼べる同級生が学校にひとりもいない日陰者。この一年間はおろか、仮に三年間同じクラスだったとしても、きっと僕たちが関わることはないだろう。
僕は別に、空野のように目立ちたくはない。学校カーストの最下層だとしても、クラスにひとりも友達がいなくても、いじめにさえ遭わなければやり過ごせるものだ。
学校生活が楽しいかどうかよりも、何事もなく生きていければそれでいい。僕のような人間は粛々と与えられたことに取り組み、真面目に無難に生きていくのが一番平和なのだ。
中学時代にそれをしっかりと学んだ僕は、今日も背中を丸めるようにして図書室で借りてきた夏目漱石を読み、この教室の片隅で一日を終える――。
放課後になると、いつもホッとする。
閉塞感に包まれた学校から解放され、自由と安寧が約束された自宅の部屋に帰れるというだけで晴れ晴れしい気分なる。
登校時に反して足取りも軽やかで、心は開放感に包まれている。
七月も下旬間近の今は、エアコンが効いた電車の中でも蒸し暑く、駅から家に着くまでには汗を掻くだろう。
茹だるような街を歩くのは憂鬱だけれど、だからこそ涼しい部屋でアイスを食べながら漫画を読む……という行為が至福になる。
愛読している漫画の最新刊は、学校の最寄り駅の構内にある本屋さんで調達済みだ。
電車の中で帰宅後の過ごし方を決めて顔を上げたとき、少し離れた場所にいる空野の姿が視界に入ってきた。ドアの傍に立つ彼女は、ぼんやりと窓の外を見つめている。
空野の家の最寄り駅は、恐らく僕が降りる駅のひとつ前だ。
学校の最寄り駅からJRに乗り、そこから三駅目でこの在来線に乗り換えるのは、僕が知る限り同じクラスには僕たちしかいない。
最初に気づいたときは、ほんの一瞬だけ親近感を抱きそうになったけれど……。入学式から一週間と経たずして、彼女とは住む世界が違うのだと知り、そんなものはどこかに消えた。
電車が駅に滑り込み、ドアが開く。ここで降りる空野の後ろ姿を見ていると、彼女は乗降する客たちの邪魔にならないように端に寄り、なぜか自身は降りなかった。
プシューッと空気が抜けるような音がして、ドアが閉まる。
空野は再び窓の外に顔を向け、心ここにあらず……とばかりに景色を眺めていた。
彼女がどこで降りようと、僕にはまったく関係ない。僕は次の駅で降りて近所のコンビニでアイスを買い、家に帰って涼しい部屋で至福のときを過ごすのだ。
そう思っていたのに、ついうっかり降りそこねてしまった。
「あっ……」
小さな声が漏れたときには、さっきと同じような音を立てたドアは閉まるところだった。
諦めて次の駅に降り立つと、隣のドアから降りてきた空野が改札口の方に向かった。
(空野もここで降りるのか)
彼女の後ろ姿を眺めながら同じ方向に歩を進め、一定の距離を保ったまま改札を目指す。
ところが、前を歩いていた空野が急に立ち止まり、僕も反射的に足を止めた。
(い、いや……僕まで立ち止まることはないんだよな)
なんとなく気づかれてしまうのが嫌だった。彼女は僕の最寄り駅は知らないと思うけれど、もし変な誤解をされたらたまったものじゃない。
四月に始まったばかりの高校生活が、早々にピンチを迎えてしまう。入学して三ヶ月でストーカーだと思われるのは御免だ。
そんな気持ちを抱え、素知らぬ顔をして空野から距離を取りつつ彼女を追い抜いたとき。
(……え?)
視界の端に映った横顔がやけに思い詰めていた気がして、つい振り返っていた。
(やばっ!)
