さっきまでの騒々しさが嘘のように校舎はひっそりと静まり返っていた。
 リピートされるランニングのかけ声、ボールをかっ飛ばす金属バットの甲高い音、調子外れの管楽器の音などがやけに遠くに聞こえる。陽の陰った廊下は薄暗く、空気はひんやりしていた。屋上に行く前のうんざりするほど活気に満ちた場所とはまったく別世界のようだ。
 わたしは降りてきたばかりの階段を見上げた。踊り場には松永先輩の姿があった。上半身だけを覗かせ、こちらの様子を窺っている。廊下に誰もいないか確認するため、斥候としてわたしが先に降りてきたのだ。
 先輩が口パクで「大丈夫?」と聞いている。わたしが腕で大きく丸を作ると、先輩は待ってましたとばかりに勢いよく駆け下りてきた。足音を消すことなどまったく考慮しない、豪快な一段抜かしだ。さらにプラスチックの鎖を潜る際に背中をぶつけ、大きな音をたててしまう。
 狼狽したわたしは、誰かに聞かれはしなかったかとあたりを見回した。さいわい、何事かと思って廊下に姿を現すような人はいなかった。ほっと安堵の息をつく。
 そんなわたしを松永先輩はにやにや笑いながら眺めていた。どうやら一連の喧しい行動は、わたしをからかうためわざとやったようだ。
 何をしているんですか! 近くに誰もいなかったからよかったようなものの、見つかったら大変なことになっていたかもしれないんですよ。
 先輩の軽はずみな行動に文句のひとつも言いたくなったけど、そんな見た目とは裏腹な茶目っ気がかわいらしくて、わたしも釣られて笑ってしまった。
 だけど、その笑顔もすぐに陰ってしまう。
 ……これで松永先輩ともお別れか。
 そう思うと無性に寂しさが募った。わたしはこの明らかに不良と思われる赤い髪の先輩のことが好きになりかけていたから。
「あの……松永先輩、まことに恐縮なんですが、折り入ってお願いしたいことがあるんですけど……」
 おずおずとわたしが切り出そうとしたところ、松永先輩は待ってましたとばかりに、
「また屋上に来てもいいか――でしょ?」
「えっ……」わたしは目を丸くする。「どうしてわかったんです?!」
「だってあなた、さっき自分で言ってたじゃない。屋上で空を見られなくなるのが嫌だから誰にも言わないってさ」
「あ……」
 あの発言は決してそういう意図で言ったわけではなかったのだけど、今にして思うと屋上の出入りを認めてくれることを条件に黙っておいてやると脅しているに等しかったのではないだろうか。
「す、すみません……」
 自分の厚かましさに恐縮するわたしに、先輩はくすっと微笑んだ。
「別に謝ることないよ。こちらとしても、それで屋上の秘密を守ってくれるなら安いものだしね」
「え……それじゃあ――」
「どうぞ、好きにすればいいよ。だいたい私は鍵を持っているってだけで、別に屋上の主でもないんだからさ。私が先に来ていないと錠がかかっていて入れないけど、それでもかまわないのであればいつでもいらっしゃい」
 先輩の言葉に、わたしは嬉しさのあまり飛び跳ねそうになった。「ありがとうございます!」と抱きつきたい衝動に駆られた。
 だけど、その歓喜で膨らんだ風船も、大きくなる前に空気が抜けてしぼんでしまう。
「どうしたの? てっきり嬉しさのあまり抱きついてくるものと思って待ち構えていたのにさ」
「あの……迷惑じゃないですか?」
「迷惑?」
「屋上は先輩にとって大切な場所のはずです。それなのに、わたしのような部外者が出入りするようになったら、せっかくの場所が台無しになってしまうんじゃないかと思うんです」
 屋上の秘密を守るため、仕方なくわたしを受け入れようとしているんじゃないですか?――そんなネガティブな思考に捕らわれ、わたしは先輩の好意を素直に受け入れることができずにいた。もし迷惑であるのなら、はっきりそう言ってくれた方がこちらとしては気が楽なのだけど……。
 松永先輩は足を一歩前へと踏み出した。学校指定の上履きのゴム底がリノリウムの床をキュッと擦る音がやけに大きくわたしの耳に響いた。
 松永先輩は目と鼻の先まで顔を近づけ、覗き込むようにわたしを見つめる。思わぬ状況にわたしはどぎまぎしてしまう。
「部外者だなんて悲しいこと言わないで。さっきまで一緒に空を眺めた仲じゃないの」
 囁くように松永先輩は言った。
「で、でも――」
 迷惑じゃなかったですか?――そう言いかけたわたしの唇に先輩は人差し指を押し当てて封をする。
「迷惑じゃない。たとえそちらから頼まれなかったとしても、私はあなたを屋上に招待して一緒に空を眺めたいと思っていたんだよ。だって――」松永先輩は押し当てていた指でわたしの唇を軽く弾き、くすっと微笑んだ。「あなたとはウマが合いそうだからさ」
 ただでさえバクバクしていたわたしの心臓の鼓動が、これまでになく跳ね上がった。先ほど真面目ないい子だと指摘された時のように天地がグラグラ揺れ、そのまま倒れそうな気分になる。だけど、こちらの酩酊感はこの上なく心地よかった。
 不良の人にウマが合うだなんて言われると、危ない世界に引きずり込まれてしまいそうでちょっと怖い……。だけど、今のわたしはそんな些細な不安よりも、自分のことをそのように評してくれた喜びの方がはるかに大きかった。
 浮かれたわたしは、今度はなんの気兼ねもなく「ありがとうございます! わたしも先輩とはウマが合うと思っていたんです!」と答えようとした。
 しかし、思わぬ闖入者に邪魔をされた。