青い風、きみと最後の夏

「ごめーん、碧人。わたし碧人みたいなガキっぽい子、タイプじゃないんだー。わたしはもっと大人っぽいひとが好きなの。たとえば……マキ先生みたいな?」

 碧人の顔が怒ったみたいに、かあっと赤くなる。

『はぁ? 誰がおまえなんか好きだって言った? おれだっておまえみたいなへんな女、ぜんっぜんタイプじゃねーし!』

 碧人が「ぜんっぜん」ってところに、めちゃくちゃ力を込めて言う。
 そんな碧人の横から、一成が口をはさんだ。

『碧人、無理してね?』
『してねーわ!』

 碧人が一成を叩こうとして、するりとかわされる。ふたりは追いかけっこするように、バスケットゴールのまわりをぐるぐる走りはじめた。

「そういうところがガキっぽいって言ってんの」

 ため息をつくわたしのとなりで、部長の瑛介くんも、アイスを食べながらうなずいた。

『たしかにな』

 同意を得たわたしは、にかっと笑ってから、ぼうっと突っ立っている美冬にも言う。

「ねぇ、美冬もそう思わない?」

 すると美冬は、ちょっと恥ずかしそうに答えた。

『う、うん。でもわたし、碧人くんの走るとこは、いまでもカッコいいって思うよ』

 わたしはそのとき思った。
 美冬は碧人に、恋しているんだなって。

 だって、碧人の姿を目で追う美冬の頬は、ほんのり赤く色づいていて、すごく綺麗だったから。
「水原さーん、水原夏瑚さーん。そろそろ起きてくださーい」

 鴨ちゃん先生の声が聞こえる。
 わたしは夢と現実の狭間でふわふわしていた頭を、ゆっくりと起こす。

「もう放課後だよ。おうちに帰る時間でーす」
「はぁい」

 もそもそと支度するわたしを、鴨ちゃん先生が腰に手を当てて見下ろしている。
 わたしはそんな先生を見上げて、にかっと笑う。

「水原さん」
「なぁに?」
「無理して笑わなくてもいいからね?」

 わたしは開いていたシャツのボタンを留めながら、先生を見た。
 先生はおだやかに微笑んでいる。

「わたしの前では、笑わなくても大丈夫だから」
「なにそれ?」

 先生はそれ以上なにも言わず、カーテンの向こうに行ってしまった。
 わたしは少し考えて、ベッドから降り、上履きを履く。

「鴨ちゃん先生」

 カーテンの向こう側に出ると、先生はいつものように、机の上の書類に目を通していた。
 保健室のなかは今日も、わたしと鴨ちゃん先生のふたりだけ。

「わたし、そんなふうに見える?」
「うん」

 静かに笑みを浮かべた先生が、わたしに顔を向ける。

「笑ってるのに、いつも泣いてるみたいに見える」

 わたしは頬をゆるめようとしたけど、うまくできなかった。

「荷物が重かったら、少し誰かに手伝ってもらってもいいんだよ」

 鴨ちゃん先生の声が、音のない保健室のなかに響く。

「あんまり重すぎるものを抱えて歩くと、疲れちゃうからね」

 先生はもう一度、わたしに優しく笑いかける。

「もう帰りなさい。また明日も待ってるよ」

 わたしは小さくうなずいて、なにも言わずに保健室を出た。
 教室にリュックを取りに行き、ひとりで廊下を歩いた。
 今日も放課後の校舎はいろんな音が混ざり合っている。

 吹奏楽部のちょっと調子のはずれた音色を聞きながら、わたしはスマホを開く。
 いつものグループ名をタップしたら、昨日聞いた声を思い出した。

『返事のこない相手にずっと話しかけたりして……もうこんなの見てられないんだよ』

 わたしはぎゅっと唇を噛む。自分でもよくわからないもやもやした感情が、胸の奥からあふれそうになる。
 結局わたしはなにも打てないまま、スマホをポケットに突っ込んだ。

「もう……」

 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
 いつのまにか雨が降っていた。わたしはリュックのなかから折り畳みの傘を出す。

 この前制服を濡らして帰ったから、お母さんに毎日傘を持ち歩くよう言われちゃったんだ。
 折りたたみ傘はお母さんので、ちょっとダサい花柄だった。

 わたしはその傘をさし、ゆっくりと歩く。そして校門まで来て、足を止めた。

「碧人?」

 校門の外で、透明な傘をさして立っているのは碧人だった。
「……なにしてるの?」

 碧人はわたしを見て、ぼそっとつぶやく。

「夏瑚を待ってた」

 わたしは顔をしかめた。

「なんで? ほっといてって言ったのに」
「何度だって来るって言っただろ」

 違う学校の制服を着ている碧人のことを、校門から出てきた女子生徒たちが、ちらちら見ながら通り過ぎる。

「帰るぞ」

 碧人がくるっと傘を回し、わたしの家のほうへ歩きだす。わたしは仕方なく、ローファーを履いた足を動かす。
 碧人はちらっとわたしの足を見て、歩くペースを少し落とした。

