五月も半ばを過ぎたころ、いつものように軽音部に顔を出したのだけれど、先輩の姿はなかった。一時間ほど待っても誰も現れず、夕日が窓を照らし出したころ、諦めて校舎を出た。
その次の日も、次の日も先輩は現れなくて。毎日ギターを聴いて、先輩と話をしていたのに、連絡先の一つも知らなかったことに愕然とした。宝物だと思っていた毎日は、何事もなかったようにひっそりと私の前から姿を消した。
連絡先くらい、訊いておけばよかった。ここに来れば毎日会えるから、必要ないって思ってた。考えてみたら、先輩も私の連絡先、訊いてこなかったな……。
近いと思っていた陽先輩との距離は、本当はずっと遠かったのかもしれない。勝手に近づいた気になって、勝手に一人でいい気になっていただけなのかもしれない……。
先輩がいるだろう三年生の教室を訊ねる勇気もなくて、私はただひっそりと静まり返っている軽音部の教室で、ひたすら先輩が現れるのを待っていた。
いつも歌っていた先輩の鼻歌を覚えてしまった私は、誰もいない軽音部の静かな教室で口ずさむ。先輩の声を思い出しながら口ずさんで泣きそうになる。
「どうして来ないんだろう……。陽……先輩」
溜息と共に漏らしたところへ、軋む音を立ててドアがスライドした。その音に耳ざとく反応し、座っていた椅子から立ち上がった。
「先輩っ」
「……えっとぉ。ごめん、わんこちゃん。陽じゃないんだ」
申し訳なさげに入ってきたのは、佐藤先輩だった。背中にベースを背負って、以前もあさっていた、シールドのある場所にしゃがみ込む。
「前に持っていったのも、あんまり接触がよくなくってね」
特に何か訊ねたわけでもなかったのだけれど、間を持たせるみたいに佐藤先輩がそう言いながら、絡まっているシールドを解いている。
「あの……」
「陽なら、来ないよ。俺たち、週末にライブやるんだよ。それで追い込みかかってて、スタジオに通い詰めててさ」
そうなんだ……。知らなかった。ライブのことも、スタジオ練習のことも。ペットの私には、話す必要もないってことかな……。
自虐的な思考に陥ると、佐藤先輩がスッと立ち上がった。
「やっと解けた」
シールドを手にすると、クルクルとまとめている。
「あのさ……、わんこちゃん。ライブ、観にくる……?」
僅かに躊躇いを見せるようにして誘う顔に、はっきりとしない不安が募り苦しくなる。胸の当りは、モヤモヤとしだす。
「行ってもいいと……思いますか?」
躊躇いながら訊ねると、佐藤先輩が眉根を下げた。
「難しい質問だね……。わんこちゃんはきっと賢い子だから、気がついているんじゃない?」
佐藤先輩に言われて、心臓がぎゅっと苦しくなる。頭の中を過ったのは、薄いピンクのルーズリーフと、ネコ派の言葉。
目を瞑ろうとしていたものが顔を出しそうになって、見ないように目を逸らす。
「私……、賢くなんて、ないです……」
「うん……。俺は何とも言えないけどね。でも、これ……一応渡しておく。俺からの招待ってことで」
佐藤先輩は、細長いチケットを私に差し出す。そのチケットをじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
「観に……行きます」
「そう。……強いね、わんこちゃん」
佐藤先輩の言葉にフルフルと首を振った。
強くなんかない。少しも強くなんかない。私はただ、先輩に逢いたいだけ。
週末にやって来た小さな町は、私なんかが場違いみたいで、古着やシルバーを身につけた人たちや、個性的なヘアスタイルや服装の人であふれていた。
ライブなんて行ったことないからどんな格好をすればいいのか解らなくって、春にパパが買ってくれた、とっておきのワンピースを着てきた。大好きなスカイブルーのワンピースは、緩く吹く湿気を含んだ風に裾を揺らす。
