三十分ほどすると、空野の顔には血色が戻ってきた。
「ごめんね、もう大丈夫だから」
彼女は、平気だと証明するようにゆっくりと立ち上がると、笑顔で「行こう」と駅の方に視線を遣った。不安が残る僕に、「本当に大丈夫だよ」と飛んでくる。
「荷物、持つよ」
僕は自分のリュックを背負うと、空野のバッグを持った。
「ありがとう」
幸いにも駅はすぐ目の前で、十六時前の今はまだ海水浴場は賑わっている。この時間なら電車も空いているだろうと思うと、それが救いのように感じられた。
案の定、僕たちのいる車両はガラガラだった。誰もいないシートを、ふたりで占領する。
ホッとしたように「涼しいね」と笑う空野に頷くと、彼女が眉を寄せた。
「親に連絡しないでいてくれてありがとう」
「いや、それは別に……」
言い淀んだ僕の心情を読み取るように、空野が「本当にごめんね」とごちる。
「迷惑ついでに聞いてくれる?」
申し訳なさと真剣さをない交ぜにした面持ちに頷くことしかできなかったけれど、彼女は「ありがとう」と言い置いて続けた。
「本当はね、倒れて病院に運ばれたとき、すぐに入院することになりそうだったんだ」
ガタンガタンと電車の音が響く中、空野の悲しげな声音が落ちていく。
「でも、前に入院したときに病院から全然出られなくて、すごくつらかったのね? だから、『せめて一学期が終わるまでは普通に学生生活を送りたい』って言ったの」
人の少ない車両では、彼女の声がよく聞こえた。
「家族にも先生にも反対されたんだけど、一度入院したらいつ退院ができるかはわからないし、色々と制限されるから、どうしても譲れなかった」
対面の窓を見遣ったままの空野とは、視線が合わない。僕は黙って聞くことしかできなくて、せめてその横顔から目を逸らさずにいようと思った。
「結局は私の粘り勝ちだったんだけど、また倒れたり悪化したりしたらすぐに入院するって条件付きなんだよね」
そこでようやく、さっきの彼女の態度の意味を悟った。
「だから、日暮くんが連絡しないでいてくれたことが嬉しかった。ありがとう」
お礼なんて言ってもらえるようなことはしていない。
あのとき、僕は空野に気圧されて思い留まっただけで、そこに自分の意思があったわけじゃない。なにかあっても責任が取れないから、本当は彼女の言う通りにするのが怖かった。
それでも、空野の真剣な瞳を前に、自分の判断は間違いじゃなかった……と思えた。
「……すぐに入院しなきゃいけないくらいだったってこと、だよな?」
けれど同時に、彼女の体調の深刻さを突きつけられ、不安と恐怖心が湧いた。
「でも、別に今すぐどうなるってことはないんだよ。来週には終業式だし、その次の日には入院するのが決まってるから、治療もすぐに始められるみたいだしね」
「そうだとしても、残りのリクエストには応えられない。僕は空野の体調に責任は取れないし、なにかあってからじゃ遅いだろ」
「責任を取ってもらおうなんて思ってないよ。私が言い出したことなんだし、日暮くんには迷惑かけないから」
「迷惑って……」
そこで言葉を止めたのは、空野が膝の上でこぶしを握っていることに気づいたから。これ以上言えば傷つけてしまうのは明白で、強くは言えなかった。
「ごめん、そうだよね……。一緒にいて体調を崩されるだけで、充分迷惑だよね」
「別にそんな風には思ってない」
「でも、迷惑だって思ってるでしょ?」
唇を噛みしめる彼女に、ため息が漏れる。
(ああ、もう……本当に面倒くさい。これだから人と関わるのは嫌なんだ)
「思ってるよ、迷惑だって」
刹那、空野の表情が歪み、その瞳には涙が浮かんだ。泣くのをこらえるように唇を噛みしめ続ける彼女は、僕から顔を背けた。
「でも、それは別に体調のことを言ってるんじゃない」
「え?」
「正直、そこはどうでもいい。もちろん入院した方がいいとは思うけど、僕は空野の家族でも友達でもないから、それに対して意見するつもりはないよ」
空野はきょとんとしたあと、僕の意図を探るようにじっと見つめてきた。
何度目かわからないため息を吐きながら、かゆくもない頭をガシガシと掻く。海水のせいで髪がべたついていた。
