空に近い場所――松永先輩はこの屋上のことをそう呼んでいた。言い得て妙だと思った。たしかにここは空に近いと感じることのできる場所であったから。
 以前、わたしは母方の伯父に連れられて、さまざまなテナントや映画館、宿泊施設、オフィスなどが入っている超高層ビルの展望台に登ったことがあった。そこから見下ろす町並みはまるでミニチュア模型のようで、たしかにすごいとは思ったものの、空に近いと感じるようなことはなかった。観覧車の一番高いところや、おばあちゃんの家に遊びに行く際に乗った飛行機の窓から見た風景も同様だ。
 ここだけが、他と比べて必ずしも高いとはいえないこの校舎の屋上だけが、唯一空に近いと感じることができた。
 どうしてなのかは自分でもよくわからない。単に気分的な問題なのかもしれない。でも、理由なんてどうだっていいんだ。重要なのは松永先輩と一緒に空に近い場所にいるということなのだから。
 わたしはいつものように松永先輩の横に寝転がり、くすんだ青の空と鉛色がかった白い雲を眺めていた。
 会話はない。わたしと松永先輩はこれまでも何度かこうして屋上で会ってはいたけど、あまりお喋りをすることはなかった。基本的にこうしてただ黙って空を見上げているだけだ。
 服装頭髪検査での坂本先生とのやり取りを見るかぎり、松永先輩はいくらでも能弁になれる人なのだろうけど、ここで空を見ている時は必要以上の言葉を発することはなかった。わたしも気持ちよく空を眺めている先輩の邪魔にならないよう、極力こちらから話しかけることは避けていた。
 そもそも、何を話したらいいかわからないし……。
 わたしができる話題といえば、この前あった中間テストの結果や、愛読している少女漫画の感想、人気アイドルグループの誰が好きか――そんなどうでもいいようなものばかりだ。そんな話をしても先輩につまらない人間だと思われてしまうのがオチだろう。だから何も話せずにいる。
 別にそれでもかまわないと思っていた。なぜなら、ここには空があるから。この空を見ているだけで何もかも満たされてしまう。そんな場所では、言葉なんて野暮ったいものは必要ないのだから。
 ――と、己を納得させてはみたものの、それだけでは満たされないという想いもやっぱりあるわけで……。
 ちらりと隣で寝転がっている松永先輩に目を向ける。先輩はじっと空を見つめていた。その表情はとても穏やかだ。赤い髪が風に揺れ、さらさらと頬をさすっている。
 わたしは初めて会った時のようにしばし先輩に見とれていた。
「ん?」
 だから、先輩が不意にこちらを向くと、やはり同じようにあわてふためいてしまった。
「す、すみません!?」
 しどろもどろになって謝るわたしに、松永先輩は目を細めて言った。
「ねえ由佳、私に何か話したいことがあるんじゃない?」
「えっ!?」その言葉にわたしはこれまで以上に狼狽した。「どうしてわかったんです?」
「だって由佳の顔にそう書いてあるもの」
「そうですか……」
 ……わたしって、そんなに考えていることが顔に出るたちなんだろうか。
「お喋りしようか?」
 憮然として自分の顔をさすっていたわたしに、松永先輩が提案した。
「いいんですか? 静かに空を眺めていたいんじゃ……」
「いいのよ別に。空は逃げたりしないしね。それに、久しぶりだっていうのに、今日の空はいまいち魅力に欠けるしさ」先輩は苦笑いをして答えると、真っ直ぐにわたしを見て言った。「さあ、何でも話してごらん。ちゃんと聞いてあげるからさ」
「はあ……」
 そうやって促されると逆に話しづらいものがあるのだけど、せっかくなのでわたしは思い切って松永先輩に質問してみた。
「あの……先輩はどうして髪を赤く染めているんですか?」
 それは松永先輩と出会った時からずっと気になっていた疑問だ。最初のうちは〝不良の人だから〟という理由になっていない理由で納得していたのだけど、何度か会っているうちにそれは違うのではないかと思うようになっていた。松永先輩には髪を赤く染めている以外に逸脱したところがないのだ。制服を着崩していたり、屋上で煙草やシンナーを吸ったりもしていない。どこかの不良グループと付き合っているといったこともなさそうだ。
 松永先輩はいたってまっとうな生徒だった。ゆえに、なぜ髪を――それも赤だなんて目立つことこの上ない色に――染めているのか気になって仕方がなかった。何か深い理由でもあるのだろうか。
「なんだ、私のことが聞きたかったわけ?」拍子抜けしたような顔をしながらも、松永先輩はわたしの質問に答えてくれた。「どうしても何も、これは地毛だからね」
「…………」
 わたしが聞きたかったのは、そんな坂本先生を煙に巻くような言葉じゃない。
 わたしの不満を察したのか、先輩は今度は真面目に答えてくれた。
「そうね……これは私の証だから、かな」
「証……ですか?」
「そう。私が私であるための証」
 またからかわれたのかと思ったけど、先輩の真剣な表情を見るかぎり、そうではなさそうだ。
 自分であるための証というのは、ようするに個性ということなのだろうか? だとしても、どうしてそれが赤い髪になるのだろう?
