永遠のファーストブルー

*****

翌日、無事に終業式を終えた僕たちは、一度帰宅して夜にこっそり家を抜け出し、二十一時に学校の前で落ち合った。

お互い律儀に制服を着ていたことに噴き出したあと、守衛の目を避けて校内に忍び込んだ。

不気味な感覚を抱く僕に反し、空野は楽しそうだった。
ただ、教室はどこも鍵がかかっている。職員室に鍵を取りに行くわけにもいかず、廊下を歩いて回ることしかできなかった。

それでも、嬉しそうにしていた彼女は、校舎を出たあとで笑みを浮かべた。

「最後にもうひとつだけ付き合ってくれない?」
「ここまで来たら、空野の気が済むまで付き合うよ」

僕の言葉に破顔した空野が向かったのは、プールだった。

「知ってる? 実はここの鍵って簡単に開くんだよ」

プールの出入り口の鍵は古く、少し揺らせば鍵が外れる。そう説明した彼女は、見事に実践して見せた。

「とんだ不良少女だな」
「お褒めに預かり光栄です」

プールサイドはとても静かで、暗い水面が風に揺れている。
空野に荷物を置いておくように言われ、嫌な予感とともにスマホごとプールサイドに置く。彼女はにっこりと笑うと、僕の手を力いっぱい引っ張った。

「せーの!」
「うわっ!」

勢いよくプールに落ちた、ふたつの体。
大きな水音と水飛沫を上げた僕は、空野とともに水中に沈み、水泡だらけの中でプールの底を蹴った。

「ぷはっ……! 空野⁉」

水中から顔を出した彼女が、してやったりと言わんばかりの笑みを見せたかと思うと、声を上げて笑い出した。

空野の動きに合わせて落ちる水滴が、光の粒みたいに舞う。今夜は新月なのに、まるで彼女の周囲だけキラキラと輝いているように見えた。

「日暮くん、今日まで私のわがままに付き合ってくれてありがとう。もし、日暮くんが私との日々を忘れても、私は一生忘れないから」

真っ直ぐな双眸が、僕を射抜く。
空野のこの瞳が、僕はとても苦手だった。

「僕だって忘れないよ。こんなにわがままで自由奔放な女の子に出会ったことはないし、この数日は強烈すぎて忘れられそうにないからね」

けれど、僕の皮肉に面映ゆそうに微笑んだ彼女を前に、それは過去形になっていた。

「君の働きに免じて褒美をしんぜよう。なんなりと申してみよ」
「別にいいよ。そもそも、僕は自分の名誉を守るためにやったことだ」

冗談めかした空野に首を横に振れば、彼女は不服そうにし、少しして再び僕を見据えた。

「じゃあ、私のファーストキスは?」
「ばっ……⁉ バカ、なに言ってるんだ! そういうのは好きな人とするもんだろ! 冗談にも程があるよ!」

突飛な提案に狼狽した僕の心臓が大きく跳ね、ガラにもなく顔が熱くなる。
ところが、空野の双眸は至って真剣で、僕を見つめる瞳から逃げられなかった。
訪れた沈黙に胸が詰まり、呼吸の仕方が思い出せなくなる。

「そ――」

意を決して口を開いた直後、校庭からこちらに向かって懐中電灯の光が近づいてくるのが見え、咄嗟に空野の手を引いた。

「空野、見回りが来た! 早くここから出るぞ!」
「う、うん!」

彼女を先にプールから上がらせ、ふたり分の荷物を搔っ攫うように手にする。急いでプールを抜け出し、守衛の視線を避けられる道を通って学校を出た。

並んで歩く僕たちは、どちらも言葉を発しなかった。
僕はさっきのことに触れるのが気まずかったし、空野はもしかしたらあの提案を後悔しているのかもしれない。

ずぶ濡れのまま電車に乗っていつものように長尾駅で降り、彼女と並んで無言のまま歩く。
青い屋根の家が見えてくると、足が重くなった気がした。

「じゃあ……ありがとう」

僕は空野に荷物を渡し、「あのさ……」と切り出す。
さっきのことに触れる勇気はなかったけれど、お見舞いに行っていいかと訊きたかった。けれど、口が上手く動かない。

「日暮くん」

すると、僕を見ていた彼女が、柔らかい笑みを浮かべた。

「今夜は月が綺麗ですね」

その言葉の意味を捉え損ねたのは、今夜は新月だからだ。

「私もキスは好きな人とするものだと思ってるよ」
「え……?」
「またね」

そんな僕を残したまま、空野は淀みのない笑顔を置いてドアの向こうに消えてしまった。
僕はしばらくの間、この場から動けなかった――。

*****

あの夜から三週間が経った。

僕は空野が口にした言葉をどう受け取ればいいのかわからないままで、刺激のない夏休みがひどく退屈に思えた。
それほどまでに、彼女と過ごした時間は濃密なものだったのだ。

