霧が濃い。
 いつもより、ずっと。
 それに河の流れる音が、まるで嵐のようだ。

 こどもはハチドリに導かれ、風よりも速く駆け戻る。
 
「――魔女!」

 揺り椅子の上に、彼女を見つけた。
 オオカミの姿のまま、ぴくりとも動かない。
 そのようすが、河へ見送ったあの犬に似ている。こどもは全身の毛を逆立てた。

 人間からもらってきたのは、魔女がいつか、犬のための肉と引き換えに、村の人間に煎じてやった丸薬だった。

 こどもはオオカミの口をこじ開ける。
 抵抗する彼女の牙に腕を傷つけられながら、まだ生きているんだと、むしろ嬉しくなる。

「魔女、おくすり! 直るよ、直るから!」

 ごくり、彼女が薬を嚥下したのが分かった。
 こどもは血まみれの腕を抜きとり、尻もちをついた。

「……魔女?」

 音をたてて揺れる椅子。
 こどもの心臓も冷たく揺れる。
 オオカミのひんやりした首を抱き寄せ、毛並みに顔をうずめる。

 背後に、ぬるい水がかかった。
 ハチドリが、耳を貫く高い音で危険を告げている。

 ふり返ると――、
 下流から押しよせてくる、膨れ上がった河の、壁のような大波!

 河が、逆流している――!!

“お終い”へ流れゆく河がさかのぼり、生きる世界を呑みこもうとしている。

 こどもは魔女に目を戻す。
 この河の秩序。
“お終い”を下流へ、生きる世界を上流へ置き続けた、すなわち守り主。

 この家にひとりぼっち、椅子に揺られて河を眺めつづけ、自分のもとの形も名も忘れるほど、長い長い時を過ごして。

 魔女は壊れた失せものを直して、あるべき処へ還してやりながら、いつも寂しい瞳をしていた。

「ほんとは、魔女も、かえりたかった?」
 還れない彼女が、還るべき、どこかへ。

 黒い波が、小屋ごと呑みこむ高さから、頭の真上に影を落とした。

「魔女。わかった。こどもが魔女を、直してあげる」
 こどもはオオカミの鼻にキスを落とし、立ち上がった。
 ぼたぼたと顔面に落ちてくる、大粒のぬるい水。

「こどもが、新しい魔女にな――、」


「おやめ」


 耳に吹きこまれた、はっきりとした声。
 細い両腕が、しっかりとこどもを抱きしめた。