消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

 塾から自宅へ帰って来たのは、空の明るさが弱まってくる夕方五時頃。いつものように鍵を開けて、誰もいないリビングへ入った。

 静かすぎる空間に、母の声が蘇る。歯科スタッフの歓迎会で遅くなると、今朝に話していたことを思い出した。
 作り置きしてあった冷たい蟹クリームコロッケを温めて、隣にあったサラダも一緒にひとりで食べた。

 こんな時、他に兄弟がいたら良かったのにと思うことがある。
 ひとりヒーロー遊びをしていた幼少期、後部座席から話をする両親を眺めていた小学生時代。試験や習い事の話ばかりしていた中学時代。思い返せば、いつも僕はひとり。

 ピアノは寂しさを紛らわすために好都合な遊びだった。一階にあるピアノルームは、年長の時に父が設けてくれた場所。
 よく、こもって練習をしている。幼い頃は隣で母が教えてくれたけど、今では立ち入ることすらない。

 ひとたび鍵盤(けんばん)の前に座れば、柔らかく指に吸い付くような音色が部屋を充満して、心に出来た隙間(すきま)を埋め尽くしていく。

 悲しい曲は嫌いだ。
 心を覗かれているようで、たまに怖くなる。
 だから、僕は晴れやかになるようなメロディを奏でる。指が弾むような、桃色や黄色が浮かび上がるような。

「寂しい曲だね」

 突然、音を切り落とされたように無の世界が広がった。僕の指が、動きを止めたからだ。
 ざわつく鼓動を抑えながら左側へ顔を向ける。隣には、夢で見る茶髪の少女がいた。

「どうして……?」

 陶器のような肌、触れたら指の隙間を溢れていくであろう絹のような髪の一本一本までが、鮮明に写し出されている。
 確かに、彼女は目の前にいるのだ。

 〝はっきりとした意識の中で見ている夢〟と言えるだろう。