高校二年の時に転任して来た日南(ひなみ)先生は、美術教師であるため授業を選択していない僕は接点がなかった。だから、担任になった時、どんな人なのかよく知らなかった。

 思い出すのは、三年に進級したばかりの四月。嫌味なくらい空気が気持ち良かった天色(あまいろ)の空の下。胸あたりの高さまであるフェンスに、腰を下ろしているところ。

「直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?」

 恋愛映画のプロポーズみたいな台詞を浴びせられて、僕の思考は数秒停止した。
 笑ってスルーしたけれど、日南先生の表情は至って真面目で、頭のネジが取れているとしか思えなかった。
 生徒相手に、この教師は何を言っているのだと。

 放課後、生徒指導室へ呼び出されたこともあった。
 普段と変わらない穏やかな表情で、日南先生が差し出したのは進路調査の紙。記入するのを忘れたのかと、真っ先に希望欄へ視線を落とした。

 違う、ちゃんと書いてある。
 今にも浮き出しそうな〝四乃森(しのもり)歯科大学〟という文字が、第一志望の横に礼儀正しく並んでいる。

「直江くんは、将来歯科医師になるのが夢なのね」
「夢、というのか分からないけど、そのつもりです。もう、小学生の頃から、ずっと」
「そう、凄い意思ね。先生なんて、高校生になっても将来のこと迷っていたのに」
「悩む選択肢は、なかったです」

 一番古い歯科医院での記憶は、小学三年生。消毒液や薬品の独特な匂いに緊張しながら、ただひたすらに口を開け続けた。
 手には汗と拳を強く握り締め、目を固く閉じていたから、治療中は目の前にどんな光景が広がっていたのかは分からない。

 でも、終わった瞬間に飛び込んで来た父の笑顔は、一生忘れないと思う。
 あの時、気付いたんだ。恐怖と忍耐から解放されたあとに残るのは〝無〟なのだと。