すでにこちらに向かってきていた空野から視線を逸らせば、彼女が改札口を抜けるのが視界の端に映る。人波に逆らえなかった僕も、そのまま改札を出てしまった。
本日二度目のうっかりに、肩を大きく落とす。
踵を返してホームに戻ろうとしたけれど、少し先でまたしても立ち止まっている空野が目に入り、なんだか無性に彼女のことが気になった。
僕には縁のないクラスメイトの存在に、視線を引っ張られるような感覚。理由はわからないものの、程なくして空野が歩き出したときには僕も同じ方向に足を向けていた。
やめておけ、と事なかれ主義の僕が告げる。
でも気になるよな、と小さな好奇心が囁いてくる。
悩みながらも五分ほど歩いていると、空野が角を曲がった。咄嗟に小走りになった僕も、同じ道をたどったけれど、左に折れた僕が目にする景色の中に彼女の姿はなかった。
どうやら見失ってしまったらしい。がっかりしたような、ホッとしたような、複雑な感情に包まれる。
そもそも、なぜ空野の後を追ってしまったのかもわからないけれど、特に関わる気があったわけでもない以上、彼女と鉢合わせるのは気まずい。
ようやく冷静になれた今、見失ってよかった……と思った。
刹那――。
「尾行が下手な日暮くん」
「うわぁっ⁉」
僕の背後に気配もなく立っていた空野に驚愕し、飛び跳ねる勢いで一歩後ずさった。
「なっ……! どうして空野がっ……!」
「それはこっちのセリフだよ。日暮くんって、最寄り駅はここじゃないでしょ」
「な、なんでそれを……」
「なんでって、前に香里ケ丘駅で降りるのを見たことがあるから。それに、さっきから私のことを尾けてたよね?」
彼女は訝しげにしつつも、最初から僕の存在に気づいていたようだ。
「同じ電車だったのは知ってたけど、まさか尾行されるとは思わなかったよ」
(最悪だ……!)
明確な理由はないけれど、空野を追ってきたのは事実。彼女からすれば僕は立派なストーカーで、まさに怪しさ満点だろう。
(明日にはクラス中……いや、学年中に僕の行動が広まってるかもしれない……!)
終わった……と、脳裏に過る。
今はスマホ一台で、なんでも拡散できる時代。芸能人がつまらない発言で叩かれたり炎上したり……なんてことが起こるのも、日常茶飯事だ。
事の大きさは違っても、学校というテリトリーの中で自分の身に起こることを一瞬にして想像してしまい、思考も心も絶望感に包まれた。
平和に穏便に生きていくために、ちょうどいい日陰者に徹していたというのに、こんなつまらない行動ひとつですべてが台無しだ。
「日暮くん、時間ある?」
「へっ……? いや、あんまり――」
「私のことを尾行してたくらいだし、暇だよね?」
にっこりと微笑まれて、うっ……と言葉に詰まる。
暇なんかじゃない。うっかりこんなところまで来てしまったけれど、本当なら僕は今頃、涼しい自室でアイスと漫画を満喫しているところだった。
「ちょっと付き合ってくれない?」
「……それ、僕に選択権は……」
あるのでしょうか……と続けた声は小さく、ギラギラと照りつける太陽に溶けていく。
「別にあるよ? ただ、断るなら日暮くんの名誉がちょっと傷ついちゃうかも?」
(ああ、もう……本当に最悪だ……!)