チケットの裏に描かれたライブハウスの入り口の先には、まるで深い洞窟の穴みたいな地下への階段があって、大人ぶって履いてきたサンダルのヒールがおぼつかない足取りにさせた。ぎこちなく階段を一段一段確かめるようにして下りていくと、真っ赤な髪の男の人と真っ青な髪の女の人が受付にいて、ビクビクしながらチケットを渡したら、チラシの塊と千切ったチケットの半券をくれた。
それを手にしてステージに入る重いドアを開けると、一気に音が飛び込んできた。音に驚いてその場で思わず肩を竦めて立っていると、早く入って、とそばに立っていた人に促されて、半ば強引に中へと押し込まれドアを閉められた。
一つ目のバンドが始まっていて、とっても騒がしくというか元気に音楽を奏でていた。それは、どこかで聴いたことのある曲で、ああコピーバンドなんだなってすぐに解った。
壁にある、今日の出演バンドが書かれたボードを見ると、全て高校生バンドらしく。殆どが誰かの曲をコピーしているものを披露するみたいだった。
「先輩たちのバンドはオリジナル曲って言ってたから、すごいってことだよね」
単純過ぎるかもしれないけれど、そんな風に考えて興奮した。受付で返されたチケットの半券を眺めると、ドリンクと引き換えることができると書かれていた。クルリと背後を振り向くと、ドリンクカウンターがあった。ここへ来るまで初めてのことだらけで緊張していて、とても喉が渇いていた。半券をオレンジジュースと交換してもらう。真ん中辺りに背の高い小さなテーブルが一つ空いていたので、そこにチラシを置いてオレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。半分ほどまで飲んでから、記念のチケットが手元に残らないことに気がついて、後ろにあるドリンクカウンターを焦ったように振り返ったけれど、飲んでいたオレンジジュースのカップを握りしめて溜息を洩らし諦めた。
目の前で奏でられている知らないバンドのよく知る音楽を聴きながら、渡されたチラシを眺め、中から先輩たちの物を探し出す。
数枚目で、すぐに先輩の姿が目に留まった。右の位置に鋭い瞳でギターを抱え、対称の位置には佐藤先輩がベースを抱えて得意気な顔をしていた。
真ん中の後ろにはスティックを持った知らない男性がいて、きっとドラマーなのだろうとわかった。
そうして、その三人の真ん中にいる人に、私の目は釘付けになる。穴が開くほどそのチラシを眺め曲のタイトルを何度も目で追い、そして写真も何度も見た。写真に写る先輩はかっこよくて、普段よりもずっと大人に見えて、みんなで映っているその写真を見ながらじんわりと涙が浮かぶ。
「痛い……」
心臓がズキズキする。
その理由を考えないように顔を上げ、左手で心臓の当りを押さえ、スカイブルーのワンピースに皴を作る。
演奏していたバンドの騒がしい音楽が二十分ほどで終わった。舞台からバンドがはけて、少しの間待を持たせるように音楽が流れてきた。照明も明るくなって、力なく持っていたチラシをテーブルに置く。そこに舞台セッティングをしに先輩たちが現れた。真ん中辺りに立つ私に気づくこともなく、陽先輩も佐藤先輩もドラムの人も黙々と楽器の準備をしている。ボーカルらしき人の姿は、まだない。
「陽……先輩」
自分でも気づかずもれた声は、ステージの繋ぎに流れている音楽に紛れて消える。
時間になり一度照明が落ちると流れていた音楽がスッと止み、ステージにパッと明かりが灯った。それと同時に現れたメンバーに息を飲んた。拍手が湧きおこる。スタンドマイクを握る細くしなやかな手。綺麗に塗られた少し派手なマニキュア。スリットの入ったタイトなスカートから伸びる白い足にはヒールの高いサンダル。マニキュアとお揃いのペディキュア。MCを始める柔らかな話声。緩くウエーブのかかった長い髪の毛を、頭の上でキュッと縛り上げているのは大人っぽくてかっこよくて、ネコみたいな大きな瞳は魅入られるほどに観客を惹きつけた。真っ白なリネンのシャツの襟元から覗く、なまめかしい鎖骨。曲名を言い、スタンドマイクを握る彼女と目配せする陽先輩。