 よくわからない……。
 納得できずにいるわたしに、逆に松永先輩が尋ねる。
「ねえ由佳、あなたはなぜ河村由佳なの?」
「え?」
 その突拍子のない質問に、わたしは面食らってしまった。
 松永先輩は続ける。
「この地球上では、今この瞬間にも世界のあちこちでたくさんの子どもたちが産まれている。由佳が生まれてきた時も当然そうだったでしょうね。それはつまり、たくさんの選択肢があったということ。
 由佳、あなたには違う国の違う親の元に生まれてくることも、男として生まれてくることも、そして生まれてこないということすら選択として有り得たはずなのよ。それなのに、あなたは今の両親の元に、女として、生まれてきた。――それはどうして?」
「どうしてと言われましても……」
 わたしは困惑しながらも、なんとかその質問に返答しようと試みる。
 ――わたしの家族。
 銀行員のお父さんに専業主婦のお母さん、そして中学一年生であるわたしの三人家族。わたしが小学校に上がるのを期に購入したニュータウンの一戸建てに住んでいて、そこにはちゃんと自分の部屋もある。とりたててお金持ちというわけではないものの、さりとて貧乏なわけでもない、ごく普通の中流家庭だと思う。別にそのことに不満はない。世の中には親がいなかったり、いても虐待されていたり、貧乏でその日の食べ物もままならない子どもだって少なくないのだ。そんな子たちに比べたらわたしは十分恵まれているといえるだろう。
 ……だけど、それがわたしが望んだものかと言われると答えに窮してしまう。
 ――女であること。
 この国はいまだ歴然とした男性社会であり、昔に比べればだいぶ改善はされてきてはいるのだろうけど、残念ながらわたしが生きている間に性差別が完全に無くなることはなさそうだ。だけど、わたしの十二年の人生において、女として生まれて損をしたと感じたことがどれほどあっただろう。たしかに「女の子だからああしなさい」とか、「女の子のくせにこんなことをしてはいけません」などと言われたことは一度ならずあるものの、それを理不尽だと感じたことはあまりなかった気がする。たぶんわたしは、世間一般に求められる女性役割を無難こなせるタイプだと思うから。そもそも、学校の男子を始めとして男という存在にはあまりいい印象を抱いていないし……。だから、女性として生まれたことに特に絶望はしていない。
 ……とはいえ、それはわたしが希望した結果なのかと問われると首を傾げざるを得ない。
 ――生まれてきたこと。
 わたしも中学生なのだから、人間がどうやって生まれてくるのかくらいは知っている(それを具体的に想像するのはおぞましいかぎりだけど……)。その知識によると、わたしをわたしたらしめる要素の一部が何億もの同胞との争いに勝利したことで、こうしてこの世界に生を受けることができたらしい。当然その際の記憶などないけど、何事にも気後れしてしまうわたしが、他を差し置いて生存競争に勝つことができただなんて、正直信じられないものがある。そもそも、わたしが本当に生まれてくることを望んでいたのかすらよくわからないし……。
 そんなだから、先輩の質問には――
「答えようがないよね、そんなこと」わたしの返事を先取るように松永先輩は言った。「人は生まれながらに三つの不自由を背負っていると言われている。親を選ぶことのできない不自由、性別を選ぶことのできない不自由、そして自分が生まれてくること自体を拒否できない不自由――それらはすべてわたしたちが自身で選択した結果じゃない、何かあずかり知らぬ力によって決められたものなの。だから、それについてどうしてそうなのかなんて訊かれたところで、こちらとしては『そういうものだから』としか答えるより他ない。――違う?」
「違わない……と思います」
 だってわたしには、わたしとして生まれてくることを選択する自由なんてありはしなかったのだから。
 ――って、何でこんな話をしているんだっけ? わたしは松永先輩の髪について聞いていたはずなのに……。
「私の髪も同じことだよ」松永先輩は唐突に話題を引き戻した。「別に、この髪のことを四番目の不自由だなんて大げさなことを言うつもりはないけど、自分ではどうにもならないものだということに変わりはないんだ。だから、『どうして髪を染めなくてはならないのか?』とか、『どうしてそれが赤じゃなくてはならないのか?』なんて訊かれても、こちらとしては『そういうものだから』としか答えようがないんだよ。――わかった?」
「……全然わかりません」
 わたしが素直に答えると、松永先輩は「だよね」と苦笑いする。
「私自身も、自分で何言ってるんだろうって思ったからね」
「先輩……」
「こらこら、情けない顔しないの」ちゃかすように言った後、不意に先輩は真顔になって続ける。「……ごめんね。これについては自分でもうまく説明ができないんだ。何て言うか、理屈じゃないのよ、理屈じゃ。そういうわけだから、何となくでもいいから納得してよね」
「はあ……」
