「残念ながら、先生に彼氏はいません」
「作らないんですか? 菫先生、美人なのに」
「なんでかな。初めて付き合った人と別れてからずっといないの。作らないのか、作れないのか」

 皆川の顔が脳裏を過った。あれ以来、蓬は誰とも付き合うことはなかったのか。
 果たして、僕のしたことは間違っていなかったのだろうかと、少し不安になった。

「そういう綺原さんこそ、校内一美少女と噂を聞くけど恋人はいるの? それか好きな人とか」

 思いがけない質問返しだったのか、綺原さんは飲んでいたオレンジジュースに少しむせる。
 そのままこちらへ視線を送るから、僕まで動揺して咳が出た。
 後夜祭でのキスを思い出して赤面してしまう。反応に困りながら、ティッシュで口周りを拭った。

「……恋愛って難しいですよね。気持ちだけでは、どうにもならない。報われないこともある」

 時が止まったように、リビングが静まった。ここにいるみんなが痛いほど分かる言葉だから。
 何かを紛らわせるように、日南先生が冷蔵庫の前に立つ。用意していたであろうケーキを机に並べる。その面持ちはどこか切なげで、もしかしたら、学生時代の自分を思い出していたのかもしれない。
 口の中に広がるチョコレートは、少しだけほろ苦かった。

「そうだ! 綺原さんに見せたい物があったのよ。男子陣はここで待っててくれる?」

 パンッと手を鳴らす日南先生は、綺原さんを連れてリビングを出て行った。
 残された僕らは、黙々とケーキを食べるしかない。見渡してみると広さの割にはすっきりとした部屋で、二人で暮すには確かに寂しく感じる。
 気を取られていると、あのさと、苗木の低い声が物音のない空間に響いた。

「変なこと……聞いていいか?」

 持っているフォークを置いた彼の表情は固く、とても聞き辛そうに見える。

「どうした?」

 反射的に僕もフォークを皿に置く。

「綺原の下の名前……教えてくれないか?」

 ドクンと脈が波打つ音がして、それは心臓から流れ出ているのか入っている音なのか。答えられない。