 ダサい花柄の傘に雨が落ちる。ぽつぽつ、ぽつぽつ……わたしは傘のなかでその音を聞きながら、碧人の背中につぶやく。

「西高……行ってるの?」
「ああ」

 碧人は峯崎西高校の制服を着ていた。同じ市内の高校だけど、ここからはちょっと距離がある。

「どうやって来たの?」
「走ってきた」

 碧人が背中を向けたまま答える。

 は? 雨なのに? でも碧人のズボンの裾は、かなり濡れている。
 水たまりを蹴散らしながら走る、碧人の姿を想像した。

「家もそっちのほうなの?」

 わたしは碧人の引っ越し先を知らない。

「そうだよ」
「ここから……遠いじゃん」

 碧人が黙った。わたしの足が、ぱしゃっと水たまりを踏みつける。

「部活は? やってるの?」

 その言葉を伝えながら、胸がちょっと苦しくなった。

「やってるよ。陸上部」
「そうなんだ」

 碧人は陸上を続けていた。
 なんだかすごくホッとして、そのあと急に腹が立ってきた。
「じゃ、じゃあ、こんなところにいたらダメじゃん! 部活は?」
「今日は休み。雨だから」
「あ、そっか」

 でも碧人は昨日も、わたしのところに来た。授業中だったはずなのに。

 わたしは碧人の背中を見ながら、バス通りを歩く。
 このあたりまで来ると、碧人との思い出の場所が増えてくる。

 小学生のころ、ふたりで本を借りに行った図書館。
 お母さんにおつかいを頼まれて、碧人につきあってもらったスーパー。
 一緒に遊んだ公園。通った塾。小学校や中学校への通学路。

 わたしたちはいつも一緒だった。

 碧人の傘が止まる。気づけばもう、わたしの家の前まで来ていた。
 去年まで、碧人も暮らしていたマンションだ。

「碧人?」

 傘を少し揺らして、碧人の横顔を見る。
 碧人は雨に濡れるマンションを、黙って見上げていた。

 その顔はなんだか泣いているみたいに見えて……

「碧人」

 わたしが呼んだら、碧人はハッとしたように視線をおろして、わたしに言った。

「じゃあな」

 そして濡れた歩道を踏みつけるようにして、あっという間に去っていった。

「なんなの……」

 わたしは花柄の傘をさしたまま、その場に立ちつくす。
 車道を走る車の音と、傘を叩く雨の音が混じりあう。

「なんなのよ……もう……」

 なぜだか昨日聞いた、碧人の声がよみがえってきた。

『夏瑚にはもう、おれしかいないのに……』

 ローファーに雨水がじわじわと染みこんでいく。

 わたしにはもう……碧人しかいない……

 スマホを取りだし、グループトークの画面を見る。
 いくつも続くわたしのメッセージに、すべてついている既読1の文字。

 わたしはスマホの電源を切ると、曲がった足をひきずるようにして、マンションのなかに入っていった。
「……晴れた」

 保健室の窓から空を見上げる。三日間降りつづいていた雨が、放課後にはやみ、空が明るくなってきた。

「よかったねぇ、雨のなか歩くの嫌なんでしょ?」

 わたしの横に並んだ鴨ちゃん先生が、同じように空を見上げて言う。
 でもグラウンドはぐちゃぐちゃだ。これじゃきっと部活はできない。

「……だなぁ」
「へ?」

 わたしは鴨ちゃん先生の顔を見た。先生はパーマヘアを揺らして、子どもみたいにちょっと口をとがらせる。

「もう、水原さんってば。わたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「ごめーん。もう一度言って」

 甘えるように肩を押しつけすりすりすると、「まぁ、たいしたことじゃないけど」って笑ってから、先生が口を開いた。

「わたし、雨上がりの空って好きだなぁって言ったの」
「ああ……」
「薄暗い世界が少しずつ晴れ渡っていくのを見てると、元気がわくよね」

 わたしはうなずき、もう一度空を見上げる。

『わたし、雨は嫌いだけど、雨上がりの空はけっこう好き』

 そういえば、響ちゃんもそんなこと言ってたっけ。
 響ちゃんは、空の微妙な変化を感じとっては、しみじみと口にしていた。わたしは響ちゃんの豊かな感性に、憧れを抱いていたんだ。

