「冷蔵庫の賞味期限が早いものからいただこう。冷凍とか保存食はあとね」

彼はそう言うと、盛大に笑った。

「たった二人で世界中の食べ物を独占してるかと思うと、凄いよな。ぜってー食べ切れねぇ」

そういうのんきな話なの? って、言おうとしてやめた。

この人のこのセリフだって、気を使ってくれているだけだ。

それまでは気がつきもしなかった、サルスベリが咲いている。

世界は区切られても時間は流れていて、あの光と同じピンクの花が咲き誇る。

「やっぱほっといたら、腐るのかな」

「それは確かみたいだね」

タイムリミットは、あるということだ。

車の鍵を盗んで運転したってよかったし、遠くに見える高級ホテルに侵入したってよかったんだ。

だけどいざ何もかも自由だと言われてしまうと、そんなことも出来なくて、結局学校の保健室で寝泊まりしている。

自分たちが取り込まれた場所から離れることも、怖かったのかもしれない。

「せっかくだし、何かしたいことある?」

彼はこんな状況にならなければ、決して向けられることのなかったであろう柔らかな笑顔を向けた。

「帰る方法を探すんじゃないの?」

「俺たちは、待つ方が正解だと思う」

「どっちだよ……」

返事はない。

本格的な夏がやってくる前の、実に爽やかな空だ。

カラリとした風が吹き抜ける。

「ねぇ、ピアノ弾いてあげよっか。なんか急に弾きたくなった。練習してないと腕も落ちるし」

結局は自分たちのクラスで過ごしている。

他にもいっぱい教室はあるのに、わざわざ階段を昇って、廊下を歩いて、自分たちの所属していた自分の机のある教室にいる。

確実に「自分のもの」だったと言えるモノと場所に、安心している。

もうこの世界は全て、他の誰のものでもなく、自分たちのものだと言っても過言ではないのに。

たった二人になった世界で、一人にされるのが怖くて、彼の後をついていく。

遠くに聞こえる物音は雑音としか表現出来ないようなものでしかなくて、無音ではないけどはっきりとした意味のある音にはならない。

音が見えるというこの人にとって、今の世界はどんな風に見えているんだろう。

音楽室の扉を開ける。

この部屋にこの人と二人で入ることになるなんて、夢にも思わなかった。

閉じられていた鍵盤の蓋が開く。

「リクエストは?」

私は公比1.06の等比数列に肘をつく。

「なんか、難しい曲」

「なにそれ」

「よく分かんない、謎な感じのがいい」

彼は少し考えてから、何かを弾き始めた。

力強いフレーズから始まり、軽やかなステップへ鮮やかに転調する。

この人は知っているけど、私は知らない曲だ。

ピアノにうつ伏せた腕からの上半身に、振動が伝わってくる。

その心地よさに目を閉じた。

「謎な感じでしょ?」

そう言って彼は微笑む。

私はじっと耳をすましている。

もしこの音楽が目に見えたら、どんな色を帯びているのだろう。

この人にもやっぱり、謎な感じに見えているのだろうか。