僕に選択権なんてないじゃないか。
空野に逆らえるわけもなく、しぶしぶ彼女の後ろを歩いていると、大学病院の前に着いた。
「どうして後ろにいるの? 普通に私の隣を歩けばいいと思うんだけど」
クラスのどころか学年一の人気者の女子の隣に、日陰者の僕が立っているところを知り合いに見られたら、それこそろくなことにならないはずだ。
「君の彼氏に悪いだろ」
「彼氏なんていないけど」
「三年の先輩と付き合ってるって噂だけど」
「噂だよ。付き合ってないし、これからもそんな関係にはならないから」
空野と並んでも見劣りしない三年の先輩は、少しやんちゃな風貌の男子生徒だ。あっちの気持ちは僕から見てもバレバレだけれど、どうやら彼女にその気はないらしい。
「……で、空野はここになにしに来たんだよ」
「ちょっとね。点滴したら帰るから、終わるまで待ってて」
「は?」
「あとでお母さんが迎えに来てくれる予定だったんだけど、さっき友達が送ってくれるからお迎えはいらないって連絡したから、帰りは家まで送ってね」
「はぁっ?」
「よろしく、ストーカーくん」
「ストーカーじゃ……!」
「どうかなぁ」
空野は楽しげに笑って内科の受付で診察券を出すと、僕を待合室の方へと促す。抵抗したいのは山々だったけれど、今の僕には彼女に逆らう術がない。
明日からの学校生活を守るためにも、今は空野の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
「空野さん、処置室へどうぞ」
「じゃあ、一時間くらいかかると思うけど、逃げずに待っててね」
「一時間⁉」
目を丸くする僕を余所に、彼女は満面の笑みで処置室へと消えた。
帰ってやろうか、と考えなかったわけじゃない。
けれど、空野の言う『逃げずに待っててね』は、きっと『逃げたら言いふらしてやる』と同義語に違いない。つまり、やっぱり僕には選択肢がなかった。
おかしな話だ。
僕はなぜ空野が病院に来ているのかも、なぜ点滴を打つのかも知らない。にもかかわらず、消毒液の匂いが漂う待合室の椅子に座っているのだから。
空野が処置室から出てきたのは、一時間半が経った頃だった。
待ち遠しかった漫画は読み終わり、スマホを使えない院内で過ごすのは苦行だった。
けれど――。
「ごめん……っ。ちょっと、時間かかっちゃった……」
そう言って苦笑いした彼女の顔色が真っ青で、文句も不満も出てこなかった。
「え……大丈夫か?」
どこからどう見ても、大丈夫そうには見えない。それなのに、コミュニケーション能力が低い僕から出てきたのは、なんとも気が利かない疑問だった。
「へーき……。でも……今、電車に乗ったら吐く、かも……」
話すのもつらそうな空野は、待合室の椅子に横になって瞼を閉じた。
白い肌が青ざめている様子は、日頃の彼女の姿からは想像もできないほど弱々しい。なにをどうすればこうなるのかわからなくて、困惑でいっぱいになった。
「えっと……水とか、飲める?」
「うん……欲しい……」
「買ってくるよ」
慌てて立ち上がり、周囲を見回して自動販売機を探す。少し先に見慣れたフォルムを捉え、ペットボトルのミネラルウォーターと緑茶を買い、早歩きで空野のもとに戻った。
「水とお茶、どっちがいい? それとも、スポドリとかの方がよかった?」
「ん、大丈夫……。水もらっていい? お金はあとで返すね……」
ミネラルウォーターを手渡すと、彼女は再び目を閉じてペットボトルを頬に当てた。呼吸をするのもつらそうだけれど、「きもちいい……」と呟いた姿にわずかに安堵する。
「ごめん……。すぐ復活するから、もうちょっと待って……」
「いいよ、別に暇だから。空野がラクになるまで待つよ」