何度もそうして見つめ合い、合図を送りあってきたのがよく解る二人の仕種に、スカイブルーの皴は深くなる。
聴いたことのある旋律。通い詰めた軽音部で何度も聴いた曲。先輩がギターで奏でてくれた曲。ボーカルの彼女を見つめながら、先輩がにこやかな表情でギターを弾く。
楽しそうに、愛しそうに、彼女を見つめる先輩。
ああ、彼女のためだったんだ。
ずっと練習していたあの曲も、新しく考えていたこの曲も。
全部、全部。彼女のために考え、頭を悩ませていたんだ。
わんこちゃんなんて言われて、気持ちよくなって。髪の毛に触れられてドキドキしちゃって。頭の上に置かれた先輩の大きな手を愛しく感じていた。
ベースの人が言ってたよね。わんこじゃなくって、ネコ派だろって。薄いピンクのルーズリーフは、彼女からだったんだね。意志の強そうな文字を描く彼女が、先輩の心を掴んでいたんだね。
何となく気づいていた。だけど、目の前で見て、やっと頭も心も理解した気がする。
そっか……こういうことだったんだ。そっか……。
しなやかな動きで、のびやかに響く声。
先輩とハモる声は心地よくて、俺よりうまいって言ってた意味も分かった。ここは、陽先輩とボーカルの彼女の舞台みたい。彼と彼女の舞台みたい。
できあがっている二人の空間。想いが行き交っていて、愛があって、互いを尊重していて。
敵わない。
叶わない……。
ほんのちょっとの隙間に入り込んじゃったペットのわんこは、隅の方で尻尾を丸めるしかない。何人もいるお客の真ん中でどんなに彼を見つめても、わんこの私はまぎれてしまって見えもしない。
ステージの幕が下りても動き出せなくてぼんやりと突っ立っていたら、楽器を片付けていた佐藤先輩が、立ち尽くす私に気がついた。
「あっ、わんこちゃん。来てくれてたんだ」
佐藤先輩の声に陽先輩も気がついた。ボーカルの彼女も気がついた。彼女にニコリと微笑まれたけれど、顔が歪んじゃってうまく笑みを返せない。陽先輩の顔は、少しだけ複雑に歪んでいて。私をライブに誘わなかったのも、ライブがあること自体を知らせなかったのも、私がここへ来ることを望んでいなかったからなんだってわかった。
私がいていいのは、あの誰も来ない軽音部の教室だけ。先輩が一夏って呼んでもボーカルの彼女には聞かれない、あの校舎のずっと端にある静かな隠れ家みたいな軽音部の教室だけ。
「彼女がわんこちゃん? 可愛い子」
ほんの少しの嫌味もなくて。寧ろ素敵な笑顔で、素敵な声でボーカルの彼女が私に笑いかける。素敵すぎるそのネコのようなしなやかさで、来てくれてありがとうって笑顔をくれる。
雑種で太郎の私は、血統書付きのネコみたいな彼女の前にいることが居たたまれなくて、クルリと背を向けた。それでもテーブルに置いていたチラシを手にしたのは未練? 情けない。
洞窟のような階段を駆け上がる。お気に入りのスカイブルーは、夜の色に染まるように少しだけ濃い青に染まる。彼女が履いていたサンダルよりもずっと低いヒールが足に痛みをくれる。
痛い、痛い……、すごく痛い。
足が痛いのか、心が痛いのか。
息を切らせて夜空を見上げていたら「いちかっ」て呼ばれて振り向いちゃった。
最初で最後になるかもしれない先輩からの呼び声。一夏。そう呼ばれる毎日が嬉しかった。わんこちゃんって呼ばれて、髪の毛をクシャってされるのも大好きだった。ギターを教えてくれる先輩の手が私の手に重なる瞬間に胸を熱くしていた。この手で抱き締めて欲しいって、夢を見ていた。
「素敵なボーカルさんですね」
息を切らせて来てくれた先輩に、精一杯の強がりをみせる。
「佐藤先輩が言ってた意味が……解っちゃいました」
わんこは、雑種で家族みたいなもので。でも、ネコの彼女は、とても大事にしたい愛しい人。
