夜の灯りが灯る時刻。勉強机に向かっていると、ゆっくり部屋のドアが開いた。夜食と一緒に、母がアイスコーヒーを机の横に置く。
 ありがとうと伝えた後も、なぜか母は僕を見て立っている。いつもと何か違う。そう思っていると、穏やかな口調が上から降って来た。

「少し来てもらえる? 話したいことがあります」

 シャーペンを握っている手を離して、何か良くないことだろうと、重い足取りで一階へ降りた。
 リビングへ連れられるのだと思っていたが、母が開けたのは手前に位置するピアノルーム。疑問に思いながら足を踏み入れて、心臓がドクンと跳ね上がる。

 どうして……?
 何もないはずのだだっ広い部屋に、どっしりとした白いピアノが置かれていた。

「たまたまお孫さんと学祭へ行ってらした歯科医師会の会長が、演奏を聴いて返して下さったの。素晴らしかった。もう一度、息子さんにピアノを弾く機会を与えてあげて欲しいって」

 久しぶりに触れる鍵盤は滑らかで、優しい音がした。
 目頭に熱いものが込み上げて、滴が頬を流れる。嬉しさと信じられない思いが溢れて言葉が出ない。
 最後まで、あきらめなくて良かった。

「運命と言うものは、どう足掻(あが)いても逆えんものだ」

 背後から、独り言を嘆く父の声が聞こえた。

「お前を見ていると、昔の自分を思い出す。反抗した時期もあったが、私は今の自分を誇りに思う。お前にもそうなってほしいと思っていた。だか、梵の人生だ。どうすることが一番良いのか、今一度よく考えて答えを出しなさい」

 低く深みのある声は、胸に真っ直ぐ響いた。
 ピアノ関係の仕事を選ぶにしても、歯科の道へ進む決意をしても、全ての責任は自分にある。決めた道を全うしろ。
 その言葉の重みからは、父が貫いてきた思いが伝わった。