「なぁ、夏瑚」
「うん?」
「走る前にさ、ちょっとお願いがあるんだ」
「お願い?」

 わたしは首を傾げる。碧人は自分の髪を、くしゃっとつかんだ。

「聞いてくれたら、たぶんおれ、すごくがんばれそうな気がする」

 なんだろう。碧人のお願いって。
 いまからコンビニまで走って、アイス買ってこいとかじゃないよね?

「わたしにできることなの?」
「もちろん」

 わたしは少し考えてから答える。

「いいよ」

 わたしだって碧人に、気持ちよく走ってほしいから。
 すると碧人は、ベンチに座ったまま姿勢を正した。

「じゃ、じゃあさ、ちょっと目、つむっててくれない?」
「え、へんなことするんじゃないでしょうね? デコピンとか」
「するわけねーだろ。そんなん。小学生かよ」

 わたしはちょっと口をとがらせながら、碧人の言うとおり目を閉じる。
 するとわたしの背中に、ふわっと碧人の手が触れた。そしてそのまま、わたしの体が抱き寄せられる。

「え……」

 碧人に強く抱きしめられた。胸の鼓動が高まって、息をするのが苦しい。

 頭の上から降ってくるセミの声と、少しの汗の匂い。
 背中に触れた碧人の手が、震えているのがわかる。

「碧人……」

 わたしの手が、ゆっくりと動く。その手が碧人の背中に触れる寸前、熱い体がわたしから離れた。

「ありがとな」

 そっと目を開くと、わたしの前で笑っている碧人の顔が見えた。その頬が、真っ赤になっている。だけどたぶん、わたしの顔も赤いだろう。

「これできっと、がんばれる」
「あ、碧人……あの……」
「帰ろうか。ここ暑いし」

 碧人がすっと立ち上がり、わたしに言った。

「お礼にアイスおごるよ。シュワシュワのやつ」

 わたしは口を結んで、碧人の顔を見上げる。
 わたしを見下ろす碧人の向こうに、青い青い空の色が見えた。