普段誰の噂にも興味なさそうな地味な生徒も、ギャーギャー騒いでばかりの生徒も、噂が大好きなおしゃべりな生徒も、誰もが柚葵の行動を静かに見守っていた。
 柚葵はすたすたと黒板に歩み寄ると、なぜかいきなりチョークを手に取る。そして、のろのろとまたかなり遅いスピードで、文字を書き始めた。

【ずっと、自分の説明をしてこなかったので、誤解を招いてしまいごめんなさい。私は“場面緘黙症”という病気です。家では話せるけど、学校では話せない病気です。でも今朝、特定の人となら、外でも声が出せるようになりました。突然だったので、自分でもとても驚きました。このことでクラスの皆を騒がせてしまいごめんなさい。学校でも話せるかもと思い登校しましたが、まだ学校では声が出ませんでした。だから黒板に書いています。
 
 決して、クラスの皆と話したくないわけじゃありません。
 私は、スマホの音声機能で、皆と会話をすることができます。
 イエスかノーで聞いてくれたら、首ふりで反応することができます。

 頑張るので、皆と関わらせてほしいです。
 私は、皆と仲良くなりたいです。】

 すべて書き終えた柚葵は、黒板の前でロボットのようにぎぎっと動いて、前を向き、ぺこっと頭を下げた。
 クラスはシーンと静まり返ったけれど、ぱらぱらとまばらな拍手が起こる。
 しかしそれは本当に数人だけで、大半の人間は『何言ってんだあいつ?』という感情だった。
 柚葵はぱぱっと黒板を消すと、自分の席に着き、石のように再び固まる。柚葵の隣の席の女子が、「志倉さん、字きれいなんだね、この前も思ったけど」と話しかけている。
 柚葵は急いでスマホを取り出し「ありがとう」とボイス機能を使って会話をしていた。
 その一連を見て、固まっていたはずの感情が、動きかけてしまう。
 よかった。もう柚葵は、“そっち”の世界で……“普通”の世界で、きっと上手くやっていける。よかった。柚葵はすごい……。
 まだ声を完全に取り戻せたわけじゃないけれど、これから徐々に話せる場所が増えていくことをそっと願うばかりだ。
 柚葵の急な行動によって、教室内は様々なパニックが起こっている。南は噂を言いふらした女の子の頭をパコッと丸めた教科書で叩いていた。
 俺はその騒々しさから抜け出すように、教室から静かに去っていった。

 コートを羽織って屋上にたどり着くと、まず深く呼吸をした。白い吐息が視界の前に雲をつくる。
 柚葵の進歩に、記憶の操作は少しでも貢献できたのだろうか。だったらよかった。
 嬉しい気持ちと同時に、声を失った原因はやはり自分だったということが証明され、苦しい気持ちにもなる。
 記憶を消した甲斐があったと、思ってもいいのだろうか。自分の決断が正しかったと、もう、そう思っていいのだろうか。
 俺との記憶が抜けた彼女の脳内では、俺の存在はクラスメイトのモブってとこだろう。恐らく名前も覚えていないはずだ。こんな人いたっけ、という意識程度だろう。
 でも、それでいい。柚葵が、トラウマを忘れたことで、声を取り戻せたのなら。