「ごめんな……。俺、一夏のことホント可愛くて。一夏の気持ちに気づいても、離れらんなくて……」
「いいんです。解ってます。先輩との時間、楽しかったです。わんこの私はとっても楽しかったんです。いっぱい尻尾振っちゃって、嬉しかったんです」
涙が滲む。先輩の顔が少しずつ歪む。
お願い、しっかり見せて。
涙なんて、要らない。
「……一夏」
「バイバイ……。陽先輩」
雑種の太郎に負けないくらい、先輩に尻尾を振って、大きく手を振って、私は潔く背を向けた。
踵を返した瞬間に涙が零れて、スカイブルーには濃い水玉ができる。恋を知った私は、苦しく鳴る胸を抱えて、先輩の写るチラシを握りしめて、優しいギターの音色を思い出す。大好きだった二人の時間を思い出す。
幸せだった、宝物の時間。
皴を伸ばしたチラシを、再びノートに挟んでパタリと閉じる。
「由香ちゃん。私、昨日、失恋した」
「え?」
由香ちゃんが驚いて、目を大きくしている。その顔に向かって、まるで念押しするみたいにもう一度言った。
「昨日、私は失恋したのです」
由香ちゃんは、何が何やらわからず、ほんの数秒固まっていたかと思うと、急に大きな声を上げた。
「あ……。アオハルかっ!」
失恋した悲しみを吹き飛ばすみたいに由香ちゃんが声を上げると、教室のみんなが何事かとこっちに注目するから、それがなんだか可笑しくなって声を上げて笑った。
クスクス。ケタケタ。ケラケラ。
笑いながら涙が零れちゃって、それでも私はやっぱり尻尾をフリフリ。わんこみたいに由香ちゃんの腕に絡みついて、笑いながら涙を流して、尻尾を大きくブンブン振るんだ。
窓からは、梅雨の気配なんてこれっぽっちも感じさせないくらいの陽の光が注いでいた。
ふわりと吹いた風が、教室のカーテンを揺らす。
窓から入り込んできた風が、私の髪の毛をサラリと撫でる。
「先輩の指先には、敵わないなぁ……」
思い出すだけで胸が苦しい。
痛くて、苦しくて、愛おしい。
昨日、私は失恋した――――。
その次の日も、次の日も先輩は現れなくて。毎日ギターを聴いて、先輩と話をしていたのに、連絡先の一つも知らなかったことに愕然とした。宝物だと思っていた毎日は、何事もなかったようにひっそりと私の前から姿を消した。
連絡先くらい、訊いておけばよかった。ここに来れば毎日会えるから、必要ないって思ってた。考えてみたら、先輩も私の連絡先、訊いてこなかったな……。
近いと思っていた陽先輩との距離は、本当はずっと遠かったのかもしれない。勝手に近づいた気になって、勝手に一人でいい気になっていただけなのかもしれない……。
先輩がいるだろう三年生の教室を訊ねる勇気もなくて、私はただひっそりと静まり返っている軽音部の教室で、ひたすら先輩が現れるのを待っていた。
いつも歌っていた先輩の鼻歌を覚えてしまった私は、誰もいない軽音部の静かな教室で口ずさむ。先輩の声を思い出しながら口ずさんで泣きそうになる。
「どうして来ないんだろう……。陽……先輩」
溜息と共に漏らしたところへ、軋む音を立ててドアがスライドした。その音に耳ざとく反応し、座っていた椅子から立ち上がった。
「先輩っ」
「……えっとぉ。ごめん、わんこちゃん。陽じゃないんだ」
申し訳なさげに入ってきたのは、佐藤先輩だった。背中にベースを背負って、以前もあさっていた、シールドのある場所にしゃがみ込む。
「前に持っていったのも、あんまり接触がよくなくってね」
特に何か訊ねたわけでもなかったのだけれど、間を持たせるみたいに佐藤先輩がそう言いながら、絡まっているシールドを解いている。
「あの……」
「陽なら、来ないよ。俺たち、週末にライブやるんだよ。それで追い込みかかってて、スタジオに通い詰めててさ」
そうなんだ……。知らなかった。ライブのことも、スタジオ練習のことも。ペットの私には、話す必要もないってことかな……。
