体育館と校舎を繋いでいる渡り廊下は服装頭髪検査を終えた生徒でごった返していた。中にはその場で立ち止まってお喋りをしている女子生徒もおり、通行に邪魔なことこの上なかった。
 ……話ならわざわざこんな人通りの激しいところでせずとも、教室に帰ってから思う存分すればいいのに。
 そんなことを思いながら彼女たちの横を通りすぎようとしたところ、
「河村さん、待って!」
 後ろからわたしを呼び止める声がした。その声の大きさにはお喋りをしていた女子生徒もびっくりし、あれほど滑らかだった口が一瞬止まってしまったほどだ。
 わたしが振り返ると、こちらにむかって走ってくる女子生徒の姿が見えた。背が高く、ショートヘアーがよく似合うクラスメイト――沢田みさきさんだ。
 沢田さんはわたしの前で立ち止まる。あれほどの勢いで走ってきたというのに息はまったく乱れていない。
 沢田さんがいったいわたしに何の用なんだろう?
 怪訝に思っていると、沢田さんはいつものハスキーボイスでわたしに訊いた。
「河村さん。あなた、さっきの検査で髪引っかかったでしょ?」
「うん、そうだけど……」
 服装頭髪検査は名簿順に行われるので、沢田さんはわたしから四人ほど後のはずだ。おそらく彼女は、わたしが坂本先生に注意されているのを列の後ろから見ていて、自分の検査が終わるやすぐ追いかけてきたのだろう。
「いったいどうしたの? これまで検査で引っかかることなんてなかったのにさ。検査するのが坂本だと知らないで油断していたの? だめだよ、しっかりしなきゃ」
「…………」
 わたしは呆れてしまった。わざわざ走ってきて呼び止めたりするものだから、いったい何事かと思ったら……。
 何で沢田さんにそんなことを言われなくちゃならないんだろう。自分はクラスの副委員長だから、校則違反をしているクラスメイトに注意をする義務があるとでも思っているのだろうか。でも、何でわたしだけ? 違反を指摘された人は他にいくらでもいたのに。
 思えば、このところ沢田さんはうるさいくらいわたしに突っかかってくる気がする。以前、放課後に何でも相談してほしいと言われたこともそうだけど、他にもわたしを同じ遠足の班に入れようとしたり、しきりにお昼を一緒に食べようと誘ってきたりなど、事ある度に絡んできた。正直、わたしはそれを鬱陶しく感じていた。
 いったい何様のつもりなのだろう。友達でもないくせに……。
「ねえ、聞いてるの?」
 黙っているわたしの肩に沢田さんが手を掛けた。そのなれなれしい態度が癇に障り、
「やめてよ!」
 わたしは反射的にその手を払いのけてしまった。
「河村さん……」
 わたしに突っぱねられたことが意外だったのか、沢田さんは呆然とした顔をしている。
 わたしも自らの行動に少し驚いてしまったけど、すぐにこれでいいんだと思い直した。ちょうどいい。さっき坂本先生に言えなかったことを、代わりに沢田さん相手に宣言してしまえ。
「わたし、これからは髪を伸ばすことにしたの。小学校の頃のように腰あたりまで伸ばすの。そして、これまでできなかったいろんな髪型をするの。そう決めたの」
「そう決めたって……。河村さん、わかってる? それって校則違反だよ」
「わかってる」
「なら、どうして……」
「証だから」
「証?」
「長い髪はわたしがわたしであるための証だから」
「は? 何よそれ」
「わたしは誰に何と言われようとも、決してこの髪を切るつもりはないから。だから沢田さんも邪魔しないで。そんなことしたって無駄だから」
「…………」
「そういうことだから。じゃあ」
 そしてわたしは、呆気にとられている沢田さんに背をむけた。
 やった! 言ってやった!
 わたしは心の中で小躍りした。沢田さんに宣言したことで、わたしは新たな生き方の第一歩を踏み出せたような気がした。
 高揚した気分のまま教室に凱旋しようとしたところ、背中に冷水のような声を浴びせられた。
「――松永先輩のせいなの?」
 わたしは足を止めて振り返った。沢田さんは腕を組み、むっとした顔でわたしを睨んでいる。
「……それ、どういう意味?」わたしは訊き返す。
「河村さんが髪を伸ばすだなんてこと言い出したのは、松永先輩の影響なのかって聞いているの」
「だから、何でここで松永先輩の名前が出てくるのよ」
 わたしは気が気ではなかった。どうして沢田さんはわたしと松永先輩の関係を知っているのだろう。もしかすると、わたしたちが屋上で過ごしているところを見られてしまったのだろうか。
 だとしたら大変だ。先生に告げ口をされてしまう。校則違反をしたことをこっぴどく怒られてしまう。そして、空に近い場所を奪われてしまう!