自然と口をついて出た返答に、体を横たえたまま僕を見上げるようにしていた空野が目を見開く。程なくして、ホッとしたような微笑を浮かべた。
ここには強引に連れてこられて、明日からの学校生活を守るために待っていただけ。ところが今はそんなことはすっかり頭から抜け落ち、彼女のことがただ心配だった。
「ふっかーつ!」
大学病院の前で、空野がグッと伸びをする。声が軽く反響し、周囲の視線を浴びた。
「こんな時間まで付き合わせちゃって本当にごめんね」
僕に笑顔を向ける空野は、もうすっかり平素の様子と変わらない。さっきまで呼吸すら苦しそうだった人物と同じ人間かと、疑いたくなるほどだ。
ただ、明るく元気な彼女しか知らない僕は、とにかくいつも通りになってくれてよかったと思った。
「すっかり遅くなっちゃったね」
駅まで歩きながら、空野が申し訳なさそうに眉を下げる。十八時半を過ぎた今、空は水色とオレンジが混ざった夕焼けに染まり、夜に向かっている。
「別にいいよ、もう。元はと言えば、自業自得でもあるんだ」
こんな時間になったことも、今日の放課後の予定が狂いに狂ったことも、今となってはどうでもいい。とにかく、彼女が笑っていることに安心させられたから。
「でも、ちゃんと待っててくれて嬉しかったから」
「そういう約束だっただろ」
「あれは約束って言わないよ。一方的に私が命令したようなものだから」
「まぁ、それは否定できないけど」
「えっ、そこは否定してよ! 日暮くんって、実ははっきり言うタイプなんだね」
クスクスと笑う空野は、「すごく意外なんだけど」と僕の顔を覗き込んでくる。僕に言わせれば、意外なのは彼女の方だ。
クラスの中心人物である空野が、僕みたいなぼっちを極めたクラスメイトとも分け隔てなく話し、挙句に病院にまで付き合わせた。
けれど、人の心に入り込むのが上手いのか、僕はすっかり彼女のペースになっている。
現に、往路は空野の後ろを歩いていた僕が、今は肩を並べて駅に向かい普通に会話をしているのだから。元は自分自身の失態とはいえ、そんなことを忘れさせるような彼女の明るさが、意外にも嫌じゃなかった。
高校に入学して三か月。クラスメイトとこんなに話したのは、初めてのことだった。
「日暮くんは次の駅で降りてね」
「家まで送る約束だろ。ここまで来たら、最後まで約束を全うするよ」
だからなのか、僕はガラにもなく自ら面倒事に首を突っ込んでいた。
空野の家の最寄り駅である長尾駅に着くと、彼女は「改札口まででいい」と言ったけれど、僕は淡々と改札口を抜けた。
「どっち?」
僕の問いに笑顔で「あっち」と答えた空野が、右側にある北口を指差す。
「……なにも訊かないんだね」
藍色になっていく空の下を歩いていると、空野が独り言のようにごちた。
「普通は訊かない? なんで病院に行ったんだとか、点滴した理由とか」
「……普通がどうかは知らないけど、別に詮索する気はないよ」
「どうして?」
不思議そうな面持ちを寄越され、息を小さく吐く。
「気にならないわけじゃないけど、こういうことって安易に訊くべきじゃないと思ってるから。それに、友達ならまだしも、僕らは別に友達じゃない。色々訊けるほどの仲じゃないし、空野だって僕に質問されても困るだろ」
僕は、ぼっちのスペシャリストだ。自分の振る舞いはしっかりとわきまえている。彼女と僕は異性で、ただでさえ男子から女子に体調のことを尋ねるのは難易度が高い。
それなのに、空野の友達ですらない日陰者の僕が、クラスの人気者の不調について詮索できるはずがない。そもそも、当初の僕の目的は彼女の機嫌を損ねないようにして、明日からの学校生活での安寧を勝ち取ることなのだ。
他人に興味を持ったり、余計なことに首を突っ込んだりすれば、無駄な火の粉が飛んでくるのは身をもって経験している。今はとにかく自分の名誉が守られることを確認して、できるだけ早く家に帰りたい。