自虐的な思考に陥ると、佐藤先輩がスッと立ち上がった。
「やっと解けた」
シールドを手にすると、クルクルとまとめている。
「あのさ……、わんこちゃん。ライブ、観にくる……?」
僅かに躊躇いを見せるようにして誘う顔に、はっきりとしない不安が募り苦しくなる。胸の当りは、モヤモヤとしだす。
「行ってもいいと……思いますか?」
躊躇いながら訊ねると、佐藤先輩が眉根を下げた。
「難しい質問だね……。わんこちゃんはきっと賢い子だから、気がついているんじゃない?」
佐藤先輩に言われて、心臓がぎゅっと苦しくなる。頭の中を過ったのは、薄いピンクのルーズリーフと、ネコ派の言葉。
目を瞑ろうとしていたものが顔を出しそうになって、見ないように目を逸らす。
「私……、賢くなんて、ないです……」
「うん……。俺は何とも言えないけどね。でも、これ……一応渡しておく。俺からの招待ってことで」
佐藤先輩は、細長いチケットを私に差し出す。そのチケットをじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
「観に……行きます」
「そう。……強いね、わんこちゃん」
佐藤先輩の言葉にフルフルと首を振った。
強くなんかない。少しも強くなんかない。私はただ、先輩に逢いたいだけ。
週末にやって来た小さな町は、私なんかが場違いみたいで、古着やシルバーを身につけた人たちや、個性的なヘアスタイルや服装の人であふれていた。
ライブなんて行ったことないからどんな格好をすればいいのか解らなくって、春にパパが買ってくれた、とっておきのワンピースを着てきた。大好きなスカイブルーのワンピースは、緩く吹く湿気を含んだ風に裾を揺らす。
チケットの裏に描かれたライブハウスの入り口の先には、まるで深い洞窟の穴みたいな地下への階段があって、大人ぶって履いてきたサンダルのヒールがおぼつかない足取りにさせた。ぎこちなく階段を一段一段確かめるようにして下りていくと、真っ赤な髪の男の人と真っ青な髪の女の人が受付にいて、ビクビクしながらチケットを渡したら、チラシの塊と千切ったチケットの半券をくれた。
それを手にしてステージに入る重いドアを開けると、一気に音が飛び込んできた。音に驚いてその場で思わず肩を竦めて立っていると、早く入って、とそばに立っていた人に促されて、半ば強引に中へと押し込まれドアを閉められた。
一つ目のバンドが始まっていて、とっても騒がしくというか元気に音楽を奏でていた。それは、どこかで聴いたことのある曲で、ああコピーバンドなんだなってすぐに解った。
壁にある、今日の出演バンドが書かれたボードを見ると、全て高校生バンドらしく。殆どが誰かの曲をコピーしているものを披露するみたいだった。
「先輩たちのバンドはオリジナル曲って言ってたから、すごいってことだよね」
単純過ぎるかもしれないけれど、そんな風に考えて興奮した。受付で返されたチケットの半券を眺めると、ドリンクと引き換えることができると書かれていた。クルリと背後を振り向くと、ドリンクカウンターがあった。ここへ来るまで初めてのことだらけで緊張していて、とても喉が渇いていた。半券をオレンジジュースと交換してもらう。真ん中辺りに背の高い小さなテーブルが一つ空いていたので、そこにチラシを置いてオレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。半分ほどまで飲んでから、記念のチケットが手元に残らないことに気がついて、後ろにあるドリンクカウンターを焦ったように振り返ったけれど、飲んでいたオレンジジュースのカップを握りしめて溜息を洩らし諦めた。
目の前で奏でられている知らないバンドのよく知る音楽を聴きながら、渡されたチラシを眺め、中から先輩たちの物を探し出す。
