黒袍をまとう男の顔は残虐そのものであり、その目にはおよそ情と呼べるものはない。
「神に(あだ)なす者に裁きを。香月、そなたは呪いを受け、この罪に(むく)いなければならない」
男が言う。脳内に響く声は低く、恐ろしい旋律(せんりつ)(ゆが)む。ぐるぐると血が廻る。背を這い、内へ内へと潜り込む。体内を呪いが鉤爪で引っ掻き(うごめ)く。
「香月」と呼ぶ声がどこからともなく聴こえる。しかし、応えることもできない。
魂へ呪いが刻まれていく──

香月は目を覚まし、飛び起きた。その瞬間、背中に鈍い痛みが走る。逆立った鱗をさすり、うずくまる。
「……ここは?」
辺りを見回すと、そこは狭い円筒形の空間だった。扉には格子状の木枠がはまっている。体の上から粗末な布をかぶされていた。気を失った間に、どこかへ移動させられたらしい。
とても湿っぽくて灯りはない。香月は抗う気力もなく、ただ床にうずくまって息をひそめていた。すると、見計らったかのように誰かが格子の向こうに立った。
「気がついたか」
屈強で冷徹そうな武官である。確か、香月に向かって厳しく問い詰めた人物である。彼は無感情に言った。
「琳香月。皇帝の命により、その身柄を後宮に移す」
しかし、そう言われても皆目わからない。首をかしげると、彼はため息をついた。
「無罪放免。しかし、その身体は呪いを受けている。儀式までの期間、後宮に住むことになる。意味は分かったか?」
少し言葉を柔らかくしてくれた。思ったよりも悪い人ではなさそうだ。香月はお礼も返事もまともに言えなかった。ただ頷くだけ。
「お前は後宮での幽閉が決まった。部屋を一つ与えられたから、そこに住む。生活に必要なものは一通り揃えてあるから使うといい」
彼は咳払いし、格子の扉を開けた。そして、動かぬ香月に焦れながら腕を引っ張って牢から出す。
「幽閉ということは、私はもう村には戻れない……?」
なんとなく思いついたことを言ってみる。すると、武官は眉をひそめた。
「あの村に戻りたいのか?」
「……いえ」
言いながら、香月は罪悪感を抱いた。不遇な扱いを受けていたが、あの村での生活は人生のすべてだった。愛着なんてものはなく、むしろ忌まわしさしかないが、それでも住み慣れた場所から引き離されるのは心もとない。
武官は鼻を鳴らした。そして、香月の腕を引っ張ったままどこかへといざなう。
「後宮とはどんな場所ですか」
「女官や妃が住まう場所だ」
「はぁ……そんな場所に……」
香月は硬質な脳を叱咤(しった)し、考える。
結局、どこへ行っても扱いは変わらないのだろう。
しかし、皇帝という存在が気になる。こんなにみすぼらしい自分を死罪にせず、命令一つで住まいを与えてくれるとは。
「あの、捕虜の人たちはどうなったんですか?」
冷たい地下牢の中を裸足で歩きながら、香月はおずおずと訊ねる。と、前を歩く武官は無感情に言い放った。
「斬首した。すでに刑は済んでいる」
その言葉にはなんの感情も湧かなかった。
とにかく、皇帝やこの武官は敵国の人間なら容赦なく殺すのだろう。一瞬、あの夢に出てくる黒袍の男と重なった。

それから、武官は香月を下女たちに預けた。彼女たちは香月の呪いについて知らされているようで、一言も喋らず、香月の身なりを整えた。初めての湯浴みは緊張で震えた。されるがまま、頑固な垢と泥を綺麗に取り除いてもらう。いくらか本来の肌色を取り戻し、ごわついた髪に(くし)を入れられる。これがかなり手間取った。しっかりした襦裙を夢の中以外で見るのは初めてだった。くすんだ灰色だったが、穴のない衣に感激する。なんとか整った髪の毛は少々のうねりがあるものの、四方八方に伸びっぱなしだった毛束はすっきりした。
廊下へ出ると、待っていた武官が両目を見開かせた。
「見違えたな」
これに香月は曖昧(あいまい)に笑う。すると、彼は咳払いした。
「部屋に案内する。着いてこい」
言われるまま、鏡のように磨き上げられた廊下に恐る恐る踏み出す。そして、早足の武官の後ろをパタパタと小走りに着いていく。身なりを整えてくれた下女たちを振り返ると、彼女たちはただ静かに目を伏せていた。
長い廊下は何度か曲がり角があった。外へ出ると、いくつか建物が並んでいる。見たこともないほど雅で美しい苑があり、その脇を通り過ぎる。挙動不審に見渡すも、この空間には人が誰もいなかった。美しく整えられているのに寂しさを感じる。
剪定(せんてい)された庭木、咲き乱れる花々、池には橋がかかっており、その向こうにも似たような建物と廊下が見える。全体的に朱や金、黒を使った絢爛豪華な造りは壮観である。ため息が出そうなくらいのどかだ。
「琳香月」
急に武官の男が無愛想に言った。香月は慌てて視線を真正面に正す。
「陛下はお前を探していたのだ」
「え……?」
唐突な言葉に、香月はうまく反応ができない。これに、武官は疑心たっぷりに睨んできた。
「呪魂者でありながら後宮へ入ったこと、陛下が咎めなかったこと、そのほかにも訊くことはあるはずだ。気にならないのか?」
「えっと……気になります」
「その言い方は意思ではないな」
武官はため息交じりに言った。どことなく悔しげな様子である。香月は首をかしげるしかなかった。何か言わなければ、どこぞの野原や谷にでも放り出されてしまうかもしれない。そんな焦燥を抱き、香月は思考を巡らせて訊いてみた。
「あなたのお名前が気になります」
すると、彼はさらに冷ややかな視線を浴びせてきた。
──間違えた。
咄嗟に思う。
(てい)秋叡(しゅうえい)だ」
彼は無骨に答えた。諦めたようにため息を落とす。それきり、秋叡は何も言わずに先を歩いた。
言われてみれば疑問は出るが、それを形にするのが難しい。何が分からないのかすら分からないのだ。
やがて、秋叡は香月を後宮の奥深くにある古い部屋へ放り込んだ。そして、彼は何も言わずに部屋を締め切り、どこかへ帰っていく。
朱や金であしらわれた豪華な宮とは違い、黒色を基調としていた。いたるところに竜を模した彫刻が施されている。長いこと洞窟暮らしをしていた香月にとって、隙間風のないしっかりとした壁のある部屋に入るのはとても贅沢なこと。寝台は埃をかぶっていたが、今まで感じたことのない弾力が新鮮だ。
「こんな贅沢、いいのかな」
不安になる。そして、ようやく秋叡の言葉を理解した。
「こういうことを訊けばいいのね」
しかし、今後は誰に訊けばいいのだろう。あの下女たちには話しかけられる雰囲気ではなかった。それに、秋叡は〝儀式までの期間〟と言った。おそらく、あの夢と同じような儀式が行われるのだろう。きっと〝その日〟は避けられない。
香月はすべすべの床にぺたんと座り込んだ。
いつもと同じくとても長い一日が過ぎようとしている。状況が急変したにも関わらず何をすることもできず、ただぼうっと途方に暮れるだけ。夕餉を告げられるまで香月は息をひそめて床にうずくまっていた。

