学校の中庭はお世辞にもきれいとは言い難かった。ぼうぼうに生い茂った雑草によって遊歩道は獣道のような有様。ひょうたん形の池はドロドロに濁り、中に何が潜んでいるかわかったものではない状態だ。木製の藤棚は白蟻に食い荒らされ、無惨に崩れ落ちてしまっている。花の姿はほとんど見られず、彩りと呼べるものは生徒が教室の窓から投げ捨てたと思しきジュースの紙パックや、持ち込みを禁じられているはずのスナック菓子の空き袋くらいだ。各学級ごとに花壇が割り当てられ、思い思いの花々を植えて華やかさを競い合っていた小学校の中庭とはえらい違いだ。
 そんな状況のせいもあり、普段の中庭はほどんど誰も足を踏み入れることのないうらぶれた場所なのだけど、今日ばかりはその一角に人だかりができていた。おそらく、そこに女子生徒が落ちたのだろう。
 興味本位で野次馬しにきた生徒たちは、モニター越しでしか見たことのなかった死体を生で見たショックで顔をしかめたり、人だかりから離れて気分悪そうにうめいたりしている。
 その様子を見てわたしは怖じ気づいてしまった。飛び降りたのがわたしの懸念している相手であろうとなかろうと、その惨状を目の当たりにしたら彼らの二の舞になることは容易に想像がついた。
 わたしが人だかりから離れたところでまごついていると、後方から坂本先生の大きな声が聞こえてきた。
「こらお前たち、そこをどくんだ!」
 坂本先生は白いヘルメットをかぶった二人組の救急隊員らしき人たちを従え、こちらに駆けてきた。救急隊員は人だかりをかき分けるようにして事故現場へと飛び込んでいく。
「こんなところにいないで早く教室に戻るんだ!」坂本先生は野次馬に向かって怒鳴った。「水木! お前まで野次馬やってる場合か?! さっさと生徒達を中庭の外に誘導しろ!」
「は、はい!?」
 人だかりに紛れていた水木先生があわてて返事をした。どうやら、生徒を現場に近づかせないという職務を忘れ、野次馬の一人と化していたようだ。
 自分の役割を思い出した水木先生に先導され、生徒たちはぞろぞろと校舎の中へと戻っていく。死体を目の当たりにしたショックのせいもあってか、誰も文句を言うことなく大人しく指示に従っていた。
 崩れた人だかりの中から救急隊員が出てきた。さっきは空だったストレッチャーの上に何か乗せられている。当然それは屋上から飛び降りた女子生徒なのだろうけど、上から緑色のシートが被されているため確認することはできなかった。
 正直、わたしはほっとした。死体なんて見たくはなかったし、なによりそれが誰かだなんて本当は知りたくなどなかったから。
 そのとき、一筋の風が中庭を吹き抜けた。それは緑色のシートを軽くめくり上がらせ、中の人の頭部をほん一瞬だけ露わにした。その頭は赤かった。でもそれは血ではなく、髪の毛の色だった。
 その夕陽のような、まぶしさと切なさを感じさせる赤色によって、わたしがここに来るまでに抱いていた疑念は、揺るぎのない確信に変わってしまった。
 愕然と立ちつくしているあたしの横をストレッチャーが通り過ぎていった。
 しばらくしてから救急車のサイレンが再び鳴り、遠のいていった。
 野次馬がいなくなったことで、わたしのところからでも現場の様子が見渡せるようになった。煉瓦で作られた花壇の一角が崩れ落ち、何かの液体でべっとり濡れている。もちろんそれは血なのだろうけど、赤というよりは黒っぽくて、汚れた油のようにしか見えなかった。
 現場から少し離れたところで坂本先生が制服姿の警察官と何やら話をしている。発見時の状況でも説明しているのだろうか。
 生徒の死という不測の事態に狼狽してもおかしくない中、坂本先生は冷静に事にあたっていた。わたしにはその様子が、天敵である松永先輩が亡くなったことに嬉々としているかのように思えてならなかった。初めて坂本先生に恐怖を感じた。
 ふと坂本先生がこちらを向いた。わたしの姿に気付くと一瞬ぎょっとしたような表情になる。警察の人に断りを入れると、足早にわたしの方に向かってきた。
 わたしは逃げだそうとしたものの、足は竦んで動いてくれない。やがて坂本先生はわたしの前までやってきたけど、わたしは俯いたまま先生の顔を見ることができなかった。
「おい、大丈夫か?」
 その気遣うような言葉に、わたしははっとした。それが坂本先生の口から発せられたという事実に驚きを隠せなかった。
 ゆっくりと頭を上げると、そこにはいかつくて、無精髭が生えていて、ちゃんと顔を洗っていなさそうで――だけど、とても悲しげな表情をした坂本先生の顔があった。
「大丈夫か?」
 今一度、坂本先生は自分に可能なかぎり優しげな声で話しかけてきたけど、わたしは返事をすることができなかった。
「お前、体操着姿じゃないか。靴だって内履きだし。野次馬するためにわざわざ体育館からやってきたのか?」
「…………」
「困ったやつだな……。何年何組だ? 見た感じ一年のようだが」
「…………」
「まあいい。早く着替えて教室に戻るんだ。俺はここを離れるわけにはいかないから誰か他の先生に付き添わせよう」
「……いえ、一人で平気です」
 自分でもびっくりするほどのかすれ声だったけど、なんとか返事をすることができた。
「そうか。なら、早く行くんだ。気を確かに持ってな」
「はい……」
 わたしはうなずくと、とぼとぼとした足取りでその場を立ち去ろうとした。でも、すぐに立ち止まり、振り向いて言った。
「……坂本先生」
「どうした? やっぱり付き添いが必要か?」
「いえ、そうではなくて……」わたしは錆びたロボットみたいにぎこちなく頭を下げた。「……ごめんなさい」
 わたしは見た。教師として、いや一人の人間として、子どもに自ら死を選ばせてしまったという現実を前に、坂本先生の目が悲しみと無力感で深く沈んでいるのを。
 それなのに、わたしは坂本先生が天敵である松永先輩の死を喜んでいるなどと思い込み、その姿に恐怖すらしたなんて……。
 わたしはなんて失礼で、なんて薄情で、なんて最低なやつなんだろう。自分のことが恥ずかしくてたまらなかった。
 だから、せめて坂本先生に謝らなくてはならないと思った。たとえそれが己の羞恥の念を拭い去るための方便でしかないのだとしても。
 唐突なわたしの謝罪に困惑した様子の坂本先生だったけど、やがてそんなことはいいからさっさと教室に戻れと言うように軽く手で払う仕草をした。
 わたしはもう一度頭を下げると、今度は脇目も振らず、逃げるように中庭から出ていった。