「ねぇ、ちょっと公園に寄らない?」
ところが、また厄介な提案をされて肩を落としそうになった。
「早く帰った方がいいよ。事情は知らないけど、空野の体調が悪かったのは事実なんだから」
「大丈夫。うち、すぐ目の前なの。ほら、あの青い屋根の家」
空野の指を追うと、公園の斜め前に青い屋根の家が建っていた。白い外壁に青い屋根なんて、家まで爽やかなデザインだ。
「それ、僕に選択権は?」
「別にあるよ?」
答えと相反する意味深な笑みに、僕は深いため息を漏らした。
十九時を過ぎた小さな公園内には、誰もいない。滑り台は夕闇に染まり、ブランコは風に揺れている。空野は、その片方に座って軽く地面を蹴った。
僕も、仕方なく隣のブランコに腰を下ろす。どうやら、彼女が飽きるのを待つしかないらしい。
「私ね、もしかしたら死ぬかも」
意外にも、空野は早々に口火を切った。
ただし、その内容を予想だにしていなかったせいで、僕の反応が一拍遅れてしまった。
「い、いや……死ぬって……大袈裟だろ」
「残念ながら大袈裟じゃないんだよね」
あっけらかんとしているようで、その瞳は真剣そのものだ。嘘を言っているとは思えないし、彼女はそもそもこんな冗談を言うタイプにも思えない。
「中学一年のとき、急性骨髄性リンパ腫になったんだ。白血病って言えばわかるかな?」
瞠目する僕を見て、空野は眉を寄せて微笑んだ。
「検査でわかってからはすぐに入院して、一年半くらい入退院を繰り返しながら抗がん剤治療をして、寛解って言うのかな……一応、治療は終わったんだけどね……」
彼女の横顔は夕闇に消えそうなくらいに弱々しく、不安に塗れていた。
「二週間前に家で倒れて、病院に運ばれて検査したら……再発、してた……」
唇を噛みしめているのは、きっと涙をこらえているんだろう。学校では決して見ることがなかった表情は、僕の心をひどくかき乱した。
「白血病って完治っていうのはないらしいんだけど、それでもさー……ひどいよね」
空野は泣きそうな顔で笑い、震える声をごまかすように息を深く吐いた。
「夏休みに入ったら、入院するんだ」
「……このこと、友達には?」
「誰にも言ってない。友達には『夏休み中はずっと鹿児島のおばあちゃん家にいるから会えない』って言ってある。いつかはバレるかもしれないけど、まだ言いたくなくて……」
彼女の話に耳を傾けながら、矛盾点に気づく。
「じゃあ、どうして僕に話したんだよ……」
「うーん、なんでだろ……。なんか言いたくなったっていうか、日暮くんなら絶対に誰にも言わないって思ったから、かな?」
肩を竦めて苦笑を零す空野は、「だって言わないでしょ?」と首を傾げた。
「いや……そりゃ、言わない、けど……」
言わない。言えるわけがない。
彼女が命にかかわる病気を患っている、なんて……。
「まぁ、死なないけどね」
それ以上の言葉を失っていると、空野が気を抜いたようにふにゃっと笑った。
教室で見る明るい笑顔とも、悲しそうな笑い方とも違う。力がないように見せつつも、芯を纏った表情だった。
「だって、こんなに可愛い女の子が死ぬなんて、映画やドラマだとありきたりすぎるでしょ? それに、一度は寛解してるんだもん! さっきはちょっと自信なくなったけど、よく考えたら勝負には一回勝ってるわけだし、ゲームなら攻略法がわかってるやつじゃない?」
共感すればいいのか、突っ込めばいいのか、僕にはわからない。下手に口を開けば彼女を傷つけてしまいそうで、慰めすら浮かばなかった。
「というわけで!」
勢いよく立ち上がった空野が、僕の前に立ちはだかる。夕闇に包まれていた視界が彼女に遮られ、いっそう暗くなった。
