「今日も良いこと教えてあげるよ。夢ってさ、起きたとき夢かよーくそっ! ってなる夢あるよね」
「……はい」
「好みの芸能人とデートしたり、億万長者になってたり」

 何が言いたいのかと、冷ややかな視線を向ける。そんな僕にお構いなしで、どんな夢が良かったかを延々と話している。
 時間を持て余してしまったから、適当にやり過ごすつもりなのだろう。あまり真剣に聞かず、僕がパタンと教科書を閉じたとき。

「あの夜、なんでキスしなかったの?」
「……えっ?」
「車の中で、いい雰囲気だったでしょ。大人の女の人と」

 何かを見据えている眼に、体全体がぞくりとした。この世の物ではないもの、例えば幽霊にでも出くわしたような。

「何……言ってるんですか」

 弱々しい声を絞り出すのがやっとで、言い訳すら浮かばない。

「たまたま目撃しちゃって。悪いなーと思いつつ、好奇心が勝っちゃったんだよね」

 動揺する僕を楽しげに見ながら、金宮先生は勉強机に立てかけてある本を手にした。綺原さんから借りたままになっている『シンクロニシティ』だ。
 中身を開きもせず、黙って表紙を見つめている。

「へぇ、面白い本持ってんね。梵くんって、お堅い勉強ばっかしてるんだと思ってたけど、夢のメカニズムとか興味あるんだー? 意外」
「……友達のです」

 この人は、(かん)に障る言い方ばかりする。
 取り上げた本を棚へ戻すけど、手の震えが止まらない。これが何に対しての表れなのか、理解するより先に。

「梵くん。夢の中で、一番しちゃいけないことってなーんだ?」

 僕の背後に立ち、ぐっと顔を近づけて来る。あまりの圧に動けない。
 くくっと笑う吐息が耳に触れるほどの距離で、そっと。

「恋だよ。心を喰われたら、いろいろと迷いが生じるからね。良くも悪くも。自分の奥底の気持ちを見失うなってこと」

 ほどよい低音が体に響く。
 得体の知れない威圧感を出して、金宮先生は部屋を出て行った。
 彼と会ったのは、この日が最後だった。