薄明の蘇妃

 孫麗は脚を大きく広げ、木の幹へと足指をかける。腕に力込め猿のごとくぐんぐんと木を登っていく。
「ほら、こっちにおいで」
 猫は一歩一歩を踏みしめるように孫麗の袖の中へと入っていく。
「うわぁ!」
 すると突然、右足が滑り孫麗は地面へ真っ逆さまに落ちた。
 痛みを感じない孫麗はすぐに袖の中を確認すると猫は驚いた顔はしていたがなんともない様子だった。
「よかった、無事のようね」
 安心して、一呼吸すると視界の上で土埃が舞い、視界の下を雲が流れた。
「あれ、空が地面に。地面が空に」
「孫麗お姉様! 首が真逆に!」
 孫麗の首は上下逆さまになっていた。
「おい、大丈夫か?」
 宦官の声に焦った孫麗はどうしよう、と白梅をみると、白梅は両手で孫麗の頭を掴む。
「失礼!」
 白梅は思い切り腕を回すとぼきぼき、と激しい音とともに孫麗の顔は元の位置へと戻った。
「なんだ今の音は?」
 孫麗は、足元に落ちていた細い枝を掴む。
「え、枝が折れてしまって……」
 宦官は訝しげな顔をしながらも頷いた。
「無事なら良いが……」
 瞬間、袖の中から猫が飛び出し、彼方まで走っていく。
「あ、こら待て!」
 それを追い、宦官や周囲の人もその場から離れた。
 孫麗と白梅は一安心と大きく息を吐いた。
「もうお姉様! 無茶はやめてください! ?屍であることがバレてしまうでしょ!」
「ごめんごめん」
 しかし、孫麗はやはり楽しく、身体を動かしたくてしょうがない。
「お姉様?!」
「お姉様ぁ?!」
「孫麗お姉様ぁ??!!」
 その日、朝日殿に白梅の絶叫が轟いた。

 蝋燭の灯りも消えた深夜。襖から差す月光が孫麗の部屋を満たす。
 孫麗は眠れず、誘われるように月明かりに照らされた廊下を歩くと浩宇王が月を見上げていた。
「あ、浩宇王」
 思わず口から漏れ、孫麗は慌てて頭をさげる。
「あぁ、こないだの」
 浩宇王は孫麗の元へと歩み寄る。
「お前は雪華様の元で働いていたのか」
「そうでございます」
「そうか」
 浩宇王は懐かしむように顔をあげる。
「あのお方は、とても厳しい人だ」
「え?」
 孫麗は戸惑った。
 雪華様が厳しい? その対極のような人だったのに。
 孫麗が戸惑っていることに気づき、浩宇王は笑う。
「私がまだ旅に出る前、雪華様に叱られたことがあった」
「雪華様が、皇子様に?」