消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

「何してるの?」

 気配のなかった背後から、鈴の音が鳴った。
 兎のような目をした蓬が、少しずつこちらへ近付いて来る。

「蓬、これは……」
「先生に何言ったの? 余計なこと、しないでよ」

 頭の中が真っ白になった。数分前は切なそうに涙を流していた彼女が、眉を吊り上げて唇をへの字に下げている。
 今、瞳が潤んでいる原因は僕だ。

「そういう事だから、俺たちの邪魔しないでくれるかな。生徒会長くん?」

 鼻で笑うような態度で僕の肩へ手を置く。眼鏡越しに見える流し目は、悔しいけど大人の色気を感じた。それも彼女が惹かれる理由のひとつなのだろうか。
 皆川が去った化学準備室には、張り詰めた空気が漂い続けていた。立ち尽くす蓬の呼吸だけが小さく聞こえて。

「もし、先生に、嫌われたら、どうしてくれるの?」

 つぶやくような言葉は時折(ときおり)詰まって、冷静さを取り戻したとは思えない。

「蓬は……不倫、してるんだよ? 自分が何をしてるか、分かってるよね?」
「それでも良いの」
「そんな関係、幸せになれるはずない」
「この気持ち、梵くんには分からないよ。私がどう生きてきたかなんて何も知らないくせに。もう放っておいて」

 涙まみれの顔で、僕の横を過ぎ去って行った。遠退いていく足音が耳に響いている。
 言うつもりなんてなかった。
 ずっと、笑っていて欲しかっただけなんだ。だけど僕のした事は、蓬にとって正義ではなかった。