琴の稽古を辞めてから、少しだけピアノを習ったことがある。認めてくれない親族への反発として弾いていたのだけど、子どもの悪あがき程度にしかならなかった。
 結局、何をしようと無意味だったのだから。

 一向に、彼はピアノに触れようとしない。
 だから、私が先に鍵盤(けんばん)へ両指を置いた。
 昔の記憶を手繰(たぐ)り寄せ、近所のお姉さんが教えてくれた曲を奏でる。湖畔(こはん)の水が流れるような優しい音色で、安心感の中に不思議な切なさが混ざっている。

「それ……」
夢境(むきょう)の続き。目が覚めても夢の世界が続いていて、次第に現実と境目が分からなくなっていくって意味らしいわ」

 これは決して、安らぎの中にある夢を語ったものではない。真実が見えなくなってしまった作曲家が、至福を求めて彷徨(さまよ)っている曲なのだと教えられた。
 何も言わずに隣へ来て、彼はそっと左手をピアノに添わせる。アイスクリームの滑らかな舌触りのような音を出して、私の右手からの音と重なっていく。一人で弾いているかのように、リズムとテンポの呼吸が合っていた。

 いつの間にか、周りには十数名の人集りが出来ていて。曲を弾き終えると同時に、拍手が巻き起こる。
 逃げるようにその場を離れようとする彼に手を引かれて、私は軽く会釈(えしゃく)をして会場から立ち去った。

 胸が弾むような不思議な感覚。これを擬音語で表せと言うのなら、おそらく〝わくわく〟や〝ドキドキ〟なのだろう。
 外へ出ても繋がれたままの手のひらを、少しばかり意識してしまう。
 手を繋いだとことくらいあるはずなのに、どうしてだろう。妙に胸が締め付けられて苦しくなる。

 ああ、そうよね。
 この人は私のことなんて、これっぽっちも好きじゃないから。肌だけが触れ合っている虚しさを感じるの。