熊本県菊地市市原
桜木春菜は夏の避暑地で、秋は紅葉狩りで有名な菊地渓谷近くにある菊地川沿いにある父の実家に帰省していた。夏場の天然クーラーでエアコンいらずでマイナスイオンを浴びながらのんびり過ごす。
畳みの部屋でお祖母ちゃんが作ってくれたソーメンをたらふく平らげた後、四角いテーブルのすぐ傍で寝転がって日記帳を開く。
夏海、どんなことを書いてるかな?
吹奏楽部を辞めた後、独りぼっちで心細い思いをしていた夏海に思いを馳せながら、書いてる日記を読み返してるうちに寝落しそうになると、お祖母ちゃんがタオルケット持ってきて優しく敷いてくれた。
「春菜、お昼寝したら前んごつ川で遊んどいで」
スマホよりも日記で書くことを勧めたのはお祖母ちゃんだった。
「ありがとうお祖母ちゃん、またここでソーメン食べられるなんて夢にも思わなかったよ」
「祖母ちゃんも、春菜がいつもお盆休みや連休で遊び来るのが当たり前やて思うとったばってん、大間違いだった」
「そうね……」
春菜も毎年お盆は田舎で過ごせるのが当たり前だと思ってたけど、それは大間違いだったと痛感しながら起き上がって、テーブルの上に置いてある氷の溶けた麦茶を一口飲むと、少し考えて口にする。
「お祖母ちゃん、高校で部活入ったら卒業まで続けるのが当たり前って言うけど……当たり前って何だろうね?」
「そうね、ばってんこれだけは言ゆる。当たり前んことば当たり前やて思うてしまいかん、今日まで祖母ちゃんや春菜が生きとるんな奇跡ばい!」
お祖母ちゃんの言う通りだ。
「奇跡か……」
春菜は寝転がって天井を見上げる。
あの時、朝霧君が夏海の日記を見つけなかったら? それ以前に屋上で叫ぶ夏海を見つけなかったら? きっとマーク・フェルトの正体だった千秋の本当の気持ちを知ることもなかっただろう。
それ以前にあの日、日記を読み返さなかったら?
それは六月に入ったある日のことだった。
インターハイ予選を終えて全国大会に備え、練習の日々を送っていた昼休みのことだった。
午後の授業と放課後の練習に備え、エアコンの利いた騒がしい教室で弁当と昼食後のおやつを食べながら、同じクラスの部員の子や一組にいる千秋と日記の話しをしていた。
みんなはスマホのアプリで日記を書いていたが春菜だけ日記帳に書いてることを、みんなに力説した。
「お祖母ちゃんが言ってたの、自分の手で書いて後で読み返すと書いた時の気持ちや、その日の思い出が鮮明に蘇ってくる! 自分の書いた言葉には言霊が宿るんだって!」
「それ、うちのお祖母ちゃんも話してたわ。言葉には魂が宿っていて、願い事や夢を口にすると叶うって、逆に誰かの悪口や嫌なことを言うと自分に返ってくるって」
千秋も頷いて話すと、同級生の部員が冗談を含めて言う。
「それなら私達間違いなく地獄に堕ちるね! だって大神の悪口とか言いまくってるし」
「まぁ不満が悪口に発展することもあるから気をつけなきゃね……吹奏楽部なんか凄いらしいよ。駒崎さんから聞いたけど、笹野先生が学校を去った後、洗脳が解けたみたいにあれだけ従順だったみんなが恨みや憎しみや悪口を口にしてたって」
千秋の言うことに同級生の部員が頷く。
「そりゃあ、あんな虐待レベルな指導なんかしてたらねぇ……そういえば去年辞めた子、千秋のクラスだっけ? フルートの風間さん?」
「うん、辞めたばかりの頃は昼休み駒崎さんや守屋さんと食べてけど、最近は一人で中庭に食べてることが多いわ」
千秋は言う、春菜はきっと肩身の狭い思いをしてるんだなと思ってると、話しが脱線してることに気付いてやんわりと戻す。
「一人で心細いだろうね、せめて一人で抱え込まず……日記に好きな男の子ができて、その子と付き合って毎日が幸せって書けるといいんだけね」
春菜は日記帳をめくって昨日何書いたかな? そういえば書く時間は体力の有り余ってる春菜と言えど、クタクタになって寝る前に書くのが習慣だった。
何となく昨日のページを開くと、ピタリと手を止めて思わず目を見開いて固まった。
