元から眠気はなかったけど、一気に目が覚めて体が勝手に飛び起きた。
 あまりに勢いがすぎたのか、何にも動じない母の表情が少しだけ強張ったのが分かる。

「品を身に付けるために始めたものだから、もう必要ないでしょう。よく頑張って続けて来たわ」
「ピアノは、唯一の……」
「歯科医師に必要なのは技術と能力。それと患者さまに寄り添う心」

 言いかける語尾に被せて、母は決まり文句のようにとどめを刺す。

「梵なら大丈夫よ。信じてるから、頑張って」

 いつも母は、口癖のように〝信じている〟と言う。期待を向けられたその台詞は魔法のように成績を上げたけど、同時に解けない呪いで徐々に僕を縛り付けていった。

 母の中で父は絶対的存在で、僕の意見はないに等しい。応援すると笑顔を見せながら、両親の敷いたレールを走る選択肢しか与えられなかった。

「勉強は(おろそ)かにならないようにするから、ピアノは続けたいんだ」

 幼少期に抱いていたように、ただ寄り添って話を聞いて欲しいだけなんだ。

「もう無理しなくていいのよ。少し時間に余裕を作った方がいいわ。書道も辞めて、勉強に専念出来るようにしましょう」

 ピアノを優しく奏でているようで、母は鍵盤(けんばん)をひとつずつ圧し折っていく。音のでなくなった僕の心は、それ以上何も言えなかった。