ゆらめく炎からのぼる煙はほのかに甘い。その甘さに体がしびれ、まどろんでいく。思考力を奪われた。厳粛な広場で、人々がぐるりと炎を囲って集う。そこに真黒な(ほう)をまとった男がいた。
「──……──……」
何かを言う。男は炎に向かって祈りを捧げた。人々も祈る。祈る。ただただ祈る。
その様子をぼうっと見つめる。しかし、ふいに立ち上がって逃げる。場面が変わる。
暗転。景色が断片的に流れる。
彼女は息を上げながら、森林を疾走していた。裸足で地を走れば、かかとに何かが刺さる。それでも構わず走る。髪を振り乱し、一心不乱に。背後を振り返れば、祈りを捧げていた人々が追いかけてくる。その形相、さながら生気を(うしな)った鬼のごとく。
──逃げるのよ。
気持ちは前へと逸る。足がもつれ、上体を崩す。落ちていく体。
またも暗転。区切られた場面の中、痛みだけが鮮烈に感じられる。髪をつかみ上げられ、引きずられる。頭を殴られ、背中を蹴られ、捕縛される。振りほどけない。逃げ場がない。
彼女はうめきながら顔を上げた。瞬間、背中に焼け付くような痛みがべったりと張り付いた。

「はっ……」
(りん)香月(こうげつ)は飛び起きた。全力疾走した後のように息が乱れる。
いつもの夢だ。夢の中の不遇な少女に憑依(ひょうい)したかのごとく、鮮明で恐ろしく生々しい──悪夢に(さいな)まれている。
香月は背中を触った。硬質な(うろこ)に覆われた背中は呪いの証。絶対に誰の目にも触れさせたくはない。
やがて、彼女は落ち着きを取り戻して、(すそ)がすりきれた衣をまとった。

 ***

小高い山の中腹に、彼女の住まいはあった。ここからだと、荘厳(そうごん)な城郭が見えることもあるのだが、年がら年中、霧に包まれているせいでろくに見えない。
香月は村からはずれた山奥の洞穴で生活していた。それもこれも自分が生まれたせいで、両親ごと村から迫害を受けることになったのだ。
村へ行けば、きっと石を投げられるのだろう。しかし、昨夜に食糧が尽きた。
仕方なく、ゆっくりと集落の方へ行く。まず、川で顔を洗った。水面に映る顔は垢や泥で汚れていてみすぼらしい。目ばかりが大きく、頬や腕は痩せこけている。とても十六の娘には思えないほど小さく脆弱だ。
ひっそりと息をひそめ、誰にも見つからぬよう注意しながら集落へたどり着いたものの、やはり仕事に勤しむ若者たちに出くわした。うつむき加減に道を早足で進む。
そして、長老の元へ行き、食糧を分けてもらう。家も職も取り上げられたが、なぜか生活に必要最低限の食糧だけは確保されている。だが、それゆえに毎度、奇異の目にさらされなくてはならない。
不干净(けがらわしい)!」
突然、小さな子どもが叫んだ。石を投げつけられ、香月は驚きのあまり立ち止まった。
「やめなさい!」
母親が子どもの腕を引っ張る。しかし、その顔は(わら)っている。香月は顔を長い髪で隠しながらその場を切り抜けた。

叛逆の玄竜妃──それが香月を蔑む呼び名だった。村民たちは香月の動きを逐一見張る。それはなんだかあの夢に酷似していた。
香月は少ない食糧を抱えて、洞窟へ帰った。そこでようやく安堵の息をつく。ここまで来れば誰も追ってはこない。
いつも、怯えながら独りで生活している。いっそ死ねたら楽だが、長老は死を許してくれない。
いつの間にか父は消えた。母はこの生活に耐えられず、香月が五つの時に発狂して川へ身を投げた。それでもなお、香月は生かされていた。だが、そのうち〝その日〟が来て、死ぬのだと思っている。
母は死ぬ前に「お前は忌まわしい呪魂者だ」と繰り返し言っていた。
「その背中の鱗が証拠。玄竜神様にそむいた呪いだ」
玄竜神とは村に伝わる神である。その妃となる娘は逃亡を図り、あえなく捕らえられ、背中に呪いを受けて殺された。言い伝えでは、その娘の魂は何度も(めぐ)り、生まれ変わる。うなじから背骨に添うようにびっしりと皮膚からむき出した黒鱗は(けが)れた魂の証であると。
香月はたびたび、この黒鱗を触っては陰鬱にため息を落としていた。
そして考える。あの夢の中の娘は、なぜ神にそむいたのだろう、と。