「成瀬君」
 そう思っていると、“成瀬君”と、自分の名前を呼ぶ心の声が、突然聞こえてきた。
 ――いや、心の声じゃない。本当の、人の声だ。
 慌てて振り返ると、そこには予想外の声の主……柚葵がいた。
「は、なんで……俺の名前……」
 ありえない光景に、俺は絶句したまま、屋上のドアの前に立っている、白いコート姿のままの彼女を見つめる。
 柚葵が俺の名前を呼ぶ声を、今、生まれて初めて、聞いた。鈴の鳴るような、透明感のある声を。
 頭の中が、雪のように真っ白になって、思考が停止していく。
「な……るせ……くん」
「なんで、話せてんの……、まだ学校では無理だってさっき」
 どうして俺のことを追いかけてきたのか。
 どうして学校内なのに声が出せているのか。
 二重で驚く俺に、柚葵はゆっくりゆっくり話しだす。
「屋上なら……外だから……教室より……す、少しリラックスして話せるみたい……。まだ慣れてなくて……つっかえる感じがするけど」
「そうなの……か」
 とてもゆっくりだけれど、彼女は確かに話せている。外で話せる理由は分かったとしても、俺のことを追ってきた理由が分からない。記憶を消してから俺と柚葵は一度も関わっていないというのに。
 パニック状態になった俺は、思わず頭を抱える。
 そんな俺に、柚葵はさらに追い打ちをかけるように衝撃的なことを言い放ったのだ。
「わ、私……、忘れてないよ、成瀬君との、今までのこと……」
「は……? 何、言ってんの」
「忘れてない、全部覚えてる……」
 柚葵の記憶から俺の記憶はなくなっていない? どうして? 催眠術が効かなかったのか? いや、しっかり意識を集中して、以前と同じように行えたはずだ。
 それなのに、いったい、どうして……?
 戸惑っていると、柚葵はたどたどしくも自分の声で話し始める。
「あの時……心の中で強く叫んだ……。“成瀬君を忘れたくない”って本心を……。成瀬君の念を……跳ね返すように」
 嘘だ。そんな理由で跳ね返せるようなものじゃない。そんなこと、手記のどこにも書かれていなかった。
「“君は、透明になる前に、自分の気持ちを叫びなさい”……」
「え……?」
「芳賀先生のあの絵の解説の意味が……やっと分かった。そして、あの作品は……私のための作品だったってことも……」
 柚葵が言う、あの作品とは、“半透明のあなたへ”という作品だろう。
 たしかに、そんな一文が作品の解説に書いてあったような気がするけれど、それが曾祖父からの何かの伝言だったなんて、考えたこともない。ただ手記に目を通すばかりで……。
「成瀬君との記憶が透明になる前に……自分の気持ちを叫べって、芳賀先生はきっと教えたかったんだって……思ったの」
 嘘だろ。それでお互いの念が相殺されて、記憶が消えなかったとでもいうのか。
 そんな奇跡、起こってたまるか。柚葵の目にもう一度自分が映るだなんてこと、あってたまるか。
 そんなこと、絶対に許されない。柚葵のためにならない。
 怒りに近い動揺が、込み上げてくる。
「忘れたく……なかった……成瀬君の……こと……」
 目に涙を溜めながらそう言う柚葵に、俺は逃げるように汚い言葉を投げつける。
「なんでだよ……。俺のことが怖いだろ、今も聞こえてくんだよっ」
「そうだけど、でも……」
「俺はずるい人間だから、自分の罪悪感を拭うために、お前の声になるって言ったんだ。優しくしたのは自分のためだ! 本当はいつでも記憶なんて消せたのにな……!」
 感情任せに放った俺の言葉に、押し黙る柚葵。
 はらはらと舞い降りてくる雪が、視界を何度も霞ませる。
 もう痛くて、見ていたくなくて、目を背けたくて、逃げ出したくて、俺は両目を右手で覆った。
 ただ悲しいという感情が、波のように襲ってくる。
 お願いだ。嫌ってくれ。そのまま、俺みたいな人間に絶望して離れていってくれ。
 俺はもうこれ以上、大切な人を不幸になんかしたくない。もう、それしか願いはないんだよ。
 目を塞いで立ちすくんでいると、鈴のような声が再び鼓膜を揺らした。
「だ、誰も……成瀬君の心の痛みを知らないなんて……なかったことにしちゃうなんて……か、悲しすぎる……」
「もう何も、言うな」
「そんなの本当に……透明人間だ……」
「柚葵」
「私が……覚えてる。全部、忘れない……。な、成瀬君が、苦しんでたこと、全部、覚えてたいの……っ」
 その言葉に、頬を、大粒の涙が伝っていった。目を押さえる指の隙間から、止まることなく溢れだしていく。
 彼女の記憶を消したあの日を最後に、もう泣かないと決めていたのに。すべての心を閉ざして、過ごしてきたというのに。
 どうして柚葵は、そんな簡単に、俺の心をこじ開けてしまうんだ。
 人の心が読めないのに、どうして、一番欲しい言葉をくれるんだ。
 雪の向こう側で涙を流している柚葵を見て、気づいたら体が勝手に動き出していた。
「柚葵っ……」
 簡単に腕の中におさまってしまうほどの、華奢な体を抱きしめる。こんなに大切なものを、どうして手離すことができただろう。
 壊れるほど抱きしめながら、俺は、心の中で曾祖父に話しかける。
 俺は、許してもらえるだろうか。誰かを愛することを。大切に思うことを。
 答えなんて返ってこないと分かっているのに、問いかけてしまう。怖くて、分からなくて。
「声を……少しでも取り戻せたら……話しかけようって、思ったの……」
「うん……」
「カウンセリングとか、たくさん受けて……過去を見つめて、わ、私が変わって……成瀬君の罪意識を、どこかへ飛ばしちゃいたかったから……」
「うん……」
「ご、五年かかっても、十年かかってもいいから……その時会いに行こうって……っ」 
 柚葵の健気すぎる言葉に、ぎゅっと胸が絞られたように苦しくなる。
 愛おしいって、こんなにも苦しい気持ちになるんだ。
 ありがとう。ありがとう、ありがとう、ありがとう、柚葵。
 空っぽだった俺に、こんな感情を教えてくれて。
「柚葵が好きだ……、死ぬほど」
 なんでだよ。なんでこんな言葉しか、言えないんだよ。
 人の心が読めるくせに、自分の感情の少しも伝えきれていない。もどかしい。
 でも、柚葵が腕の中で優しく微笑んでいるのを見て、言葉なんてどうでもよくなってしまった。
「私も……好きです」
 真っ暗になっていた世界も、君がいるだけで、簡単に光が灯る。
 ただ眩しくて、ただ愛しくて、抱きしめることだけで、精一杯だった。
 柚葵を離したくなくて、腕の中に閉じ込めたままでいると、彼女はまたゆっくりと話し出す。
「か、悲しいとか……う、嬉しいとか……その日感じたことを、誰かに伝えられた時……人との繋がりを感じられた時、私は、生きてるって感じた……。成瀬君が思い出させて……くれた……。だからそれを、これからも成瀬君に、その能力で、聞いてほしい。今日感じたことを、知ってほしい……。その相手は、成瀬君じゃなきゃ、意味がない」
 俺じゃなきゃ、意味がない。
 それは、消えてしまいたいと思っていた俺にとって、本当に光のような言葉だった。俺は、必死に言葉を紡いでいる柚葵を抱きしめ、本心を吐き出す。
 もう、相手を傷つけて大切な人を遠ざけるなんてことはしない。自分のことを許せるのは自分だけだと、君が教えてくれたから。
「俺もだ……っ、俺も……お前じゃなきゃ、意味がない」
「成瀬く……」
「柚葵じゃなきゃ意味がないって、そう感じることが、この世には溢れすぎてる」
 抱きしめる力が、気持ちと比例していく。涙で彼女のコートが濡れていく。
 雪は音もなくしんしんと降り積もり、俺たちの髪や肩に降り積もっていく。
 柚葵は硬直しながらも、初めて俺の体に手を回してくれた。
「成瀬君と、一緒に生きてみたい……っ」
 それは、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、余計に愛おしさが増した。
 抱きしめる力を緩めて、柚葵の冷えた頬を両手で包み込む。
 心から美しいと思った。涙が出るほど、君が好きだ。もう、抑えきれない。
 俺は彼女の瞼に、ひとつだけキスを落とす。涙の味がして、胸がぎゅっと絞られていくかのように、苦しくなる。
「柚葵、ありがとう……」
 瞼の裏に、眼鏡姿の過去の自分が、昔の映像と一緒にふと浮かんできた。
 両親に言われるがままに、気配を消し去って生きていた頃。
 同じように本音を隠して生きていた柚葵が、俯いて静かに座っている。
 教室の端と端の席で、同じクラス内なのに、絶対に交じり合わない場所にいる気がしていたんだ。
 そんな柚葵が、今、心から自分の本心を叫んでくれた。
 君と俺の世界は、きっと今、繋がったばかり。
 この奇跡がまぼろしなんかになってしまわないように、何度も胸の中で繰り返す。
 生きてみたい。君と一緒に。……生きていきたい。
 止まることを知らない涙が、ただ君への愛を、語っていた。
■半透明の君へ side志倉柚葵