数枚目で、すぐに先輩の姿が目に留まった。右の位置に鋭い瞳でギターを抱え、対称の位置には佐藤先輩がベースを抱えて得意気な顔をしていた。
真ん中の後ろにはスティックを持った知らない男性がいて、きっとドラマーなのだろうとわかった。
そうして、その三人の真ん中にいる人に、私の目は釘付けになる。穴が開くほどそのチラシを眺め曲のタイトルを何度も目で追い、そして写真も何度も見た。写真に写る先輩はかっこよくて、普段よりもずっと大人に見えて、みんなで映っているその写真を見ながらじんわりと涙が浮かぶ。
「痛い……」
心臓がズキズキする。
その理由を考えないように顔を上げ、左手で心臓の当りを押さえ、スカイブルーのワンピースに皴を作る。
演奏していたバンドの騒がしい音楽が二十分ほどで終わった。舞台からバンドがはけて、少しの間待を持たせるように音楽が流れてきた。照明も明るくなって、力なく持っていたチラシをテーブルに置く。そこに舞台セッティングをしに先輩たちが現れた。真ん中辺りに立つ私に気づくこともなく、陽先輩も佐藤先輩もドラムの人も黙々と楽器の準備をしている。ボーカルらしき人の姿は、まだない。
「陽……先輩」
自分でも気づかずもれた声は、ステージの繋ぎに流れている音楽に紛れて消える。
時間になり一度照明が落ちると流れていた音楽がスッと止み、ステージにパッと明かりが灯った。それと同時に現れたメンバーに息を飲んた。拍手が湧きおこる。スタンドマイクを握る細くしなやかな手。綺麗に塗られた少し派手なマニキュア。スリットの入ったタイトなスカートから伸びる白い足にはヒールの高いサンダル。マニキュアとお揃いのペディキュア。MCを始める柔らかな話声。緩くウエーブのかかった長い髪の毛を、頭の上でキュッと縛り上げているのは大人っぽくてかっこよくて、ネコみたいな大きな瞳は魅入られるほどに観客を惹きつけた。真っ白なリネンのシャツの襟元から覗く、なまめかしい鎖骨。曲名を言い、スタンドマイクを握る彼女と目配せする陽先輩。
何度もそうして見つめ合い、合図を送りあってきたのがよく解る二人の仕種に、スカイブルーの皴は深くなる。
聴いたことのある旋律。通い詰めた軽音部で何度も聴いた曲。先輩がギターで奏でてくれた曲。ボーカルの彼女を見つめながら、先輩がにこやかな表情でギターを弾く。
楽しそうに、愛しそうに、彼女を見つめる先輩。
ああ、彼女のためだったんだ。
ずっと練習していたあの曲も、新しく考えていたこの曲も。
全部、全部。彼女のために考え、頭を悩ませていたんだ。
わんこちゃんなんて言われて、気持ちよくなって。髪の毛に触れられてドキドキしちゃって。頭の上に置かれた先輩の大きな手を愛しく感じていた。
ベースの人が言ってたよね。わんこじゃなくって、ネコ派だろって。薄いピンクのルーズリーフは、彼女からだったんだね。意志の強そうな文字を描く彼女が、先輩の心を掴んでいたんだね。
何となく気づいていた。だけど、目の前で見て、やっと頭も心も理解した気がする。
そっか……こういうことだったんだ。そっか……。
しなやかな動きで、のびやかに響く声。
先輩とハモる声は心地よくて、俺よりうまいって言ってた意味も分かった。ここは、陽先輩とボーカルの彼女の舞台みたい。彼と彼女の舞台みたい。
できあがっている二人の空間。想いが行き交っていて、愛があって、互いを尊重していて。
敵わない。
叶わない……。
ほんのちょっとの隙間に入り込んじゃったペットのわんこは、隅の方で尻尾を丸めるしかない。何人もいるお客の真ん中でどんなに彼を見つめても、わんこの私はまぎれてしまって見えもしない。
ステージの幕が下りても動き出せなくてぼんやりと突っ立っていたら、楽器を片付けていた佐藤先輩が、立ち尽くす私に気がついた。
「あっ、わんこちゃん。来てくれてたんだ」