 わたしの頭の中を最悪の展開が駆け巡る。自分の証を持って生きていこうとした矢先にこんな事態になるだなんて……。
 しかし、それは杞憂にすぎなかった。
「この間、河村さんが松永先輩と一緒にいるところを見たときから嫌な予感はしていたんだよね。何か悪い誘いでも受けているんじゃないかってさ。でも、聞いても河村さんは何も言わないし、わたしの思い過ごしだろうと安心していたら今回のことでしょ。やっぱり、松永先輩と何かあったんじゃない」
 そうだった。以前、わたしと松永先輩が一緒に廊下にいたところに沢田さんが現れたんだった。あの日の松永先輩との出会いは一生忘れ得ぬ思い出として鮮明に記憶される一方で、沢田さんの存在はすっかり忘れ去られていた。
 沢田さんにわたしと松永先輩の関係を問い質されたところで、別に動揺する必要なんてなかったんだ。その事実にほっと胸をなで下ろすと、今度は松永先輩のことを悪く言う沢田さんにわたしは反感を覚えずにはいられなかった。
「だったらなんだっていうの。沢田さんには関係ないでしょ」
 そう言うわたしの声は我ながら刺々しかったと思う。
 わたしの反応に沢田さんは一瞬怯んだ様子を見せたものの、すぐさま飛びかからんばかりの勢いでわたしに詰め寄った。
「河村さん、わかってるの? 相手は不良なんだよ。そんな人と付き合ったりしたらどうなるかなんてすぐに想像つきそうなもんでしょうが。これだから、何かあったらわたしに相談してって言ったんじゃない!」
 沢田さんはわたしの肩を掴み、身体をぐらぐらと揺さぶった。食い込む指の痛みと、唾がかかりそうな至近距離で怒鳴られる不快さでわたしは顔を歪めてしまう。
「放してよ!」わたしは身をよじるようにして強引にその手を振りほどいた。さっきとは違い、その行動に何のためらいもなかった。「沢田さんには関係ないって言ってるでしょ。余計なお世話よ」
「余計なお世話って……。そんな言い方ってないでしょ! 人が心配しているっていうのに」
「それが余計なお世話だっていうの。だいたい、わたしには沢田さんに心配される謂われなんてない」
「心配するに決まってるでしょうが。松永先輩に何か悪い影響を受けているんじゃないかってね」
「何よ、悪い影響って」
「だって、そうでしょ。河村さんがやろうとしていることは校則違反なんだよ。これが悪い影響を受けていると言わずして何だっていうのさ」
「……仕方がないよ」
「は? 何を言ってるのよ」
「それは仕方がないって言ってるの。だって自分の証を守るためなんだもの。たとえそれが校則違反であったとしても、誰かに文句を言われようとも、わたしは改める気なんてないからね」
「ちょっと、なに開き直っているのよ。そんなこと許されるとでも思っているわけ?」
「思っているよ。だって校則違反なんて多かれ少なかれみんなやっていることじゃない。それでも許されているじゃない」
「確かにそうだけどさ……。でも、それにしたって程度ってものがあるでしょ」
「程度ね……。沢田さんの言う程度っていうのは、服装頭髪検査の時にごまかしが効く程度ってこと? 先生方に目を付けられない程度ってこと?」
「それは……」
「だいたい、みんなが校則違反をする理由って、周りがやっているから自分もそれに合わせているってだけじゃない。みんな『赤信号、みんなで渡れば怖くない』という感覚なのよ。そういうのって卑怯だと思うな」
「…………」
「でも、わたしと松永先輩は違う。わたしたちが違反をするのは、もっと純粋な想いによるものなんだから。その想いを止めることなんて誰にもできやしないんだよ」
「純粋だか何だか知らないけどね……。それって松永先輩の指示なわけ?」
「……どういう意味よ、それ」
「誰かにいちゃもん付けられたら、そうやってはぐらかせって松永先輩に言われたのかって聞いてるの」
「ちょっと、ふざけたことを言わないで!」
「ふざけてるのはそっちの方でしょうが! さっきから証だとかなんだとか、わけのわからないことばかり言ってさ。松永先輩に洗脳でもされたんじゃない?」
「やめてよ! どうして、さっきからそうやって松永先輩を貶めるようなことばかり言うの。何様のつもり? 先輩がどういう人かなんて全然知りもしないくせに!」
「知ってるよ! 不良でしょ! そんなの一目瞭然じゃない!」
「違う! 全然わかってない! そうやって人を外見だけで判断して勝手にレッテルを貼らないでよね!」
「じゃあ、何? 河村さんは松永先輩のことを理解しているとても言うわけ?」
「ええ、理解しているよ! だって、わたしたちは頻繁に屋――」