思わず一昨日と時間を遡り、二年生になった日まで遡って日記帳を閉じた頃には全身冷や汗が滲み出て表情は青褪める。
「ちょっと春菜! 大丈夫?」
真っ先に気付いたのは千秋だった。
「あはははは……大丈夫」
春菜は友達を心配させまいという気持ちで笑って誤魔化す。
「なら……いいけど」
それでも千秋は心配した表情を変えなかった、いつもの五時間目の授業からは睡魔が襲ってくるはずがこの日だけは眠くならず、授業も上の空で頭の中は日記の内容で一杯だ。
「もうテニス部辞めたい、ラケット握りたくない」「卒業までずっと朝から晩まで部活なんて嫌だ」「家でゴロゴロしながらYouTube見たい」「放課後や休みの日は友達とタピオカ飲みながら街をブラブラしたい」「このまま部活だけで高校生活終わるの?」「あたし何のためにラケット握ってるの?」「夏休みもずっと練習なんて嫌だ」
あたしそんなこと書いてたんだ。日記に書いてた中身が頭の中で竜巻のように回り続け、今日までの高校生活が部活意外何もなかったことを思い出す。
放課後になると、いつものように惰性でテニスウェアに着替えてラケットや制服の入ったボストンバッグを持ってテニスコートに向かう。
平静を装いながらすぐに練習開始、ウォーミングアップの準備体操と軽いランニングを終えるとラケットを握ってコートに立つ。
「いくよ春菜!」
千秋がボールを二回ほどコートにバウンドさせると、ボールを打ち上げてラケットに打ち付ける。その瞬間、今まで抑えていたものが音を立てて崩れ落ちた。
春菜は打ち返さず、ボールは勢い良く春菜を横を掠めて後ろの壁に叩きつけられ、同時にラケットが手から零れ、乾いた音を立ててコートに落ちる。
「ちょっと春菜! どうしたの!?」
コートの反対側にいた千秋が真っ先に異変に気付いてラケットをその場に置いて真っ先に気付いて駆け寄る。それにも気付かず春菜はただ震えながら呟く。
「あたし……何のためにラケット握ってるの? 何のためにテニスやってるの? あたしの青春って何のためにあるの? ただ練習して練習して練習してたまに試合をやる……それに何の意味があるの?」
「おい! 桜木! どうしたんだ? 真っ青だぞ!」
顧問の大神先生も駆け寄るが耳に入らない。
抑えていたものが崩れ落ちた後は決壊して濁流となり、それが大粒の涙となって両頬を伝って雫が地面に落ちると、同時に両膝も落ちて春菜はその場で泣き叫んだ。
大事な試合で負けても泣かなかったのに、まるで赤ん坊のように声を上げて泣き叫んだ。
「春菜、大丈夫!? 一緒に保健室に行って休もう! 大神先生、春菜は今日の部活は無理です! 休ませていいですよね?」
一番気にかけてくれた千秋は大神先生に眼差しで押すように言うと、流石の大神先生もうろたえながら「あ、ああ」と頷き、保健室に連れて行かれた。
泣き叫んでベッドで休み、落ち着いた後は校医の先生から簡単なカウンセリングを受ける。
高校入って部活漬けの日々で知らず知らずのうちに精神的ストレスを溜め込み、それが許容範囲を超過して決壊したのだとわかりやすく説明してくれた。
その日は真っ直ぐ帰り、両親に心配されながら退部を決意した。
翌日、春菜は登校してすぐ退部届けを書いて朝のホームルーム前の大神先生に提出すると案の定、今まで見たことない程困惑した。
「退部って!? 桜木……インターハイはどうするんだ?」
「……もう、どうでもいいんです」
「どうでもいいって……お前を応援してくる人達はどうなる?」
「どうでもいいですし知ったこっちゃありません……あたしの代わりなんていくらでもいますから」
春菜は首を横に振って言うと、大神先生は大袈裟に説得を試みる。
「桜木、辛いのはお前だけじゃない! みんなだって同じだぞ! みんなが目標に向かって歯を食い縛って苦しい練習に耐える日々を送ってる……今は辛くても後で素晴らしい思い出だったと言える日が必ず来る!」
「それっていつですか? あたしはそれが嫌なんですよ、もう練習についてこれないので辞めます」
春菜はこの先生には何を言っても無駄だと感じてる、そしてこの先生の言うことは春菜には届かない。
