消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

「梵くん! 絶対、ピアノ辞めちゃダメだよ!」

 かかとを向けている少年の足が止まった。控えめに振り返る瞳には、薄っすらと水の玉が浮かんでいる。

「君のピアノは世界一だから。大きくなったら、もう一度聞かせて欲しいの。だから、好きなことを辞めないで」

 小さく頷く少年の顔には、初めて見る笑顔が咲いていた。
 その時、心に誓ったの。いつか教師になる夢を叶えて、彼のような生徒たちの力になりたいと。

 それから六年後、私は高校生になった彼と再会した。初めて見た瞬間、心臓が震えた。夢で会っていた時の容姿は、もうほとんど色褪せてしまっていたけど、ひと目見て分かった。
 綺麗な黒髪、垂直に下りた長い睫毛(まつげ)。シャープな印象の輪郭と小さな口。彼が直江梵だと。

 古い記憶のアルバムを取り出して来たみたいに、モノクロだった映像が鮮やかに色付いていく。

 でも、まだ彼は私を知らない。記憶を失くした旧友に会ったような、あるいはずっと会いたいと想いを寄せていた人に会えたような。とにかく、胸の中は不思議な感情であふれていた。

 彼らが三年生になり担任を受け持った時、全てを悟った気がした。ついにその時が来てしまうのだと。

 だから八月二十一日が訪れるまで、彼の生きる時間に私がいて欲しいと思った。