「日暮優くん。君を今日から来週の水曜日の終業式の日まで、私の相棒に任命します!」
「…………は?」
なんの脈絡もない空野の言葉に、たっぷりの沈黙のあとで漏れた声はとてもまぬけだったに違いない。
「えっ、と……ごめん。まったく意味がわからないんだけど……」
うんうんと相槌を打った彼女は、にこにこと笑っている。
「私、入院するまでにしておきたいことがあるの。ほら、今度いつ外に出られるかわからないし、前のときは色々と制限されちゃったし……。だから、色々やっておこうかなって」
「そ、そういうのは家族とか友達に――」
「家族じゃなくて、友達としたいの! でも、友達に病気のことは話したくないから、事情を知った日暮くんに相棒になってもらいます」
「知ったんじゃなくて、そっちが勝手に言ってきたんだろ!」
「でも、知っちゃったよね?」
ふふん、と鼻を鳴らすように笑顔を見せ、「なので共犯になってもらう」と言い放たれる。
「担保は、尾行がとっても下手なあなたの名誉です」
「……要するに、僕に選択権はないんじゃないか」
悪戯っ子のような顔をした空野が、「交渉成立だよね?」と僕の顔を覗き込んでくる。僕は精一杯の皮肉を込め、「こういうのは脅しって言うんだ」と返した――。
遅くなったことを母から叱られたあとで自室に行くと、連絡先をむりやり交換させられた空野からLINEが届いていた。
【㊙重要事項! 空野未来のやりたいことリスト】
その文面から始まり、立て続けに通知音が鳴り出す。
【海に行く】
【遊園地でデートをする】
【修学旅行に行く】
【夜の学校に忍び込む】
要望は四つらしく、【以上、よろしくお願いします!】と締めくくられていた。
「……いや、無理だろ」
思わず漏れた本音とため息が、気を重くさせる。
そもそも、彼女がなにを考えているのかまったくわからない。
病気というのが本当なのかも、僕には調べる術はない。仮にそれが本当だったとして、どうしてこれまで接点がなかった僕なんかを相棒とやらにしたがったのかも理解に苦しむ。
けれど、僕の平穏を守るためにはやるしかないことだけはわかっていた。
空野は人を傷つけるようなことをするタイプには見えないものの、今日の彼女の態度はいつもとまったく違っていて、思考はちっとも読めなかった。
病気かどうかはさておき、ひとまず協力する方がいいのは明白だ。
【僕が協力できるのは海に行くことだけだよ】
とはいえ、空野に返したメッセージの内容がすべてであり、僕が叶えられる彼女の願いはひとつしかない。
だって、僕は空野の彼氏じゃないから、デートはできない。うちの学校の修学旅行は二年の二学期に行くことになっているし、夜の学校に忍び込むのも常識では不可能だ。
つまり、空野未来を海に連れて行けば、僕は責務を果たしたことになるだろう。
なんて考えが甘かったと気づいたのは、二分後のこと。
【大丈夫! 私にいい案があるから!】
再度鳴った通知音に嫌な予感を抱きながらメッセージを開けば、なぜか空野の自信に満ちた表情が脳裏に浮かんだ。
*****
その翌日。
不安と少しの恐怖心抱えて登校すると、教室はいつも通りの雰囲気に包まれていた。
僕に挨拶をするクラスメイトはいないし、僕もまた誰とも会話を交わさないけれど、嫌な視線や噂話が刺さる様子はない。
ひとまず安堵し、息を小さく吐いた。
空野はもう登校していて、いつも一緒にいる友達たちと談笑している。その姿からは昨日の不調は見当たらず、病気だとは思えなかった。
「夏休みさー、みんなで海に行かね?」
彼女たちは夏休みのことを話しているようで、ひとりの男子の提案に賛成の声が飛ぶ。
「私は今年はずっとおばあちゃん家にいる予定だから、みんなで楽しんできて」
ところが、空野は昨日と同じ理由を口にし、笑顔を見せつつ明るく断った。