 頻繁に屋上で会っているんだから!――そう言いかけて、わたしはあわてて言葉を飲み込んだ。屋上のことはわたしと松永先輩だけの秘密なのだ。憤りのあまりそれを口に出してしまうところだった。危なかった……。
 冷静さを取り戻したわたしは、自分に向けられている複数の好奇の視線に気がついた。わたしたちの言い争いを聞きつけ、野次馬が集まってきたのだ。口ゲンカがやがて頬の張り合いにまで発展するのを今か今かと待ちかまえているようだ。さっきまでお喋りをしていた女子生徒までも、「ケンカならこんなところでしないで、教室に帰ってからやってよね」と言わんばかりにわたしたちを睨みつけている。
「何よ頻繁にって……えっ!?」
 沢田さんも自分に向けられている視線に気付いたようだ。彼女もそのまま黙り込んでしまう。
「なんだ、もう終わりかよ?」「つまんねえなぁ。キャットファイトが見られると思って楽しみにしてたのによ」「帰ろ、帰ろ」「やれやれ、これでやっと落ち着いて自分たちの会話に専念できるわ」
 わたしたちの言い争いが沈静化したのを見て、たむろしていた生徒たちは解散し、教室に戻ろうとしたり、再びお喋りを始めたりしていた。渡り廊下は何事もなかったかのように生徒たちで賑わう場へと戻っていた。
 わたしたちと沢田さんの間には相変わらず刺々しい空気が流れていた。とはいえ、言い争いは再開しなかった。そんなことをしたらまた野次馬が集まってきてしまうだろうし、なにより一度クールダウンしてしまったせいか、再びやり合う気力が沸いてこなかった。
「……ごめん。感情的になっていたみたい。謝るよ」
 しばらくしてから沢田さんが言った。
「ううん、わたしも似たようなものだったから」
 わたしも謝罪する。先に謝られては文句も言えないし、自分でも必要以上に感情的になってしまったという自覚はあったから。
 でも、言うべきことはきちんと言っておかなければと思った。
「沢田さん。さっきわたし、髪を伸ばすことがわたしがわたしである証だって言ったよね」
「うん、言ってたね」
「何を馬鹿なことをって思ったでしょ?」
「いや、別に……」最初、沢田さんは言葉を濁したものの、やがて肩をすくめ、「たしかに、いったい何を考えているんだと思いはしたけどね」
「だろうね。でもね、決して冗談で言ったわけじゃないんだよ。わたしはいたって真剣なんだ」
「河村さん……」
「これまでわたしには誇れるものなんてないのだと思っていた。勉強でもスポーツでも、外見でも性格でも、誇れるところがひとつもない、いてもいなくてもいいような人間なんだと思ってた。わたしはそんな自分が嫌いだった」
「そんなこと――」
「いいの、本当のことだから」無理にフォローしようとする沢田さんを遮ってわたしは続ける。「でも、思い出したんだ、自分が誇れるものを。それは長くて黒い髪。これこそがわたしがわたしである証なんだと気付いたの。これが本当の河村由佳なんだってわかったの」
「…………」
「わたしは一度、この証を手放してしまった。深い考えもなしにね。そんなわたしは死んでいるも同然だった。だから、もう二度とそんな失敗はしたくない。今度こそ絶対にこの証を守るの。命を懸けてでもね」
「……理解できない」
 沢田さんは首を振る。
「いいよ、最初から理解してもらおうだなんて思ってはいないから。これはわたし自身の問題であって、沢田さんには何の関係もないことなんだしね。ただ、わたしはそういうふうに考えているんだって言いたかっただけ」
「…………」
「じゃあ、わたしは行くね」
 言うべきことを言ったわたしは、この場を去ろうとした。
「待って!」
 しかし、沢田さんがまたわたしを呼び止めた。わたしはうんざりしたようにため息をついてから振り返る。
「……まだ何か文句があるの?」
 わたしが訊くと、沢田さんは慎重に言葉を選ぶように言った。
「河村さんが言う自分であるための証だとか、それがどうして長い髪になるのかなんてことは、やっぱりわたしには理解できない。だけど、河村さんが自分らしさを追い求めようとするのは別に悪いことではないんだと思うよ。なんせ、今は個性を重んじるご時世なんだしね」
「うん」
「でもね、それってきっとしんどい生き方なんだと思うよ。校則違反だとかを抜きにしても、河村さんがやろうとしていることはまず他人の共感を得ることはないでしょうよ。『個性を重んじるご時世』なんて言ったところで、しょせんそんなのは建前であって、現実には人とは違うことや目立つようなことをすると、たちまち排斥されるような社会をわたしたちは生きているわけだからね」
「…………」
