消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

◇◇
 何の匂いだろう。ツンと鼻を刺すような独特な香りがする。クンクンと小鼻を動かしてみる。
 ……絵、アクリル絵の具?

 校舎横にある体育館へと続く壁に、描きかけ途中になっている絵が目に入る。色鮮やかな人魚や海の動物たちだ。
 周りには誰もいない。日曜日の学校にでもいるのだろうか。

 盛り上がった絵の具は、どうして好奇心をくすぐるのか。滑らかな線と線の境目に出来たぷっくりとした立体に、そっと人差し指を近付けていく。
 優しく触れても、この膨らみは(つぶ)れてしまうのか。それとも……。

「触ったら付いちゃうよ? 今、乾かしてるところなの」

 振り返ると同時に、突き出していた指を後ろに隠した。しようとしていた事はバレているのに、下手な言い訳をする子どもみたいな行動。
 ドクドクと心臓から流れ出す血液の音が体中から聞こえてくるほど、僕は驚いていたようだ。

「いや、あの、これは……あれ? 君ってたしか、虹色の雨が降った時に……」

 目の前に立っていた少女は、前に夢で見た結芽岬高(ここ)校の生徒だ。さらさらした肩丈の茶色い髪、大きな目は間違いなくそうだと言い切れる。

「ほんとだ。昨日、屋上で会った人?」
「えっと、これは夢……なんだよね?」
「分からないけど、そうだと思うよ。キミは実在する人? その制服、結芽(ゆめ)高の生徒なの?」

 僕を覗き込むように、少女がグイッと顔を近付けて来る。ガラス玉みたいに透き通るような瞳。
 ──綺麗だ。

 風に揺れる髪から、甘い果実と花を思わせる上品な香りが運ばれてくる。香りまで伝わって来るとは、やけにリアリティのある夢だ。

 ごくりと喉を鳴らしながら、接近する少女を避けるようにして後退した。
 少女が一歩前進する。だから、僕の肩は壁画へ追い込まれた。

「男の子なのに、まつ毛長いね」
「まつ毛?」
「うん、くるんってしてる。目も鉛筆の芯みたいに黒いね」
「鉛筆の芯……」
「冗談だよ。夜の空みたいに綺麗な色」

 目の前で微笑む少女の頬に触れたら、どうなるだろう。柔らかそうな白い肌は、手を伸ばしたら()ぜて失くなってしまいそうだ。

 でも、夢なのだからそれも良いかもしれない。(うなが)すような鼓動は徐々に加速していく。
 そっと伸ばした指先が、白玉のような少女の頬へ触れた。赤ちゃんの手を握っているような柔らかな感触が伝わってくる。

 次の瞬間、テレビの電源を消したように、たちまち視界は真っ暗闇となった。