「いやいや、高校生にもなってずっとばあちゃん家ってさぁ。未来だけ早く帰ってくるとか、留守番しとくとかでいいだろ?」
「ダメ。今年だけはどうしても行かなきゃ。海はまた来年誘ってね」
不服そうな友達たちに、彼女はきっぱりと言い切ってしまう。残念そうな顔を見せる者もいたけれど、誰もしつこく誘うことはなかった。
海に行く計画を立てる友達を横目に、空野は笑みを浮かべている。ただ、その瞳はどこか寂しげで、今にも泣いてしまいそうに思えた。
(……昨日の話、やっぱり本当なのかな。……い、いや、僕には関係ないんだ)
彼女のことが気になる。
けれど、気にしたところで関わるつもりはないから、むやみに気にしても仕方がない。
自分自身にそう言い聞かせていると、唐突に空野と目が合った。
直後にクスッと笑った彼女が、スマホを取り出してなにかを打ち込み始める。数十秒後、僕のスマホが震えた。
【放課後、海に行きます。よろしくね】
たったそれだけのメッセージからは、『君も行くんだからね』という圧力をひしひしと感じた。拒否できないとわかっているものの、突然すぎて呆れてしまう。
【唐突すぎるよ】
【あと数日しかないんだから、一日もムダにできないの】
「未来、訊いてる?」
友達に声をかけられた空野は、僕とLINEをしている素振りなんておくびにも出さずに「聞いてるよ」と笑い、再び会話に加わっていた。
青い空、白い雲。カラフルなパラソルが広がる砂浜と、遠くに見える水平線。
「海だぁ~!」
そして、目の前に広がる海に向かって叫ぶ少女と、傍らにたたずむ海が似合わない僕。
「……で、日暮くんはどうしてそんなにやる気がないの?」
ため息をつくと、空野が怪訝そうな視線を寄越してきた。
「海なんて好きじゃないからね。暑いし、潮風はベタベタするし、いいことなんてないだろ。それに、制服のままだから砂浜も歩きにくいし」
「え~、そういうのも海の醍醐味じゃない?」
「意見が合わないな」
「うーん、合いませんねぇ」
クスクスと笑う彼女は、さして気にしていないように海を見遣る。
「それで、空野は今から泳ぐわけ?」
一学期の期末テストが終わった金曜日の今日は短縮授業で、学校から一時間かかるこの場にいる今はまだ十四時過ぎだ。
僕たちは、同じ電車の別々の車両に乗り込み、学校からだいぶ離れたところで同じ車両に移動した。そう提案したのは、もちろん周囲の目が気になる僕だ。不満そうに承諾した空野は、ここに来るまでぶつぶつ文句を言っていた。
「とりあえずお腹空かない? 海の家で食べようよ」
けれど、念願が叶った彼女の機嫌はすこぶるよく、すっかり笑顔になっている。
密かに空腹で限界だった僕は、平素を纏いつつもすぐに頷き、ふたりで海の家に行った。
「焼きそば……うーん、カレーも捨てがたいなぁ。どれもおいしそうで迷っちゃう!」
「僕はカレーにする」
「じゃあ、私はロコモコにしようかな」
焼きそばとカレーはいったいどこに行ったのか、なんて口にはしなかったけれど。
「優柔不断って言いたいんでしょ?」
僕の視線に気づいた空野は、眉を寄せて唇を尖らせた。
「別になにも言ってないだろ」
図星を突かれたことを隠してカウンターに行けば、彼女も僕の後についてきた。
注文したカレーは、安いレトルトのような味だった。これで九百円はぼったくりだ。
ロコモコにすると言っていた空野は、なぜかカウンターで冷やしうどんを頼んでいた。テーブルを挟んで向かい合いながら、やっぱりよくわからないな……と思った。
「さて、泳ぎますか!」
満腹になった僕は、彼女の言葉にため息を漏らす。
「日暮くん、着替えてきてよ」
「僕は適当に待ってるから、空野だけ泳いでくればいいよ。水着もないしね」