とても重苦しく長い一日が過ぎようとしていた。洞穴の住居から見る夕暮れは、一日の憂さを忘れさせてくれるごくわずかな安らぎの時間だ。山の向こうへ落ちゆく陽を見ながら、夕餉(ゆうげ)の粥を食べる。火を()べて、小さな鍋に穀物と水を入れて煮る。味気のないものだが、それをゆっくり喉へ送る。
パチパチと火花が飛ぶ。その様子をただぼうっと眺めていると、どこからともなく風が吹いた。と、思った。だが、真正面にある草木が不自然に揺れたのを捉えた。
瞬間、(かたまり)のごとき黒い影が二つ、むくむくと浮かび上がった。否、それは(よろい)をまとった人であった。素早い動きで香月に向かって飛び出し、覆いかぶさる。火をもみ消され、気がついたときには地に伏して口を塞がれていた。
「女だ」
「ここに住んでいるのか」
「寝床があるぞ」
「身を隠すにはちょうどいいかもしれんな」
男が二人。伸び放題の髭は黒く、肌もなんだか浅黒い。
「どうする、この娘」
「殺すか」
「いや、殺すのはまずい。我々の足跡がやつらにバレる」
そうして、彼らは迷うように香月を見遣った。
「騒げば殺す」
脅しながらゆっくりと香月の口を離した。圧迫感がなくなり、香月はすぐさま新しい空気を取り入れた。だが、上から男にのしかかられており、身動きはとれない。
「思ったよりおとなしいな」
上に乗った男が言った。
「油断するな。麓には村がある」
もうひとりの男が言った。
「おい、娘。我々をこの洞穴に隠せ。騒ぎ立てたら殺すからな」
男たちの言葉に、香月は震えながら頷いた。男たちは彼女の腕を縄で縛り、やすやすとこの場を支配した。
香月は言われるままに洞穴の奥へ彼らを案内する。その頃にはようやく声も出るようになった。
「あ、あの……私は、どうしたらいいの?」
しばらく声を出して他人と会話していないからか、ひどくしゃがれた声が飛び出した。男たちは不快そうに眉をひそめる。
「もし、馬が通りかかったら言え。何も見ていないとな。それだけで良い」
その言葉を香月は不審に思った。ここは村の最果てで、独房のような場所。誰も通りかかるはずがない。この十六年間、ひとりも人間を見たことがない。
そんな香月の不審を見抜いたか、男のひとりが言った。
「我々は霧国(むこく)の捕虜となっていたが、命からがら逃げ伸びたのだ」
「ここから山を越えれば故郷だ」
香月は目をしばたたかせて驚いた。そして、的はずれな言葉を漏らす。
「この国は、霧国というんですね」
「………」
「………」
男たちは困ったように顔を見合わせた。沈黙が訪れる。やがて彼らはボソボソと囁きあう。
「この娘、もしかすると罪人の娘なんじゃないか」
「罪人……?」
香月は首をかしげて言った。男たちは今度は苦笑を浮かべた。
「どうやら何も知らないらしい。哀れな娘だ」
そう言われ、香月はうつむいた。しかし、罪人と言われればなんだか腑に落ちた。
来る〝その日〟というのは、おそらく刑の執行か。香月は肩の力を抜いた。それと同時だった。男のひとりが香月にかけた縄をぐいっと引っ張った。
先ほどと違い、妙に不埒(ふらち)でぬめやかな空気を感じる。それはあの、夢の中で暴行を受ける時のような──本能が逃走を促すも間に合わず、香月は床に叩きつけられた。
「汚い娘だ」
男は言った。そして、もうひとりが香月の衣を剥ごうとする。
「やっ、やめて……!」
しかし、願いも虚しく背中から一気に衣を破かれた。
「なんだ、これは」
見られた。香月は絶望を感じ、その場に崩れて泣いた。
その時だった。洞穴の入り口から何やら賑やかな音が響いてくる。ザクザクと地を走る音。それがこの場のすべてを制した。男たちは一瞬、息を詰めたがすぐに香月を前方に押しやった。
すると、まもなくして煌々と燃える松明(たいまつ)の群れが香月の前に姿を表した。立派な鎧に身を包んだ屈強な武官たちだった。隣国のあの男たちとは比べ物にならないほど凛々しく、いくらか若い。先頭に立つ男が香月を睨んだ。
「捕虜を(かくま)っているな?」
その言葉は、何もかもを見据えたようだった。しかし、香月はまともに答えられなかった。
「我が敵国の捕虜が二人、ここに逃亡した。(あざむ)くは国にそむくとし、直ちに斬首する」
香月はうなだれた。とにかく今は破れた衣服を抱いて背中の鱗を見せないように徹した。
武官たちは香月を突き飛ばす勢いで洞穴の奥へ向かった。勇ましい喧騒が響く。やがて、彼らは暴れる捕虜たちをしっかり捕縛して現れた。
「連れてゆけ」
「この娘はどうします?」
「同罪だ。陛下に欺く輩は皆殺しにせよ」
「お待ちください!」
突如、狼狽(ろうばい)で上ずった声が上がる。奥から長老がなだれ込んできた。細長く白い毛を乱しながら香月の前に立つ。
「この娘は〝呪魂者(じゅこんしゃ)〟です! 玄竜神様の裁きなしに処せば、この国に(わざわい)をもたらします!」
一様にざわめきが立つ。たくましい武官ら皆が眉をひそめて香月を見た。その目は奇異を帯び、香月は震えた。
「呪魂者だという証を示せ」
統率者らしき武官が言う。すると、長老は香月の長い髪を引っ張り上げ、無理やりに地面へ平伏させる。
「これが、その証です」
黒鱗があらわになった途端、ざわめきが一層際立った。この異様な空気に、香月は圧倒されて悲鳴すら上げられずにいた。
屈辱と恐怖で全身が強ばる。松明の灯りが香月を灯した時、皆が一斉に息を飲んだ。
「──その話はまことか」
唐突に鋭い若々しい男の声が聴こえる。その声に驚いた長老がその場から離れる。香月はおそるおそる顔を上げた。
現れたのは真黒な袍をまとった冷たい目をした男。
上から見下され、その視線に縛り付けられる。しかし、その黒い瞳を見ていると、強張っていた体が軽くなった。香月は両眼を見開き、彼を見つめた。
次第に心臓の底で何かがのたうつ。悲哀とも恐怖とも憤怒とも違う不思議な感情が全身を(めぐ)る。
瞬間、背中の鱗が熱を帯びた。腰から背骨を這うように走る電熱に耐えきれず、香月は意識を手放した。