離れなくてはと頭では考えながら、抱き締めている腕はよりキツくなっていく。震える手を隠すかのように。

「……誰でも良いんです。傍にいてくれるなら、誰でも。それなら、いいですか?」

 ──嘘だ。
 本当は、日南先生と蓬の後ろ姿が重なって見えた。どこへも行って欲しくなかった。
 鼻を(すす)るような音が聞こえて、ふっと腕の力が緩んだ。
 泣いてる? 雨漏りを受けるバケツのように、僕の手にポタポタと冷たい雫が落ちてくる。

「大人は勝手。きれいごとばかり言って、簡単に大切な人を傷付ける。考えてるふりして、結局は自分の思い通りにしたいの」

 涙を指で拭いながら、引き止める力を失くした僕の腕から、そっと体を離した。少し充血した目は、真っ直ぐに僕を(とら)えている。

「でも、そんな大人だからこそ向き合って欲しい。ちゃんと思いをぶつけて、話せば通じ合える心もある。手遅れになる前に。昔の私が、そうだったから」

 何も言えなかった。(うさぎ)のような眼と表面張力で保たれている涙が、日南先生の過去を物語っていたから。

 午後九時四十分。ベッドに横たわり眠れない目を閉じていると、聞こえてくる階段を上がるスリッパの音。
 開けられたドアからしばらくして、耳元で足音は消えた。目の前に母が立っていると知りながら、瞼は下がったままだ。

「梵、大丈夫? 今日は迎えに行ってあげられなくてごめんなさいね」

 想像以上の優しい口調は、薄っすらと目を開ける僕に続けて話す。

「疲労だそうね。少し無理をさせ過ぎたのなら謝ります。だから、もうピアノは辞めましょう」
「ピアノを──⁈」