「ごめんね、もう大丈夫だから」
彼女は、平気だと証明するようにゆっくりと立ち上がると、笑顔で「行こう」と駅の方に視線を遣った。不安が残る僕に、「本当に大丈夫だよ」と飛んでくる。
「荷物、持つよ」
僕は自分のリュックを背負うと、空野のバッグを持った。
「ありがとう」
幸いにも駅はすぐ目の前で、十六時前の今はまだ海水浴場は賑わっている。この時間なら電車も空いているだろうと思うと、それが救いのように感じられた。
案の定、僕たちのいる車両はガラガラだった。誰もいないシートを、ふたりで占領する。
ホッとしたように「涼しいね」と笑う空野に頷くと、彼女が眉を寄せた。
「親に連絡しないでいてくれてありがとう」
「いや、それは別に……」
言い淀んだ僕の心情を読み取るように、空野が「本当にごめんね」とごちる。
「迷惑ついでに聞いてくれる?」
申し訳なさと真剣さをない交ぜにした面持ちに頷くことしかできなかったけれど、彼女は「ありがとう」と言い置いて続けた。
「本当はね、倒れて病院に運ばれたとき、すぐに入院することになりそうだったんだ」
ガタンガタンと電車の音が響く中、空野の悲しげな声音が落ちていく。
「でも、前に入院したときに病院から全然出られなくて、すごくつらかったのね? だから、『せめて一学期が終わるまでは普通に学生生活を送りたい』って言ったの」
人の少ない車両では、彼女の声がよく聞こえた。
「家族にも先生にも反対されたんだけど、一度入院したらいつ退院ができるかはわからないし、色々と制限されるから、どうしても譲れなかった」
対面の窓を見遣ったままの空野とは、視線が合わない。僕は黙って聞くことしかできなくて、せめてその横顔から目を逸らさずにいようと思った。
「結局は私の粘り勝ちだったんだけど、また倒れたり悪化したりしたらすぐに入院するって条件付きなんだよね」
そこでようやく、さっきの彼女の態度の意味を悟った。
「だから、日暮くんが連絡しないでいてくれたことが嬉しかった。ありがとう」
お礼なんて言ってもらえるようなことはしていない。
あのとき、僕は空野に気圧されて思い留まっただけで、そこに自分の意思があったわけじゃない。なにかあっても責任が取れないから、本当は彼女の言う通りにするのが怖かった。
それでも、空野の真剣な瞳を前に、自分の判断は間違いじゃなかった……と思えた。
「……すぐに入院しなきゃいけないくらいだったってこと、だよな?」
けれど同時に、彼女の体調の深刻さを突きつけられ、不安と恐怖心が湧いた。
「でも、別に今すぐどうなるってことはないんだよ。来週には終業式だし、その次の日には入院するのが決まってるから、治療もすぐに始められるみたいだしね」
「そうだとしても、残りのリクエストには応えられない。僕は空野の体調に責任は取れないし、なにかあってからじゃ遅いだろ」
「責任を取ってもらおうなんて思ってないよ。私が言い出したことなんだし、日暮くんには迷惑かけないから」
「迷惑って……」
そこで言葉を止めたのは、空野が膝の上でこぶしを握っていることに気づいたから。これ以上言えば傷つけてしまうのは明白で、強くは言えなかった。
「ごめん、そうだよね……。一緒にいて体調を崩されるだけで、充分迷惑だよね」
「別にそんな風には思ってない」
「でも、迷惑だって思ってるでしょ?」
唇を噛みしめる彼女に、ため息が漏れる。
(ああ、もう……本当に面倒くさい。これだから人と関わるのは嫌なんだ)
「思ってるよ、迷惑だって」
刹那、空野の表情が歪み、その瞳には涙が浮かんだ。泣くのをこらえるように唇を噛みしめ続ける彼女は、僕から顔を背けた。
「でも、それは別に体調のことを言ってるんじゃない」
「え?」
「正直、そこはどうでもいい。もちろん入院した方がいいとは思うけど、僕は空野の家族でも友達でもないから、それに対して意見するつもりはないよ」
空野はきょとんとしたあと、僕の意図を探るようにじっと見つめてきた。
何度目かわからないため息を吐きながら、かゆくもない頭をガシガシと掻く。海水のせいで髪がべたついていた。