お見舞いに行こうかと何度も悩んだけれど、どうしても空野がそれを望んでいるとは思えなくて。彼女から連絡がないこともまた、僕に二の足を踏ませた。

あのとき、僕はどう言えばよかったのだろう。
未だに出ない答えに頭を抱え、夏休みの課題を広げても一向に進まない。漫画を読む気にもなれず、空野のことばかり考えていた。

(悪化したとか……? いやでも、空野は一度は寛解してるんだし)
不安が過るたび、慰めにもならない言葉を繰り返す。彼女はもっと不安な毎日を送っているのだろうと思うと、ただ日々を消化しているだけの自分に苛立ちもした。

やるせない感情ばかりが募り、課題をするのは諦めてベッドに突っ伏す。
直後、スマホが鳴り出し、着信を知らせた。
飛び起きた僕は、ディスプレイに表示された【空野未来】という四文字に目を丸くし、すぐに気分が高揚していくのがわかった。

空野にそれを悟られたくなくて、急いで深呼吸をする。平静を纏える自信はなかったけれど、逸る気持ちを抑えられなくて通話ボタンをタップしていた。

「もしもし?」

思ったよりも弾んだ声をごまかすように、咳払いをひとつする。

電話の向こうがやけに静かなことに違和感を覚えながら、再び口を開こうとした刹那。
『日暮優くんですか?』
予想とは違う聞き慣れない声が鼓膜を揺らし、心臓が嫌な音を立てた。

「……っ、はい」

肌にじんわりと汗が滲み、直後に全身に悪寒が走る。

『はじめまして。空野未来の母です』

その先は聞きたくなかった。
真実を知らなければ、僕はまだあの日々の中の思い出だけを感じていられるはずだったから。

けれど――。
『娘が……未来が、昨夜亡くなりました』
無情にも現実が突きつけられ、目の前が真っ暗になった。



青い屋根の家の前までは何度も足を運んだのに、こんな形で初めて中に入ることになるとは想像もしていなかった。
空野の母親は、空野ととてもよく似ていた。彼女が大人になったらこんな風になるんじゃないか、と思えるほどだった。

「未来にとてもよくしてくれたんですってね。あの子の希望で葬儀は家族だけで済ませるんだけど、『日暮くんにだけは連絡してほしい』って言われてたの」

泣き腫らした目で微笑む空野の母親は、空野が安置されている居間に僕を招き入れ、彼女と対面させてくれた。

そこにいた空野は、まるで眠っているようだった。
白い肌も柔らかそうな髪も、最後に会ったときと変わっているとは思えない。
けれど、彼女はもうこの世にはいないというのだ……。

「ありがとう、未来を笑顔にしてくれて。あの子、最近はよくあなたの話をしてたのよ」
「え……?」
「入院することが決まったときも、『やりたいことがあるから待って』って懇願されたのよ。きっとあなたと過ごしたかったのね」

入院した二日後から白血病の治療を始めるはずだった空野は、その日の朝に肺炎にかかって合併症を併発し、容態が急変した。
入院した段階からすでに悪化していた彼女の体は、高熱と合併症に耐えられなかったのだという。

「でも……あんなに元気に笑って……」

貧血を起こしたことはあったけれど、空野はずっと笑っていた。ときどき彼女が病人であることを忘れるくらい、明るい笑顔を見せていた。

空野の母親は悲しそうに微笑み、「きっとあなたとの時間が楽しかったのね」と零した。

「それでね、未来から伝言があるの」

茫然としている僕に、優しい声が投げかけられる。

「『あのとき渡せなかったお礼、よかったらもらって』って。私にはなんのことか教えてくれなかったんだけど、『そう言えばわかるから』って言うのよ」

なにも言えずに空野の母親を見れば、胸が張り裂けそうになった。

(どうして……。どうして僕はあのとき……)
空野の話を最後まで聞かなかったことが、大きな後悔となって押し寄せてくる。
今になって、取り返しのつかないことをしたのだと気づいた。

「『五分だけふたりきりにして』って言われてるから、またあとで来るわね」

かけられた言葉が、耳からすり抜けていく。
背後で空野の母親が出ていった気配がしても、僕はただ空野を見つめたまま動けなかった。



ようやくして手を伸ばし、小さな手に触れる。

「空野……」

今にも目を覚ましそうなのに、彼女が瞼を開けることはもうない。
なにをしてもこの現実が覆らないと、どこか冷静な僕が囁く。
濁流のように押し寄せてくる後悔が、僕の心を覆い尽くしては責め立てた。