急に海に来ることになったから、僕は水着を持ってきていない。幸いにも、今日は体育の授業がなかったから、ださいスクール水着すら持っていなかった。
「私は見学してるから、日暮くんだけ泳いできて。水着なら、ここでレンタルできるから」
「……待て。おかしくないか? どうして海が嫌いな僕が水着をレンタルしてまで泳がなきゃいけなくて、海に来たかった空野が見学なんだ」
不服を申し立てる僕に、空野が苦笑を浮かべる。
「だって、私は運動禁止だもん」
「えっ……」
「こう見えても病人だよ? 最近の体育の授業は、貧血ってことで見学してるんだ」
そういえば、彼女は昨日の体育の授業は見学していた。
普段の体育は男女別だけれど、水泳のときはプールを半分ずつ使用しているため、女子たちもすぐ傍で授業を受けている。
ただ、昨日はまだ空野が病気だなんて知らなかったし、女子特有の理由か風邪気味なのか……くらいにしか思っていなかった。
「そんなわけで、日暮くんには私の代わりに泳いでもらいます」
「悪いけど、僕は運動が苦手だし、ほとんど泳げない。空野の事情はわかったけど、こればかりは僕も譲れないよ」
「なるほど」
頷く彼女を見て、安堵感を抱く。ところが、これで諦めてくれるだろうと思ったのも束の間、僕の憂鬱は終わらなかった。
「日暮くんの言い分はわかった。でも、私は別にクロールをしてって言ってるわけじゃないよ? 水着を着て海に入ってくれればいいだけだから」
にっこりと笑う顔には、もうすでに覚えがある。
つまり、やっぱり僕には拒否権なんてないのだ。
空野が選んだ水着は、膝上丈のカラフルなトロピカル柄のものだった。
「似合ってるよ!」
「本気で言ってるなら、空野のセンスを疑うよ。こんなの、ただ浮かれた痛い奴じゃないか」
「日暮くんって後ろ向きだよね」
「余計なお世話だよ」
どうやら彼女は、本気でそう思っているらしい。「似合ってるのになぁ」と言う顔は、不服そうだった。
「では、いってらっしゃい」
「まさか本気でひとりで泳がせるつもり?」
「まぁまぁ、いいじゃない。大丈夫だよ! 私はパラソルの下で待ってるから」
なにもよくないし、なにが大丈夫なのかもわからない。
ただ、空野はなんとしてでも僕を海に放り込みたいようで、背中をぐいぐいと押されてしまった。「荷物はちゃんと見とくから」なんて言われても、安心感は芽生えない。
ため息混じりに波打ち際まで行くと、彼女がにっこりと笑って僕の背中から手を離した。
裸足になった指先に、寄せてくる波が触れる。海水は冷たく、汗を掻いていた体には気持ちよかったけれど、僕にはいかんせん水泳のセンスがない。
重い足取りで歩を進めておもむろに振り返れば、空野はまだ背後で僕を見ていた。
「ほら、もっと楽しそうにしてよ!」
満面の笑顔で発された要望に僕から漏れたのは、笑みではなく深いため息。
(空野って、あんな奴だったのか)
心の中でごちて冷たい海に入っていき、腰まで海水に浸かったところで再度振り向くと、彼女はパラソルの下にいた。
嬉しそうに手を振る姿を見ても、やっぱりため息しか出ない。
まったく泳げないわけじゃないけれど、下手くそなクロールを披露する気はない。
けれど、ぼんやりと立っているのも心許なくて、仕方なく仰向けに浮かんでみた。
視界にはうんざりするほど綺麗な青空が広がり、眩しい太陽に目を細める。海水浴日和の晴天だというのに、僕の気分は落ちていくばかりだ。
「この分だと、他も全部付き合わされるんだろうなぁ」
気が重い僕は、とにかく空野が約束を果たしてくれることだけを信じて、自分の名誉を守るために頑張るしかない。
ストーカー呼ばわりされてしまったら平和な学校生活は消え去り、運が悪ければ三年間ずっと地獄のような日々を送るはめになるかもしれないのだから……。