「鴨ちゃん先生、わたしの友だちとおんなじこと言ってる」

 にかっと笑うわたしの前で、先生も目を細めた。

 雲がゆっくりと動き、わたしと鴨ちゃん先生の立つ窓辺に、金色の日差しが差し込んできた。
 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。水たまりを踏みつけながら歩き、校門を出たところで立ち止まった。
 透明なビニール傘を片手に持ち、もう片方の手でスマホを眺めていた碧人が顔を上げる。

 雨が降り続いた三日間、碧人は毎日放課後、ここに来た。
 呼んでもいないのに。高校も家も遠いのに。

 碧人はわたしの学校まで来て、一緒に家まで並んで歩き、そしてひとりで帰るんだ。
 「部活は?」って聞くと、いつも「今日は休み」って答える。

「雨……やんだよ?」

 わたしは碧人の前に立って言う。

「うん」
「部活は?」
「休み」

 碧人がつぶやいて、いつものようにゆっくりと歩きだす。わたしの家の方向へ。
 わたしは動きにくい足を無理やり速め、そんな碧人のとなりに並んだ。
「ねぇ、ほんとうに部活休みなの?」

 碧人の顔をのぞき込んで聞く。

「わたしちょっと調べたんだ。西高陸上部って、けっこう強いじゃん。雨降ったくらいで休んだりしないでしょ?」

 碧人はなにも答えない。わたしは前を向いて続ける。

「それにどんなにダッシュで来たって、西高からはかなりかかるよ。碧人、ちゃんと授業受けてるの? まさかここに来るためにサボってるんじゃ……」
「おまえに言われたくない」

 ぼそっと碧人がつぶやいた。わたしは思わず「はぁ?」と言って、再び碧人の顔をのぞき込む。

「おまえだって毎日、保健室で授業サボってるんだろ?」

 たしかにメッセージにそう書いた。

「ひとのこと、言えないじゃん」
「わ、わたしはいいの! でも碧人はダメ!」
「なんだよその理屈。意味わかんねーんだけど」

 ふてくされた顔の碧人がわたしに視線を合わせた。
 あれ、なんか久しぶりに目が合った気がする。三日間、毎日一緒に歩いていたのに。

 碧人はじっとわたしを見たあと、いきなり手をつかんできた。

「こっち来い」
「は?」

 青信号の横断歩道を渡る。碧人に手を引っ張られながら。

「な、なんなの?」
「おごってやるから」
「え?」

 わたしたちはいつのまにか、コンビニの前に立っていた。マンションの近くのコンビニだ。

「アイスおごってやるから……一緒に食べようぜ」

 わたしの顔を見ないまま、碧人がぼそっとつぶやいた。
 コンビニの脇にある駐輪場の隅っこで、碧人と並んでブロックに腰掛ける。よく塾の帰りに、碧人とこうやって寄り道した。

 碧人がソーダのアイスバーを袋から出し、シャクっとかじる。わたしもそのとなりで、同じようにアイスを食べる。
 アイスは碧人が選んで、おごってくれた。

 雨上がりの空は美しいオレンジ色に染まっていて、「好き」って言った、響ちゃんや鴨ちゃん先生の気持ちがわかる気がした。

「久しぶりに食った。これ」

 わたしのとなりで碧人がつぶやく。

「え、そうなの?」
「うん。おまえはしょっちゅう食ってたみたいだけど」

 わたしはアイスを舐めて、へらっと笑う。

「うん。そうだよ。だってこれ、おいしいじゃん。最初にいっせーが買ってきてさ、『ぜったいうまいから食ってみろ』って言って。そのうちみんな、はまっちゃったんだよね」

 一成の「ほらみろ」って自慢気な顔を思い出す。

「真夏の練習のあとのこれは、サイコーだった……」

 そこまで言って、わたしは黙った。となりに座る、碧人の横顔が見えちゃったから。
 碧人はアイスを食べながら、涙を流していた。

「……碧人」

 わたしがつぶやくと、碧人はあわてて目元をこすった。
 わたしはそれ以上なにも言わずに前を向く。

 ちょっと蒸し暑い風が吹いた。中学のころよりずいぶん伸びたわたしの髪が、さらっと揺れる。

 ずっとこのアイスを食べ続けていたわたし。
 ずっとこのアイスを食べられなかった碧人。
 だけどわたしたちが思い出す景色は、きっと同じだ。

 ソーダ味のアイスをシャクっとかじる。一成の底抜けに明るかった笑顔が浮かぶ。

「碧人……」

 にこっと笑って、碧人を見る。

「おいしいね?」

 碧人は洟をすすって、小さくうなずいた。