 ***

「──以上です」
鄭秋叡は淡々と琳香月についての説明を終えた。皇帝、(いん)宇静(うせい)は神妙に唸った。彼は夜闇のような黒色の髪と瞳を持ち、眉目好(みめよ)い容貌。しかし、凍てつかせるほどの鋭い眼光で周囲を圧倒する。この若き皇帝は(たぐい)まれな武運と統率力に恵まれ、国土を広げることに心血を注ぐ。
そんな彼にも苦悩の種が芽吹いた。あの呪魂者──香月の存在を確認するなり、彼は無理やりに香月を城郭へ引き取ったのだ。
「……まぁ、それが(おきて)だからな。仕方あるまい」
「ですが、あの様子は異常です。礼儀はおろか意思疎通も難しいです」
「呪われし玄竜妃に余計な知恵を与えて、また逃げられでもしたら困る。ゆえに、先代らは妃の生まれ変わりを幽閉し、儀式の際に呼び出して殺すことにしたんだ。我が国の安寧のために」
宇静の声はやや嘲笑めいていた。秋叡は不審げに主君を見つめた。
「我が国はもはや玄竜神を頼りになどしていません。神の時代は終わった。これからは陛下のように国を統べる王の時代となりましょう」
「いいや、それはどうかな」
宇静は秋叡の脇を通り過ぎ、開け放った扉から外へ出た。黄昏(たそがれ)に染まる石段の向こうには後宮がある。彼はそれを見つめながら言った。
「この国はまだまだ神を敬っている。きっと、私の代でも変わらないだろう」
秋叡は眉をひそめた。主君の元へ行き、一歩下がった場所に控える。
「儀式を行うのですか?」
「そうしなければ民が困る。現に呪いは存在しているのだ。玄竜神はあの娘を許さず、むろん民も同じく許しはしない」
宇静は無感情に言った。秋叡は堪らず開口した。
「訊いてもよろしいですか?」
「なんだ」
「陛下はなぜ、あの娘を後宮に移したのですか?」
その問いは秋叡にとっては賭けでもあった。ゴクリと唾を飲み、主君の答えを待つ。
宇静は唸った。それは是否も言い難い。
やがて彼は何も言わずに冷笑を浮かべて振り返った。秋叡の脇を通り過ぎ、部屋へ入る。扉を締め切り、そして問いの答えではなく、脈絡のない提案を持ち出した。
桂妃(けいひ)に会おう。近いうちに」
秋叡は目を(しばたた)いた。
「桂妃ですか?」
今まで、世継ぎのことなどまったく考えず、戦ばかりにかまけて後宮の妃たちをないがしろにしてきた彼が、一体どんな風の吹き回しか。
「あの呪魂者に教えてやらねばならん。この世の(ことわり)をたっぷりと。今からでも遅くはない。桂妃は教養豊かな才女……確か、そうだな?」
「えぇ、そうですね。妃の中では適任かと」
宇静の薄情な言い方に秋叡は頬を強張らせた。長い付き合いではあるが、一向に彼の思考は読めない。
尹宇静──霧国歴代皇帝の中でも随一の武運に恵まれ、冷血漢と恐れられる。戦場では血を欲するかのごとく敵国を制圧し、側近ですら冷や汗を浮かべるほど。
また彼は、この霧国で恐れ敬われる玄竜神の化身。敵を容赦なく制圧する冷酷さとその容姿にちなみ、いつしか彼は「黒鱗の王」と呼ばれる。
叛逆の妃である香月へ並々ならぬ憎悪を持つはずで、それは確実に彼の血がそうさせるのだと想起された。