「お礼なんて……本当にいらなかったんだ……」

空野がまた笑ってくれるだけでよかった。
どれだけわがままを言ってもいいから、いつかまた彼女と一緒に過ごしたかった。

ごめん、と声にならない言葉が落ちる。それでも、どうしても伝えたいことがあるから、熱を持った喉の奥から声を絞り出した。

「……っ、今夜は月が綺麗ですね」

まだ日が高く、今夜の月が綺麗かどうかなんてわからない。少なくとも、今の僕の目に美しく映ることはないだろう。

「……お礼を言うのは僕の方だったんだ」

空野未来は、僕にはあまりにも真っ直ぐすぎて手が届かない。
そう思っていたのに、一緒に過ごした日々を思い返せば、彼女はごく普通の女の子だった。

「ありがとう……。僕を相棒に選んでくれて……」

すべてを悟っても唇に触れることはできなくて、滑らかな頬にそっとくちづけた。



少ししてふすまの外から声をかけられ、立ち上がった僕は空野の母親にお礼を言って、空野の家を後にした。

夏の日差しは、僕を容赦なく照りつける。痛いくらいの眩しさに、力ない笑みが漏れた。

「空野未来は最初から最後まで、なんて身勝手な女の子だったんだ……。僕は振り回されてばかりだったおかげで、涙も出ないよ」

涙なんて出るはずがない。
けれど、どうしてか視界に映る憎らしいくらいの青空が歪んでいく。目にする景色のすべてがグチャグチャで、その輪郭はなにひとつはっきりしない。

明るく天真爛漫で、真っ直ぐだけれど自由奔放。コロコロと変わる表情は愛らしく、ときにはわがままを押し通す。
僕が恋をしたのは、とてもじゃないけれど僕の手に負えないような女の子だった。

初恋は叶わないと、最初に言い出したのは誰なのか。しかし、初恋相手が死んでしまったせいで叶わない――なんて予想もしなかった。

僕のちっぽけな初恋は永遠に報われることはなく、けれど記憶の中には強烈な思い出だけが残っている。

この先、どれだけ美人で聡明な女性と出会ったとしても、僕はきっと空野未来に抱いた以上の恋心を持つことはない。
僕がどんなに素晴らしい青春時代を送ろうと、空野未来と過ごした日々以上の思い出はきっとできない。

まばゆいくらいにひたむきな彼女は、永遠に僕の青春そのものになったのだ――。

秋が走り抜けて、冬が終わる頃。

「日暮、頼まれてた資料が届いたぞ」

ふと桜の木が蕾を膨らませていることに気づいた僕は、廊下で担任に呼び止められた。振り向いてお礼を言い、A4サイズの資料を受け取る。

「しかし、日暮が教師を目指すなんてなぁ。俺はてっきり、日暮は学校が好きじゃないのかと思ってたよ」

あけすけに話す担任に、それを言うのはどうなんだ、と思いつつも不快感はない。空気が読めない風でいて、生徒のことをよく見ていると知っているからだ。

「でも、日暮みたいな人間は教師に向いてると思う。だから頑張れよ」

ポンと肩を叩かれて頭を下げれば、担任は職員室の方へと戻っていった。
僕は忘れ物を取りに教室に戻り、二学期からずっと空いたままの机に苦笑を向ける。

「学校なんて嫌いだったよ」

空野未来の訃報がクラスメイトたちに知らされたのは、二学期の始業式の日だった。

教室中が戦慄し、声を上げて泣き出す生徒もいる中で、僕だけはただ無心で窓の外を見つめていた。
何人かは空野の家に弔問したようで、彼女の机は三学期いっぱいまで教室に置いておくことが決まった。

それだけ、空野はみんなから愛されていたのだろう。

僕は相変わらずひとりで行動してばかりだし、胸を張って友達と呼べる人もいない。けれど、前ほどぼっちを極めてはいないし、クラスメイトたちとも話すようにはなった。

彼女と過ごした日々を思い返せば、学校を嫌いだとは思えなくなっていたのだ。
できれば、卒業してもあの青さを見ていたいと思うほどに……。

こんな風に変わったのは、空野のせいだ。

「本当に君には振り回されてばかりだよ」

担任にはあんな風に言われたけれど、自分が教師に向いているとは思えない。
ただ、そんなことを口にすれば、彼女に不満げな顔をされるに違いない。
だから、やるからには真面目に真剣に取り組むつもりだ。

ぼんやりとしていた僕は、教室の窓から見えた夕焼けにハッとする。

今日は空野の月命日で、彼女の家に行く約束を取りつけている。月命日には必ず、小さな花屋で買った花を一輪届けているのだ。

「今夜は月が綺麗だといいな」

僕の初恋は報われることはなかった。
けれど、僕の記憶の中には今も、あの夜のプールでキラキラと輝いていた空野未来の笑顔が痛いくらいに焼きついている――。





【完】

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