 そんな自分でもよくわからない理由で髪を染めているだなんて……とは思いはしたものの、先輩を困らせるだけだから、これ以上追求するのはやめることにした。
 だけど、真剣に尋ねたのにわけのわからない話ではぐらかされて面白くないと感じたせいだろうか、わたしはついよけいなことを口にしてしまった。
「でも、それって校則違反ですよね」
 そう、たとえ赤い髪が松永先輩の証だとしても、それはれっきとした校則違反であり、許されることではないのだ。先輩はそのへんについてどう考えているのだろう。
「…………」
 松永先輩の表情がたちどころに曇ってしまった。ばつが悪そうに目を伏せる。そんな先輩の様子を見て、わたしは自分の浅はかさを呪わずにはいられなかった。
「いえ、別に松永先輩を非難しているわけではないんですよ。校則違反なんて、多かれ少なかれ誰もがやっていることですしね。でも、みんな誤魔化す術に長けているんですよ。それってずるいですよね。だから、先輩のように堂々としているのは、むしろすごいことだと思うんです。実はわたし、この前の服装頭髪検査の時の先輩を見てほれぼれしてたんですよ。だって――」
 わたしが必死に弁解していると、
「……仕方がないよ」
 ぼそりと松永先輩は言った。
「仕方がない……ですか?」
 わたしが聞き返すと先輩はうなずき、今一度言った。
「そう、仕方がない」
 開き直り、としか取れないような発言だった。だけど、先輩の表情には「別に人に迷惑をかけているわけじゃないんだから、わたしの勝手でしょ!」というような利己的な嫌らしさは微塵もなく、むしろ本当は許されないのだという事実を真正面から受け止めようとしている真摯さすら感じられた。
 松永先輩は静かに語り出す。
「以前の私は、私であって私じゃなかった。他人が望んでいる松永京子という存在を演じているにすぎなかった。当時はそれでもかまわないと思っていた。そうやって演じているわたしのことをみんなが好いてくれたから。……でも、もうだめ。気付いてしまったから。本当の私に――真の松永京子の姿に」
 先輩は自分の前髪を摘み、それをじっと見つめる。
「一度この私という証を手に入れた以上、二度とそれを手離すつもりはない。誰になんと言われようとも、それが校則に違反する行為であったとしてもね。一時の迷いで妥協なんてしてしまったら、私はせっかく見つけた私を失ってしまうことになるから。それは死んだも同然だから」
 髪をくるくると指に絡ませる。
「だから、私は決めたんだ。自分の命を懸けてでも、この私であるための証を守るんだってね」
 指に絡まった髪がほどけ、ふわりと広がる中、先輩は断言した。
 松永先輩の静かな――だけど揺るぎのない決意にわたしは圧倒されてしまった。
 先輩の言っていることは、常識的に考えれば〝自分勝手〟とか〝自己中心的〟と言われ、非難されてしかるべき所業だろう。だけど、たとえ人から非難されようとも守りたい自分があるというのは正直すごいことだと思った。
 わたしにはあるんだろうか? そこまでして守りたい自分というものが……。
「はい、由佳の番」
 出し抜けに松永先輩が言った。
「……え? なんですか、わたしの番って?」
「私のことを話してあげたんだから、今度は由佳が自分の話をするのよ」
「そ、そんな……。聞いてませんよ!?」
「聞いてなくてもするの。だって、私だけじゃ不公平じゃないの」
「不公平って……。だいたい、わたしの話なんか聞いてもちっとも面白くないですよ」
「面白いか面白くないかは実際に聞いてから判断するよ。さあ、どんな些細なことでもいいから観念して話しちゃいなさい」
 松永先輩はにやにや笑いながらわたしに迫ってくる。わたしはたまらず後ずさりしてしまう。
 そんなこと言われても、自分のことなどあまり話したくない、知られたくないという想いが強かった。だって、わたしは自分のことが――
 ふと、松永先輩と目が合った。先輩はわたしに微笑みかけてくれている。それは優しくて、暖かで、まるですべてを包み込んでくれるかのようで――
 わたしの心の扉にかかっていた錆び付いた錠が外れる音がした。
「わたし……自分のことが嫌いなんです……」
 気がついたら、そう口走っていた。
 な、何言っているの、わたし!?
 自分の口からこぼれた言葉に一番驚いたのは他ならぬわたし自身だった。早く取り繕わないと。「今のは冗談です」と笑って誤魔化さないと。じゃないと変なやつだと思われてしまう。
 だけど、どうしてもその言葉が口から出てこなくて……。
 松永先輩の顔からはさすがに笑みは消えていたけど、決してわたしの言葉に怯んだり呆れたりはぜず、静かに受け止めてくれた。
 先輩は小さく頷く。それは「どんなことでも聴いていてあげる」と促しているようにわたしには感じられた。
 わたしは仰向けに寝転がった。視線の先を大きな雲の固まりがゆったりと流れていく。その雲を吹き飛ばさんばかりに大きな息を吐くと、わたし静かに語り出した。
「以前、先輩はわたしのことを真面目ないい子だって評しましたよね。それ、当たりです。わたしはそう呼ばれる類の人間なんです」