午後七時が過ぎ、外は夕闇に包まれていく。警戒していたようなことは何も起こらず、日南先生の行動にも不自然な動きはない。
 あれは、ただの夢だったのか。深読みし過ぎていたのかもしれない。
 遅くなってしまったからと、日南先生が家まで送ってくれる運びになった。

 リビングを出ようとした時、背後で何かガシャンと割れる音がした。振り返ると、ガラスの破片と写真立てのフレーム、外れた裏板が床に散乱していた。

「ごめんなさい」

 しゃがみ込んだ綺原さんの手を止めて、「危ないから、僕が拾うよ」と写真を手に取る。
 幼い少女と父親らしき人が、木枠の中で微笑みかけている。とても幸せそうだ。

 なにげなく写真を裏返した瞬間、息を吸うことを忘れた。
 ──よもぎ・二才。
 鉛筆で書かれた文字が頭の中を駆け巡って、僕の思考を奪う。

 よもぎ、蓬……?
 大きなガラスの破片を拾いながら、何度も心の中で名前を呟いた。
 写真の中で無邪気な笑みを浮かべる〝蓬〟というこの少女は、一体……誰だ。

 黒いベールに覆われた景色を走り抜ける。今宵(こよい)は、居待月(いまちづき)と呼ぶらしい。ゆっくり待つうちに月が出てくる、と言う意味だとか。

 二人を送り届けた車中は、僕と日南先生だけになった。明らかに、彼らがいた時とは違う空気が流れている。互いの口数は減り、会話も譫言(うわごと)のようなものばかりに聞こえた。
 彼女も僕も、本当は別の話をしたいと思っている。