佐藤先輩の声に陽先輩も気がついた。ボーカルの彼女も気がついた。彼女にニコリと微笑まれたけれど、顔が歪んじゃってうまく笑みを返せない。陽先輩の顔は、少しだけ複雑に歪んでいて。私をライブに誘わなかったのも、ライブがあること自体を知らせなかったのも、私がここへ来ることを望んでいなかったからなんだってわかった。
私がいていいのは、あの誰も来ない軽音部の教室だけ。先輩が一夏って呼んでもボーカルの彼女には聞かれない、あの校舎のずっと端にある静かな隠れ家みたいな軽音部の教室だけ。
「彼女がわんこちゃん? 可愛い子」
ほんの少しの嫌味もなくて。寧ろ素敵な笑顔で、素敵な声でボーカルの彼女が私に笑いかける。素敵すぎるそのネコのようなしなやかさで、来てくれてありがとうって笑顔をくれる。
雑種で太郎の私は、血統書付きのネコみたいな彼女の前にいることが居たたまれなくて、クルリと背を向けた。それでもテーブルに置いていたチラシを手にしたのは未練? 情けない。
洞窟のような階段を駆け上がる。お気に入りのスカイブルーは、夜の色に染まるように少しだけ濃い青に染まる。彼女が履いていたサンダルよりもずっと低いヒールが足に痛みをくれる。
痛い、痛い……、すごく痛い。
足が痛いのか、心が痛いのか。
息を切らせて夜空を見上げていたら「いちかっ」て呼ばれて振り向いちゃった。
最初で最後になるかもしれない先輩からの呼び声。一夏。そう呼ばれる毎日が嬉しかった。わんこちゃんって呼ばれて、髪の毛をクシャってされるのも大好きだった。ギターを教えてくれる先輩の手が私の手に重なる瞬間に胸を熱くしていた。この手で抱き締めて欲しいって、夢を見ていた。
「素敵なボーカルさんですね」
息を切らせて来てくれた先輩に、精一杯の強がりをみせる。
「佐藤先輩が言ってた意味が……解っちゃいました」
わんこは、雑種で家族みたいなもので。でも、ネコの彼女は、とても大事にしたい愛しい人。
「ごめんな……。俺、一夏のことホント可愛くて。一夏の気持ちに気づいても、離れらんなくて……」
「いいんです。解ってます。先輩との時間、楽しかったです。わんこの私はとっても楽しかったんです。いっぱい尻尾振っちゃって、嬉しかったんです」
涙が滲む。先輩の顔が少しずつ歪む。
お願い、しっかり見せて。
涙なんて、要らない。
「……一夏」
「バイバイ……。陽先輩」
雑種の太郎に負けないくらい、先輩に尻尾を振って、大きく手を振って、私は潔く背を向けた。
踵を返した瞬間に涙が零れて、スカイブルーには濃い水玉ができる。恋を知った私は、苦しく鳴る胸を抱えて、先輩の写るチラシを握りしめて、優しいギターの音色を思い出す。大好きだった二人の時間を思い出す。
幸せだった、宝物の時間。
皴を伸ばしたチラシを、再びノートに挟んでパタリと閉じる。
「由香ちゃん。私、昨日、失恋した」
「え?」
由香ちゃんが驚いて、目を大きくしている。その顔に向かって、まるで念押しするみたいにもう一度言った。
「昨日、私は失恋したのです」
由香ちゃんは、何が何やらわからず、ほんの数秒固まっていたかと思うと、急に大きな声を上げた。
「あ……。アオハルかっ!」
失恋した悲しみを吹き飛ばすみたいに由香ちゃんが声を上げると、教室のみんなが何事かとこっちに注目するから、それがなんだか可笑しくなって声を上げて笑った。
クスクス。ケタケタ。ケラケラ。
笑いながら涙が零れちゃって、それでも私はやっぱり尻尾をフリフリ。わんこみたいに由香ちゃんの腕に絡みついて、笑いながら涙を流して、尻尾を大きくブンブン振るんだ。
窓からは、梅雨の気配なんてこれっぽっちも感じさせないくらいの陽の光が注いでいた。
ふわりと吹いた風が、教室のカーテンを揺らす。
窓から入り込んできた風が、私の髪の毛をサラリと撫でる。
「先輩の指先には、敵わないなぁ……」
思い出すだけで胸が苦しい。
痛くて、苦しくて、愛おしい。
昨日、私は失恋した――――。