忘れたフリをするなんて最低なヤツだ。そう腹を立てる一方で、苗木は突拍子もないことを言うけど、あんな冗談を言う奴じゃないと分かっている。だから、余計に不安が募った。
 あの声の主は、間違いなく綺原さんだ。ずっと前にも、こうして話しかけられたことがあった気がする。
 どうして、今まで思い出すことができなかったのだろう。

 校庭で雑談する生徒の前を通り過ぎて、再び彼らの前へ足を向ける。たむろしている中に、サッカー部の元部長がいたからだ。
 以前、綺原さんに告白しているのを見たと、苗木が言っていたことを思い出した。話したことは一度もないけど、目立つ人だから顔は知っている。

 すみませんと声を掛けると、不思議そうにしながらも彼は耳を傾けてくれた。

「綺原さん、知ってるよね? 告白してたって、噂で聞いたんだけど」
「えっと……、あっ、元生徒会長? いきなり何?」
「この際、したかしてないかはどうでもいい。綺原さんのこと、知ってるか聞きたいだけなんだ」
「キハラって、野球部の鬼原のこと? アイツ女だったのか?」

 隣りにいた男子生徒が、冷やかすように口を挟む。

「違う、そうじゃなくて。綺原って苗字の女子が……」
「あのさ、いきなり何聞かれてるのか全然理解出来ないんだけど。そんなに言うなら、その子の下の名前教えて」

 下の……名前。何かを言おうとする唇は、何度開いても声は出ない。
 もう僕は、彼女の名前を知っている。でも、どうしてか思い出せない。

 サッカー部の彼には申し訳ないことをした。勘違いだったと頭を下げて、その場を去った。
 不思議な目では見られたけど、何もなかったように笑って許してくれた。爽やかで人気がある人は、中身もよく出来ている。

 力ない足は、あの木までやって来ていた。見上げた空は闇のように暗くて、まるでブラックホールが広がっているみたいだ。
 空の色は、剥がれてもうほぼない。