「人と違う生き方をするつもりであるのなら、非難されたり孤立する事を覚悟しなくてはいけないんだと思う。それに耐えられるだけの強さがなくてはいけないんだと思う。松永先輩にはそういう強さがあるのかもしれない。でも河村さん、あなたはどうなの? あなたにそんな強さはあるの?」
 沢田さんが言っているようなことはわたしだって考えていないわけじゃない。いくらやる気のない先生方だって、やがてわたしの違反が目に余るほどになったなら見逃してはくれなくなるだろう。今日はそうでもなかったけど、坂本先生は松永先輩の時のように掴みかからんばかりに怒るに違いない。これまでわたしのことなど眼中になかったクラスメイトも一斉に白い目を向けるようになるはずだ。親も悲しむに違いない。仕事第一で、休みの日もほどんど顔を合わせることのないお父さんはどうか知らないけど、お母さんはきっと泣いてしまうだろうな。
 わたしがこれからしようとしている生き方が数々の苦しみを伴うものになるだろうことは容易に想像できた。だけど、それを承知の上でわたしはこう答えた。
「うん、あるよ」
 どんな困難が待ち構えていようとも、わたしは自分の証を持って生きていくと固く心に決めたのだ。その覚悟に迷いない。
 沢田さんはまるでこちらの真意を探るかのようにわたしの顔を見つめる。わたしも沢田さんを見つめ返す。先に目を逸らした方が負けになるような気がして、互いにじっと睨み合う。その間、何人もの生徒がわたしたちの横を通り過ぎていった。
 先に根負けしたのは沢田さんだった。小さくため息をつくと、自分の短い髪を乱暴にかき上げた。
「……わかったよ。そこまで覚悟を決めているのであれば、もはやわたしに言えることなんて何もない。これは河村さんの人生なんだから勝手にすればいいじゃない。別に誰かに迷惑かけるってものでもないんだしさ」
「沢田さん……」
「断っておくけど、わたしは別に河村さんが言っていることを理解したわけではないし、それを応援する気もさらさらないからね。だけど、河村さんがそういう考えを持っているんだということは認めてあげる」
 わたしが自分の証を守るために沢田さんの承認なんて別に必要ないのだけど、そのように言ってもらえたことは素直に嬉しく思った。
「ありがとう」
 わたしの口から自然と感謝の言葉がこぼれた。
「ちょっと、お礼なんて言わないでよね。本当はわたしはこんなことには反対なんだからさ!」
 沢田さんはふてくされたように口を尖らせる。そんな沢田さんの様子がおかしくて、わたしは思わずくすっと笑ってしまった。沢田さんが恨めしそうにわたしを睨んでいたけど、その顔もなんだかかわいらしく感じられた。
「ねえ沢田さん」
「……何よ?」
「前から不思議に思っていたんだけど、沢田さんはどうしてわたしにかまおうとするの?」
 これまではただ鬱陶しいとしか思っていなかったけど、沢田さんに対して抱いていた敵愾心がほんの少しだけ薄らいだこともあり、その理由を尋ねてみたくなった。
「どうしてって、それは――」
 照れくさそうに頬を掻きながら沢田さんが何か言おうとしたところ、
「みっさきーっ!」
 彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。わたしたちが同時に声がした方を向くと、体育館からこちらに走ってくる女子生徒の姿が見えた。わたしよりも小柄で、大きな瞳が印象的な、同姓の目から見てもかわいらしい女子生徒――クラスメイトの矢島絵里花さんだ。
 矢島さんは沢田さんの体に抱きつくようにした立ち止まると、しばらくぜいぜいいっていた息を整える。やがて落ち着くと、もたれかかっていた相手にキッと睨みつけた。その鋭い視線に、沢田さんはたじろいでしまう。
「もーう、どうして先行っちゃうのよ。わたしが終わるまで待っててって言ったじゃない」「ごめん、ちょっと用があってさ……」「何よそれ! どうせみさきはわたしのことなんてどうでもいいと思っているんでしょ!」「そんなわけないじゃない。エリカ、ちょっと落ち着いてよ」「……クリームみつ豆」「は?」「ショッピングセンターにある甘味処のクリームみつ豆で手を打ってあげる」「はいはい、わかりましたよ。奢ればいいんでしょ、奢れば」「えへへ、なら許す」
 二人が(少なくとも矢島さんは)楽しげに会話しているのをわたしは横でぼんやりと眺めていた。二人ともわたしの存在など眼中になさそうだ。
 教室に戻ろうと思った。もはやここにはわたしの居場所はないようだから。
 わたしは何も告げずに沢田さんたちに背を向け、その場から立ち去った。
「ちょっと、河村さん!?」
 後方から沢田さんの呼び止める声がしたけど、今度は完全に無視を決め込んだ。