「桜木、二年生になったばかりだ。もうすぐ三年生も引退する、そしたら誰がテニス部を牽引していくんだ? それにせっかく部活に入ったからには卒業まで続けるのが常識だ! 途中で辞めたら、進学や就職にだって響くぞ!」
大神先生の口調からだんだん余裕がなくなって強い口調になっていくが、春菜は反対に白けて冷たい口調になる。
「そんな先のことなんて知りません、常識ってなんです? あたしはその常識に苦しめられてるのがわからないんですか? あたしは今を大事にしたいんです」
「その今を大事にしてないのは桜木、お前の方だぞ! 先生だってお前の――」
お前のことを思ってと言おうとしたのだろう、背後から小柄な先生が肩を乗せて阻止する。
「大神先生、もうこれくらいにしておきましょう」
「柴谷先生……しかし桜木は――」
「これ以上無理強いすると、桜木さんは今度こそ壊れて取り返しのつかないことになってしまいます。そうなった時、親御さんにどう説明して責任を取るつもりですか?」
柴谷先生はにこやかだがその眼差しは笑っていない。大神先生は渋い顔になると、柴谷先生は春菜に温かい眼差しを向ける。
「桜木さん、今はゆっくり休んでね。そしてしっかり自分自身と向き合えば、きっと新しい道を見つけられるから」
「はい……失礼します」
春菜は力無く一礼して職員室を出ると、その日のうちから春菜がテニス部を辞めたというニュースが校内に広がり、下級生同級生上級生にあれこれ訊かれたこともあったがどれも適当に答えてやり過ごした。
昼休みになると心配する同じ部のクラスメイトの視線も無視して、弁当と水筒を持って中庭に行く、ベンチで一人何かに怯えながら寂しく座って弁当を開ける一組の女の子に、春菜はいつもの調子で声をかけた。
「ねぇ、一組の風間夏海さんだよね?」
「!? えっと……二組の桜木さん?」
夏海は怯えた表情で警戒される、当然と言えば当然だ。大丈夫、包み隠さず接していけばきっと心を開いてくれる。
「うん、春菜でいいよ。去年吹奏楽部辞めたんだよね? あたしも今日、テニス部辞めたの」
春菜はからっとした笑みで隣に座った。
そこで目が覚めて起き上がる、スマホの時計を見ると三〇分ほど寝てたようだ。
「姉ちゃんいつまで寝てるの? 川に遊びに行くよ!」
弟に急かされると遊びに行く時間だった、春菜はすぐに理解して微笑み、飛び起きた。
「すぐ行くよ!」
いつまでも寝てる場合じゃない、せっかく手に入れた自由! この青春は今しかないんだ!
ピンクのタイサイドビキニにボーイレッグ姿に着替え、上だけTシャツを着ると、父の運転する日産ノートに乗り、菊地渓谷下流にある千畳河原大場堰に向かう。
駐車場で日産ノートを停めて降りると、うっそうと生い茂った木々に囲まれ、蝉が鳴き、河原には水鳥が飛び回り、菊池川の天然プールに向かう。
春菜は準備運動をそこそこに、冷たい川に入って泳ぎ回る。
冷たくて気持ちいい! やっぱり部活辞めてよかった! そういえば夏海は天草の海の近くにいるんだっけ? ちゃんと楽しんでるかな?
体が温まった所で吊橋に上がり真ん中まで行くと、手摺りを乗り越える。
水面までの高さは七メートルくらい、小学生の頃を思い出す、最初は怖かったけどいざ飛び降りると凄く楽しい。
「行っくよぉぉおおっ!」
川のほとりにいる家族に向かって手を振る。
下を見ると恐ろしく高く見えるのが懐かしい、小学生の頃に怖くて飛び降りるのが怖かった。だけど、一度飛んでしまえば後はあるがままだ!
春菜は勢いよく飛び上がり、美しいエメラルドグリーンの川に勢いよく突き刺さるように落ちて水飛沫を上げる、春菜を全身の冷たい水の中に沈むとすぐに浮き上がって水面に顔を出して「ぷはぁ!」と息継ぎして川岸に上がる。
「ああ気持ちいい! もう一回行こう!」
春菜は何度も飛び降りたり、泳いだり、手に入れた自由を謳歌し、そして実感する。
お盆休みが終わればみんなと湘南旅行! そして八月三一日の彗星観測! とても楽しみで待ちきれない! そう、これがあたしの青春なんだ!
