消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

「知ってるよ。私の知ってる梵くんは、体の一部みたいにピアノを自由自在に操ってた。すごかったんだから、高校生の君」
「……何言ってるの?」
「ふふっ、私の独り言だと思って」

 こうして話していることに、まだ実感が湧かない。たしかに彼だと言えるのに、何も覚えていない姿を目の当たりにして少し残念に思う。
 様々な感情が湧き出て来て心は忙しいけど、素直に嬉しい。

「将来は、ピアニストかピアノの先生になったりするの?」
「好きだけでは、どうにもならないこともあるんだ」

 身に覚えがあり過ぎる台詞は、私の心臓を揺さぶり深く突き刺す。
 時折見せる曇った表情を浮かべながら、少年は人差し指を彼方へ向ける。そのまま私の視線も流れるように動く。
 示す先に見えていたのは、『なおえ歯科・口腔外科』という看板。まさか、と思った。

「僕の未来は最初から決まってる。親も、おじさんやおばさん、近所の人までもが口を揃えて言うんだ。〝将来は立派な歯医者さん〟だねって」
「そんな……まだ小学生なのに」
「あそこは、おじいちゃんが始めた歯医者なんだ。だから、子どもの頃からお父さんの将来も決まってたってわけ。僕だけピアノをするなんて、出来っこないんだ」

「そんなこと関係ないよ」という無責任な言葉が(のど)の寸前まで上がってくる。
 でも、何も言ってあげられなかった。(なげ)きにも似た小さな声に、寄り添ってあげることが出来なかった。余計に彼を苦しめてしまう気がして。

「もう帰る」と言って、少年は去ろうとする。
 こんなはずではなかった。もっと夢のある話をしようと思っていたの。
「君とは夢の中で出会ったんだよ」「高校生になった君は(たくま)しくて、優しくてかっこいいよ」そう教えてあげたかった。

 だけど、今の私では梵くんを笑顔にしてあげられないから。これだけは伝えておきたい。
 息を大きく吸って、まだ小さな背中に呼びかける。