消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

 目の前に座る彼女も、下ばかり見てあまり話そうとしない。僕と同じで、落ち着かないだろう。

「少し外の空気に当たりませんか?」

 こうして中庭が見える長い廊下を、彼女の隣を歩く光景を知っている気がする。
 中庭に咲く花を眺めながら、僕は退屈そうにこうつぶやく。

「気のない見合いの席は……疲れますね、綺原さん」
「…………そうですね」

 そうだ、僕はあの子のことを〝綺原さん〟と呼んでいた。

 デートをしていても無理に作った偽りの顔をして、下の名前を呼んでくれたことは一度もない。
 何に対しても無関心なのに、ピアノには目を輝かせて、自分の命を投げ出してでも他の誰かを守る。お互いに愛などなかったけど、彼は私の婚約者だった。
 名前のない日記にあった文を思い出して、胸が震える。

 忍び込んだ夜の音楽室、僕のために両親に頭を下げてくれて、花火の下で唇を重ねた。
 知らない物語だった内容。途切れ途切れのシーンが、記憶として繋がっていく。
 夢で見たもうひとつの人生で、僕は彼女と会っていた。

「えっと、みやび……さん?」
「……どうして、私の名前を」

 ひどく驚いたような声を上げて、その瞳は水面が揺れているかのように潤んで見える。
 食事の席では、会話どころか互いの名すら出なかった。遠い記憶に浮かび上がる文字。

「僕のノートに書いてくれたよね?」

 今、思い出した。世界が終わった日。名前を書き殴りしたノートに、ひとつだけ僕のではない字を見つけた。
 あのあと気付いた時には、自分で書いた名前すら残っていなかったけど、はっきりこの目に映っている。

「ずっと不思議だった。あれほど拒絶してた歯科を継ぐって決められたこと」

 みんなでひたすらに突っ走って、泣いて、笑って。たしかに、僕らは夢の世界で生きていた。

「綺原さんや苗木と高校生活を送れたから、満たされてたんだ。僕が本当に望んでいたものを、手に入れたからかもしれない」

 中庭の花木を揺らしながら、心地良い風が僕たちの間を吹き抜けていく。新しい季節を運んで来るように。

「これから僕と抜け出しませんか?」
「……はい」
「あらためて、初めまして。みやびさん」
「初めまして、梵くん」

 差し出した手のひらに、そっと指が触れた。小さな手のひらが優しく合わさって、温もりが伝わってくる。

 繋ぎ合った心を二度と離さないと誓って、僕たちは笑い合った。
 虹色の雨が降り出しそうな、空の下で。



「君とは、こうして出会う運命だったんだ」



                fin.