桜木春菜は夏の避暑地で、秋は紅葉狩りで有名な菊地渓谷近くにある菊地川沿いにある父の実家に帰省していた。夏場の天然クーラーでエアコンいらずでマイナスイオンを浴びながらのんびり過ごす。
畳みの部屋でお祖母ちゃんが作ってくれたソーメンをたらふく平らげた後、四角いテーブルのすぐ傍で寝転がって日記帳を開く。
夏海、どんなことを書いてるかな?
吹奏楽部を辞めた後、独りぼっちで心細い思いをしていた夏海に思いを馳せながら、書いてる日記を読み返してるうちに寝落しそうになると、お祖母ちゃんがタオルケット持ってきて優しく敷いてくれた。
「春菜、お昼寝したら前んごつ川で遊んどいで」
スマホよりも日記で書くことを勧めたのはお祖母ちゃんだった。
「ありがとうお祖母ちゃん、またここでソーメン食べられるなんて夢にも思わなかったよ」
「祖母ちゃんも、春菜がいつもお盆休みや連休で遊び来るのが当たり前やて思うとったばってん、大間違いだった」
「そうね……」
春菜も毎年お盆は田舎で過ごせるのが当たり前だと思ってたけど、それは大間違いだったと痛感しながら起き上がって、テーブルの上に置いてある氷の溶けた麦茶を一口飲むと、少し考えて口にする。
「お祖母ちゃん、高校で部活入ったら卒業まで続けるのが当たり前って言うけど……当たり前って何だろうね?」
「そうね、ばってんこれだけは言ゆる。当たり前んことば当たり前やて思うてしまいかん、今日まで祖母ちゃんや春菜が生きとるんな奇跡ばい!」
お祖母ちゃんの言う通りだ。
「奇跡か……」
春菜は寝転がって天井を見上げる。
あの時、朝霧君が夏海の日記を見つけなかったら? それ以前に屋上で叫ぶ夏海を見つけなかったら? きっとマーク・フェルトの正体だった千秋の本当の気持ちを知ることもなかっただろう。
それ以前にあの日、日記を読み返さなかったら?
それは六月に入ったある日のことだった。
インターハイ予選を終えて全国大会に備え、練習の日々を送っていた昼休みのことだった。
午後の授業と放課後の練習に備え、エアコンの利いた騒がしい教室で弁当と昼食後のおやつを食べながら、同じクラスの部員の子や一組にいる千秋と日記の話しをしていた。
みんなはスマホのアプリで日記を書いていたが春菜だけ日記帳に書いてることを、みんなに力説した。
「お祖母ちゃんが言ってたの、自分の手で書いて後で読み返すと書いた時の気持ちや、その日の思い出が鮮明に蘇ってくる! 自分の書いた言葉には言霊が宿るんだって!」
「それ、うちのお祖母ちゃんも話してたわ。言葉には魂が宿っていて、願い事や夢を口にすると叶うって、逆に誰かの悪口や嫌なことを言うと自分に返ってくるって」
千秋も頷いて話すと、同級生の部員が冗談を含めて言う。
「それなら私達間違いなく地獄に堕ちるね! だって大神の悪口とか言いまくってるし」
「まぁ不満が悪口に発展することもあるから気をつけなきゃね……吹奏楽部なんか凄いらしいよ。駒崎さんから聞いたけど、笹野先生が学校を去った後、洗脳が解けたみたいにあれだけ従順だったみんなが恨みや憎しみや悪口を口にしてたって」
千秋の言うことに同級生の部員が頷く。
「そりゃあ、あんな虐待レベルな指導なんかしてたらねぇ……そういえば去年辞めた子、千秋のクラスだっけ? フルートの風間さん?」
「うん、辞めたばかりの頃は昼休み駒崎さんや守屋さんと食べてけど、最近は一人で中庭に食べてることが多いわ」
千秋は言う、春菜はきっと肩身の狭い思いをしてるんだなと思ってると、話しが脱線してることに気付いてやんわりと戻す。
「一人で心細いだろうね、せめて一人で抱え込まず……日記に好きな男の子ができて、その子と付き合って毎日が幸せって書けるといいんだけね」
春菜は日記帳をめくって昨日何書いたかな? そういえば書く時間は体力の有り余ってる春菜と言えど、クタクタになって寝る前に書くのが習慣だった。
何となく昨日のページを開くと、ピタリと手を止めて思わず目を見開いて固まった。
思わず一昨日と時間を遡り、二年生になった日まで遡って日記帳を閉じた頃には全身冷や汗が滲み出て表情は青褪める。