『君は、透明になる前に、自分の気持ちを叫びなさい』
 ずっと、芳賀先生の伝えたいことが分からない文章があった。
 でも、成瀬君に記憶を消されそうになった瞬間、なぜかその言葉がふと脳内に浮かんできたのだ。まるでずっと忘れていた呪文を思い出すかのように。
 彼との記憶が透明になってなくなる前に、私は私の気持ちを叫ぶべきと教えてくれているのだと――ようやく気づけた気がした。点と点が一瞬で繋がるかのような、そんな感覚だった。
『忘れたくない! 成瀬君と一緒にいたい!』
 彼の手が額に触れたと同時に、私は心の中でそう叫んだ。
 何かがぶつかり合うように弾け取んで、気づいたら目の前の景色が真っ白になっていた。
 目を覚ますと私は保健室にいて、彼のことを忘れていないことを実感すると、その安堵で静かにひとりで泣いたんだ。
 記憶を消されたふりをして過ごしていた数日間、私は本当に空っぽだった。
 成瀬君は一度も学校に来なくて、先生は「家の事情」だと一言説明するだけで。
 もし私が記憶を保ったままだと知ったら、彼はきっとがっかりするだろう。やっと私という罪悪感そのものから解放されると思っていたのに、と。
 だったらもう、私が“罪悪感”を払拭できるように、動かなければと思った。
 何年経ってもいいから。彼の瞳に、なんのフィルターも通さずに、まっすぐに映してもらえる自分になろう。そう思ったんだ。

