消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

「どうやって、入ったの? 家には鍵がしてあったはずだよ」

 自宅にはセキュリティシステムが導入されていて、二重ロックになっている。訪問者が敷地の中に入るにも、中からの承認がいる。
 彼女が警報も鳴らさずピアノルームへ入ることなど不可能だ。

「そんなの簡単なことだよ。私は初めからここにいた。今、ここに立ったの。だって、これは夢だもの」

「夢じゃないよ。ほら、ちゃんと触れる」と、彼女の右腕を掴む。つるんとした茹で卵のような肌だと明確に分かった。

「あったかい手だね」
「君の手も、温かいよ」

 これは夢であって夢でない。どういうことなんだ?
 川のせせらぎのような音が聴こえ出す。白くて細い指がしなやかに鍵盤を鳴らしている。胸を締め付ける切ない音色。

「君、ピアノ弾けるの?」
「少しだけね。でも、これは弾いたことないの。さっきここで初めて聴いたから」
「さっき?」
「消えちゃいそうな寂しい曲」

 このメロディを知っている。幼い頃に母がよく弾いてくれた曲だ。無意識のうちに、僕の指が(かな)でていたのか。

「それから、よもぎ」
「よもぎ?」
「私の名前、君じゃなくて(よもぎ)って言うの。だから、これからは蓬って呼んでよ」
「……分かった。僕は、直江(なおえ)(そよぎ)
「梵って、変わった名前だね」
「お互い様だろう」
「たしかに。〝よもぎ〟と〝そよぎ〟って、ちょっと似てるね」

 顔を見合わせて互いに吹き出す。家で笑ったのは、いつぶりだろう。もうしばらく、声を上げて誰かと笑い合うなんてことはなかったように思う。

 しばらく、ピアノの前で話していた。学校で友達と過ごすような普通の会話だ。
 蓬との時間は、僕にとって現実よりも現実味のある夢だった。