「ちょっと春菜! 大丈夫?」
真っ先に気付いたのは千秋だった。
「あはははは……大丈夫」
春菜は友達を心配させまいという気持ちで笑って誤魔化す。
「なら……いいけど」
それでも千秋は心配した表情を変えなかった、いつもの五時間目の授業からは睡魔が襲ってくるはずがこの日だけは眠くならず、授業も上の空で頭の中は日記の内容で一杯だ。
「もうテニス部辞めたい、ラケット握りたくない」「卒業までずっと朝から晩まで部活なんて嫌だ」「家でゴロゴロしながらYouTube見たい」「放課後や休みの日は友達とタピオカ飲みながら街をブラブラしたい」「このまま部活だけで高校生活終わるの?」「あたし何のためにラケット握ってるの?」「夏休みもずっと練習なんて嫌だ」
あたしそんなこと書いてたんだ。日記に書いてた中身が頭の中で竜巻のように回り続け、今日までの高校生活が部活意外何もなかったことを思い出す。
放課後になると、いつものように惰性でテニスウェアに着替えてラケットや制服の入ったボストンバッグを持ってテニスコートに向かう。
平静を装いながらすぐに練習開始、ウォーミングアップの準備体操と軽いランニングを終えるとラケットを握ってコートに立つ。
「いくよ春菜!」
千秋がボールを二回ほどコートにバウンドさせると、ボールを打ち上げてラケットに打ち付ける。その瞬間、今まで抑えていたものが音を立てて崩れ落ちた。
春菜は打ち返さず、ボールは勢い良く春菜を横を掠めて後ろの壁に叩きつけられ、同時にラケットが手から零れ、乾いた音を立ててコートに落ちる。
「ちょっと春菜! どうしたの!?」
コートの反対側にいた千秋が真っ先に異変に気付いてラケットをその場に置いて真っ先に気付いて駆け寄る。それにも気付かず春菜はただ震えながら呟く。
「あたし……何のためにラケット握ってるの? 何のためにテニスやってるの? あたしの青春って何のためにあるの? ただ練習して練習して練習してたまに試合をやる……それに何の意味があるの?」
「おい! 桜木! どうしたんだ? 真っ青だぞ!」
顧問の大神先生も駆け寄るが耳に入らない。
抑えていたものが崩れ落ちた後は決壊して濁流となり、それが大粒の涙となって両頬を伝って雫が地面に落ちると、同時に両膝も落ちて春菜はその場で泣き叫んだ。
大事な試合で負けても泣かなかったのに、まるで赤ん坊のように声を上げて泣き叫んだ。
「春菜、大丈夫!? 一緒に保健室に行って休もう! 大神先生、春菜は今日の部活は無理です! 休ませていいですよね?」
一番気にかけてくれた千秋は大神先生に眼差しで押すように言うと、流石の大神先生もうろたえながら「あ、ああ」と頷き、保健室に連れて行かれた。
泣き叫んでベッドで休み、落ち着いた後は校医の先生から簡単なカウンセリングを受ける。
高校入って部活漬けの日々で知らず知らずのうちに精神的ストレスを溜め込み、それが許容範囲を超過して決壊したのだとわかりやすく説明してくれた。
その日は真っ直ぐ帰り、両親に心配されながら退部を決意した。
翌日、春菜は登校してすぐ退部届けを書いて朝のホームルーム前の大神先生に提出すると案の定、今まで見たことない程困惑した。
「退部って!? 桜木……インターハイはどうするんだ?」
「……もう、どうでもいいんです」
「どうでもいいって……お前を応援してくる人達はどうなる?」
「どうでもいいですし知ったこっちゃありません……あたしの代わりなんていくらでもいますから」
春菜は首を横に振って言うと、大神先生は大袈裟に説得を試みる。
「桜木、辛いのはお前だけじゃない! みんなだって同じだぞ! みんなが目標に向かって歯を食い縛って苦しい練習に耐える日々を送ってる……今は辛くても後で素晴らしい思い出だったと言える日が必ず来る!」
「それっていつですか? あたしはそれが嫌なんですよ、もう練習についてこれないので辞めます」
春菜はこの先生には何を言っても無駄だと感じてる、そしてこの先生の言うことは春菜には届かない。
