消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

 上履きの中に隠しておいたスペアキーを使って、音楽室を開けた。
 泥棒にでもなったようで罪悪感が込み上げてくるけど、綺原さんは相変わらず平然としている。

「私たち、今とっても不良生徒ね」
「やっぱり面白がってる」

 ピアノの前に立つ綺原さんが、人差し指で音を鳴らした。胸の奥から、うずうずとした気分が沸き立つ。
 鍵盤に指を置けば、静かな空間がたちまち優しい音に包まれる。さっきまでの不安は消えていた。ピアノを弾ける喜びと、あの言葉のせいかもしれない。

 ──とっても不良生徒ね。
 今日この時間だけは、優等生の直江梵でなくていいんだ。

 ゆめみ祭まであと二週間。毎日、僕らは夜の校舎へ忍び込んでピアノを弾いた。よく学校の警備があるなど聞くけれど、うちはまだそこまで厳しくないらしい。
 家庭科室の窓から出入りする分には、見つかることはなかった。一週間を過ぎた頃には、まるで忍者にでもなったようでスムーズに侵入出来た。

 ベートーベンやバッハの視線を感じながら、鍵盤の上を滑るように指を動かす。なめらかなアイスクリームに乗っているイメージで、優しく時には力強く。

「菫先生とは、まだ逢い引きしてるのかしら?」

 隣に座る綺原さんが、躊躇なく口を開いた。

「誤解を招く言い方しないでくれる? 日南先生とはそんなんじゃないから」

 構わず指を動かしながら、僕は楽譜をめくる。

「あら、だって初恋の相手だったんでしょう? 夢の中で恋した人がすぐ近くにいたなんて、ロマンチックによく出来た物語ですこと」

 しとやかに笑みを浮かべながら、彼女は甘ったるそうなミルクティーをごくりと飲む。

 夢の世界が崩壊して、それ以降は見なくなったこと。夢で会っていた少女が、高校時代の日南先生であったことを綺原さんに話した。
 初めは少し驚いた様子だったけど、彼女がその話を食い入るように聞くことはなく、いつも通りの落ち着いた印象に映っていた。