消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

「私も覚えてるわ。ずっと、もう一度会いたいと思ってたから」

 見つめ合っていた視線を()らす。日南先生が蓬だったと分かったからなのか、妙に意識してしまう。
 そっぽを向いている顔が柔らかな指に挟まれて、ぐいっと正面へ回された。

「こっち見て。ずっと、言いたかったことがあるの」

 このままキスでもされそうな体勢に、思わず体が仰反(のけぞ)る。
 待ってくれ、心の準備が!

「ほんとにありがとう」
「……はい?」

 気の抜けた声が出た。言われた理由は分かるけど、甘い展開を期待してしまったばかりに、その妄想とのギャップに拍子抜けする。
 一分前の自分を殴ってやりたい。

「それと、もうひとつ。梵くん、ほんとにピアノの道は諦めちゃっていいの?」

 緩やかだった眉が凛々しくなる。確認したかったことは、やっぱりそのことだったんだ。

「今更、ピアノの道に進むなんて……」

 出来ない。そう思った瞬間、脳裏に響く声。
『君のピアノは世界一だから。好きなことを辞めないで』
 遠い記憶に流れてくる声は、一体誰だろう。覚えているような、思い出せないような。ぼんやりとした人影が浮かんでいる。

 母と肩を並べてドレミファソを教わった幼少期から始まり、泣きながら練習した時や発表会で賞をもらった時。いくつもの映像が頭の中を駆け巡っていく。
 一人で寂しさを紛らわすために弾いていた時。
 それから、蓬と演奏する僕はとても伸びやかで繊細な音色を出していたことを思い出して、胸が熱くなった。

 思い返せば心のどこかに、『世界一』という根拠のない文字があったから、僕は好きを続けられた気がする。