「桜木、二年生になったばかりだ。もうすぐ三年生も引退する、そしたら誰がテニス部を牽引していくんだ? それにせっかく部活に入ったからには卒業まで続けるのが常識だ! 途中で辞めたら、進学や就職にだって響くぞ!」
大神先生の口調からだんだん余裕がなくなって強い口調になっていくが、春菜は反対に白けて冷たい口調になる。
「そんな先のことなんて知りません、常識ってなんです? あたしはその常識に苦しめられてるのがわからないんですか? あたしは今を大事にしたいんです」
「その今を大事にしてないのは桜木、お前の方だぞ! 先生だってお前の――」
お前のことを思ってと言おうとしたのだろう、背後から小柄な先生が肩を乗せて阻止する。
「大神先生、もうこれくらいにしておきましょう」
「柴谷先生……しかし桜木は――」
「これ以上無理強いすると、桜木さんは今度こそ壊れて取り返しのつかないことになってしまいます。そうなった時、親御さんにどう説明して責任を取るつもりですか?」
柴谷先生はにこやかだがその眼差しは笑っていない。大神先生は渋い顔になると、柴谷先生は春菜に温かい眼差しを向ける。
「桜木さん、今はゆっくり休んでね。そしてしっかり自分自身と向き合えば、きっと新しい道を見つけられるから」
「はい……失礼します」
春菜は力無く一礼して職員室を出ると、その日のうちから春菜がテニス部を辞めたというニュースが校内に広がり、下級生同級生上級生にあれこれ訊かれたこともあったがどれも適当に答えてやり過ごした。
昼休みになると心配する同じ部のクラスメイトの視線も無視して、弁当と水筒を持って中庭に行く、ベンチで一人何かに怯えながら寂しく座って弁当を開ける一組の女の子に、春菜はいつもの調子で声をかけた。
「ねぇ、一組の風間夏海さんだよね?」
「!? えっと……二組の桜木さん?」
夏海は怯えた表情で警戒される、当然と言えば当然だ。大丈夫、包み隠さず接していけばきっと心を開いてくれる。
「うん、春菜でいいよ。去年吹奏楽部辞めたんだよね? あたしも今日、テニス部辞めたの」
春菜はからっとした笑みで隣に座った。
そこで目が覚めて起き上がる、スマホの時計を見ると三〇分ほど寝てたようだ。
「姉ちゃんいつまで寝てるの? 川に遊びに行くよ!」
弟に急かされると遊びに行く時間だった、春菜はすぐに理解して微笑み、飛び起きた。
「すぐ行くよ!」
いつまでも寝てる場合じゃない、せっかく手に入れた自由! この青春は今しかないんだ!
ピンクのタイサイドビキニにボーイレッグ姿に着替え、上だけTシャツを着ると、父の運転する日産ノートに乗り、菊地渓谷下流にある千畳河原大場堰に向かう。
駐車場で日産ノートを停めて降りると、うっそうと生い茂った木々に囲まれ、蝉が鳴き、河原には水鳥が飛び回り、菊池川の天然プールに向かう。
春菜は準備運動をそこそこに、冷たい川に入って泳ぎ回る。
冷たくて気持ちいい! やっぱり部活辞めてよかった! そういえば夏海は天草の海の近くにいるんだっけ? ちゃんと楽しんでるかな?
体が温まった所で吊橋に上がり真ん中まで行くと、手摺りを乗り越える。
水面までの高さは七メートルくらい、小学生の頃を思い出す、最初は怖かったけどいざ飛び降りると凄く楽しい。
「行っくよぉぉおおっ!」
川のほとりにいる家族に向かって手を振る。
下を見ると恐ろしく高く見えるのが懐かしい、小学生の頃に怖くて飛び降りるのが怖かった。だけど、一度飛んでしまえば後はあるがままだ!
春菜は勢いよく飛び上がり、美しいエメラルドグリーンの川に勢いよく突き刺さるように落ちて水飛沫を上げる、春菜を全身の冷たい水の中に沈むとすぐに浮き上がって水面に顔を出して「ぷはぁ!」と息継ぎして川岸に上がる。
「ああ気持ちいい! もう一回行こう!」
春菜は何度も飛び降りたり、泳いだり、手に入れた自由を謳歌し、そして実感する。
お盆休みが終わればみんなと湘南旅行! そして八月三一日の彗星観測! とても楽しみで待ちきれない! そう、これがあたしの青春なんだ!