 でも、まさかこんなに早く、自分の声が戻ってくるとは、思っていなかった。
「成瀬君……」
 彼の名を、初めて彼の前で呼んだときは、全身に痺れが走った。ずっと彼の名を呼びたいと体が疼いていたかのように。
 記憶がまだあると知られたら、彼はどう思うだろう。
 怒るかな。呆れるかな。もう忘れてくれと言われてしまうかな。
 屋上へ続く階段をあがる一歩一歩が、深い雪に脚を沈めていくように、とても重かった。
 成瀬君の目に映ることの怖さを抱えながら、私は彼に会いに行った。
 でも、私に名前を呼ばれた成瀬君の顔を見て、迷いも怖さも全て一気に吹き飛んだ。
「は、なんで……俺の名前……」
 泣きそうな顔。今にも、壊れてしまいそうな顔。世界でひとりぼっちでいるところを、誰かに見つけてもらったかのような顔。
 そんな反応をした成瀬君を見て、今度こそ絶対に逃げないと誓った。
「私が……覚えてる。全部、忘れない……。な、成瀬君が、苦しんでたこと、全部、覚えてたいの……っ」
 私の全部を曝け出して、君の本心に少しでも近づきたかった。
 本当だよ。信じて。もうこれ以上ないよ。私の世界には、成瀬君が必要だから。
 初めて廊下でぶつかったあの春の日、成瀬君は本当に、罪悪感で押しつぶされてしまいそうな瞳をしていた。
 あの日からずっと、成瀬君はたったひとりで、過去の自分と戦っていたんだよね。
 私は何も知らないまま、君に少しずつ惹かれてしまった。でもそのことを悔やんだことは、本当に一瞬もないよ。成瀬君が好きな気持ちは、変わらなかったんだよ。
 過去が今の成瀬君を作り上げているのなら、未来の成瀬君は、今、作っていけばいい。
 だって、人は変われないと、いったいこの世の誰が証明したの?
 頑張っている人に……過去と向き合っている人に、そんなしがらみに囚われて一歩も踏み出せない人がもしのこの世界にいたら、私は、手を握りしめてあげたい。一緒に頑張ろうって、言ってあげたい。
 自分に言い聞かせるように。そうやって、私自身も変わっていきたいんだ。弱くても、脆くても。
「柚葵じゃなきゃ意味がないって、そう感じることが、この世には溢れすぎてる」
 成瀬君に抱きしめられながらそう言われて、私はようやく世界の誰かに自分を見つけてもらえたような気持ちになった。
 私も一緒だ。成瀬君と同じように、誰かに見つけられたくて、本当は生きていたんだ。もうこれ以上世界は広がらなくてもいいって、嘘の強がりをしながら。
「成瀬君と、一緒に生きてみたい……っ」

 なんの混じり気もない、透明な感情を、君にあげる。私の“本当”は、全部君にあげる。
 だから、一緒に生きて。乗り越えて。色んな景色を、見に行こうよ。
 きっと世界は、私たちが思う以上に広くて、美しいはずだから。



