消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

 器具を運ぶ母が、目を丸くして僕を見ている。その横を通過して、真正面にある院長室へ向かう。
 それはダメだ。声を上げるより早く、綺原さんのこぶしがドアをノックしていた。

 ここへ足を踏み入れたのは、小学生以来だろうか。
 ツンと鼻を刺激する薬品の匂い。白衣姿の父が、遠い記憶と重なって懐かしく感じた。

「誰だ、君たちは。診療中になんの用だ」

 院長の椅子に深く腰を下ろしながら、パソコンに何か打ち込んでいる。視線は手元のカルテにあって、こちらを見ようとしない。
 心臓が尋常じゃないほど音を立てて、何が起こっているのか、正直自分自身も理解出来ていなかった。

「梵さんのクラスメイトの綺原と言います」
「あっ、苗木です」

 軽く頭を下げた二人は、構わず仕事を続ける父へもう一歩近づく。

「来週のゆめみ祭へ来て頂きたくて、案内を持って来ました」

 積まれたカルテの隣に、綺原さんがゆめみ祭のチラシを置いた。ミニコンサートと書かれた横に、日時とピアノの絵、さらに僕の名前が記されている。

「直江、学校でもすごいんですよ! ピアノも出来るなんて知らなくて、それも大トリ……」
「ろくに弾きもしていない梵が、ピアノ演奏? 馬鹿馬鹿しい。そんなことを言うために、わざわざ仕事の邪魔をしに来たのかね」

 苗木に被せた父が、ため息を吐く。君たちの頭には、常識と言う言葉がないのかと。

「ご迷惑なのは承知の上です。こうでもしないと、耳を貸して頂けないと思ったので」

 綺原さんの声に、父はふんとした態度をする。

「梵さんは、ゆめみ祭を成功させるため毎日練習しています。どうか」
「……ここは、患者様の苦しみを和らげる場所なんだ。ましてや院長室には、個人情報もたくさんおいてある。関係のない人間は出て行ってくれ」

 あまりにも冷淡で一方的な口調に、思わず体が前へ出た。

「……父さん!」
「帰ってくれ。君たちと話すことは何もない。それから二度と梵に関わらないで頂きたい。非常識な人間と連んでいても、梵のためにならん」

 堪えていた何かが、僕の中でプツンと切れた。それは細い糸のようで、太い綱のようにも感じられる。

「……父さん、今のは訂正して下さい」