「どんだけ頭ひねっても、思い出せねぇんだ。知ってるはずなのに、分かんなくて。アイツのこと……好きなのに。最低だよな、俺」
「……同じだよ。僕も綺原さんの名前、思い出せないんだ」
「直江もなのか⁈ それって、なんか変だよな? 俺ら二人とも分かんねぇとかさ」

 彼女のことは、誰もが綺原さんと苗字で呼ぶ。それは僕らにとって日常の光景で、今までなんら不思議でもなかった。
 でも、今感じている違和感はなんだろう。
 最初から、彼女の名を知らないような、おかしな気になるのは。

 リビングのドアが開いて、二人が帰って来た。絵の話をしていたのか、手にはスケッチブックと数枚の紙が持たれている。その綺原さんの表情は、どことなく浮かない。向こうで、なにかあったのだろうか。
 疑問を口にするタイミングはなく、そのまま夕方を迎えた。

 パート先から帰って来た先生の母親に、夕食を誘われてご馳走になった。生徒が訪ねてきたことが嬉しかったようで、頬を緩めながら日南先生の幼少期を語り始める。
 そういえば、葬儀の時、生徒に近い教師だと涙ながらに話していた。この人のためにも、彼女を死なせたくない。

 魚のフライを皿に取り、ひと口だけ頬張る。熱が染み込んできて、ふと向けられている視線に気付いた。
 チクチク刺さるものではなく、見守るような眼差しと言える。斜め向い側に座る母親だ。

「直江くん、だったかな?」
「……はい」
「あなたを見てると、思い出すな。遠い昔、辛くて苦しかった日が終わった夢。あの頃、精神的に不安定だったから。私も菫も、夢と現実の区別が付かなくなってて」
「お母さん、その話はしない約束だよ」

 気まずそうに唇を尖らせた日南先生が話を(さえぎ)る。
 おそらく、皆川との関係を断ち切った時のことだ。夢の中で起こったことは、僕と蓬以外の人にも記憶されているらしい。
 ただ、現実と別の曖昧なものとして残されているようだ。時が過ぎたら、僕自身もそうなるのだろうか。