 あれから、数か月が過ぎて、私たちは高校三年生になった。
 成瀬君が本当は転校するつもりでいたということを知ったのは、少し気温が高くなってきたころ。
 一緒にお弁当を食べていたときに、あまりにあっけらかんと言い出したので、私は思わず食べていた卵焼きを取り落としてしまった。動揺する私に成瀬君は、「安心しろ。今はそんな気はないから」と言ったけれど、もし彼に想いを伝えることがあと数日遅れていたら、彼は北海道へ転校してしまっていたんだろうか。
 そんな驚きなこともありながら、季節は春になった。
 三年生で部活動がある子は最後の追い込みの季節で、受験組は対策本格化の時期だ。
 私は今年の四月で美術部を引退することに決め、今日は最後の部活動に向かっているところ。
 真新しい制服に身を包んだ生徒が、色んな部活動の見学をするため廊下を走り回っている。そんなキラキラまぶしい笑顔を、私も穏やかな気持ちで眺めていた。
 部活動と言えるかどうか微妙な活動内容だったけれど、私もこの学校で十分好きな絵を描かせてもらった。
 少し感慨深く思いながらも、私は美術室を目指す。すると、スマホに桐からメッセージが届いた。
 『今日は一緒に帰れる?』というメッセージに、『うん、帰れるよ』と返すと、『今日は成瀬に取られなくて済むんだ』と冗談交じりの言葉が返ってきた。
 成瀬君と私の関係を、桐はとても時間をかけて、ゆっくり受け入れてくれた。
 というのも、成瀬君が私の記憶を消そうとした次の日に、桐の家に留守電が入っていたらしい。私とはもう関わらない、という決意の言葉に、ほかの同級生とは違うものを感じた桐は、少しだけ成瀬君の気持ちを聞いてみたいと思うようになったのだとか。
 今では私と成瀬君のことをからかってくれるほどになり、いつか三人で会うことができたら……と思っている。
 そんな未来に思いを馳せていたら、廊下の曲がり角で誰かにぶつかってしまった。
「柚葵か、びっくりした……悪い。怪我無いか?」
『成瀬君……!』
 いつかと同じように、床に散らばってしまったスケッチブックを拾い上げる成瀬君。ぶつかった私のことを心配しながら、すぐにしゃがんでスケッチブックを拾ってくれた。
 開いた窓からはあの日と同じように桜の花びらが舞い込んでいて、唯一違うのは、彼が今ジャージを着ているということだけ。
 成瀬君は一月から陸上部に復帰し、学内選抜も無事通過し、今はインターハイ予選に向けて練習を積み重ねている毎日だ。
 急に辞めたにも関わらず、急に復活して、しかも学内選抜に残った成瀬君。そのせいで同級生との間に多少軋轢は生じたようだったけれど、認めてもらえるまで練習する、と今は人一倍走り込みをしている。三島君は相変わらず素直じゃない態度だけれど、成瀬君が復帰してとても嬉しそうだ。
『今日も三島君と残って練習するの?』
「そうだな。もう予選近いし」
 私もしゃがんだ状態のまま、成瀬君と目を合わせる。
 リュックを背負い黒いジャージに身を包んだ彼は、私が落としたスケッチブックをぱらぱらと開くと、ぽつりとつぶやく。
「あの日のこと、思い出すな。同じようにここでぶつかった日のこと」
 成瀬君も同じことを思い出していたのだと、思わず少し嬉しくなる。
 あの日彼は、私の絵を見て泣いたんだ。
 罪悪感そのものだった私が、自分の絵を描いていて、とても驚いたのだろう。
 彼の中でもう私への罪の意識は、完全に溶けたかというと、そうではないのかもしれない。彼の心を読むことはできないけれど、まだ成瀬君は時々切なそうな表情を浮かべるときがあるから。
 でも、私はその痛みを……時間をかけて、溶かしていきたい。
「また俺のこと書いてんの?」
 少しの間を置いて、私がこっそり描いた絵を見て、呆れたように言う成瀬君。
 バレてしまったことが恥ずかしかったけれど、私は息を巻いてこう答える。
『骨格が、美しいので!』
「ふっ、またそれか……よくわかんねぇな」
 ――その時、ふっと、成瀬君が初めて、私の目の前で屈託なく笑った。
 ずっと成瀬君の切ない顔や、苦しそうな顔や、涙する顔ばかり見ていたから、とても驚いたと同時に、何かが胸の中で弾け飛んだ。
 半月型の瞳が優しく弧を描いて、くしゃっと目が細くなっている。
 その笑顔に、彼が本当の自分を私に見せてくれているような、そんな気がした。罪悪感も何もかも、取っ払って。
 今まで、この笑顔を見るために、人生があったのかもしれない。
 大げさだけれど、そんな風に感じてしまうほど、成瀬君の笑顔がまぶしかった。
「ふふ……ふ……」
 幸せな気持ちになり、空気が抜けるようなかすかな声が、思わず口から漏れてしまう。
 まだ校内で会話をすることはできないけれど、一音程度なら出すことができるようになってきた。
 その微かな笑い声が、もう私たちしかいない廊下に響き渡っていく。
「柚葵」