それから僕は一時間ほど自分の席に座って、しばらく考え込んでいた。どうしようか逡巡した後、教室を出た。
工藤さんには行くなと言われていたけれど、僕は屋上へ向かった。屋上の少女が僕と同じ境遇だったと聞いて、それまで抱いていた彼女の印象がガラッと変わった。
なんだか放っておけない気がしたし、僕も彼女と同じ道を歩むことになるかもしれないのだ。なんとか彼女の話を聞き出して、突破口を見出そうという考えもあった。
彼女は二十年間もひとりぼっちで、あの場所で苦しんでいたのだ。屋上には幽霊が出る、と噂されて、怖がられて、辛かったはずだ。何か彼女の力になれやしないだろうか、とも思った。
学校内には部活にやってきたと思われる生徒が何人もやってきて、今朝よりもやや騒がしくなった。屈託無く笑い合う彼らを横目に、僕は階段を上がって屋上へ出た。
手摺りに掴まり、セーラー服を着た少女は僕に背を向けて、どこか遠くの景色を眺めているようだった。それとも元気いっぱいに学校へやってくる生徒たちを、恨めしそうに睨みつけているのだろうか。
恐怖で足が動かない。こんなにはっきりと幽霊が見えるだなんて、未だに慣れないし慣れたくもなかった。やっぱり帰ろうかと思ったけれど、腹を決めて僕は恐る恐る彼女に近づき、「あの……」と声をかけた。
僕が呼びかけても、彼女は微動だにしない。聞こえなかったのだろうか。僕はもう一度、彼女に声をかける。
「あの……大丈夫ですか?」
先ほどよりも声を張った。僕の声が届いたのか、彼女はゆっくりと振り返った。
「ふ……ふふ……」
不気味に笑いながら、彼女は緩慢な動きで僕に近づいてくる。逃げようにも身体が動かない。やっぱり帰ればよかった、と考えているうちに彼女はすぐそばまで迫って来ていた。
「ふふ……ふふ……」
僕は恐怖のあまり、目を瞑った。
すると彼女の笑い声が消え、屋上が静寂に包まれた。風の音だけが、僕の耳に届いた。
あの不気味な少女は、消えてくれたのだろうか。僕はゆっくりと、目を開ける。
少女の顔が、僕の目の前にあった。長い前髪が顔を隠し、表情が窺えない。しかし前髪の間から、薄っすらと血走った目が見えていた。彼女は口を開き、声を発した。
その時、屋上の扉が開いた。僕は反射的に後ろを振り返る。扉を開けたのは教頭先生で、作業着を着た数人の男性を引き連れて僕のすぐ横を通った。
身体が動くことに気づいた僕は、もう一度振り返る。あの少女の姿はなかった。
足の力が抜けて、僕は尻餅をついた。
助かったのか。でも、何か腑に落ちない。彼女が僕に何を伝えようとしていたのか、最後まで聞き取れなかった。
教頭先生と作業着の男性たちは、フェンスを取り付ける打ち合わせをしているようだった。僕が飛び降りたことを受けて、フェンスの設置を検討しているのだろう。
今さらフェンスを取り付けても、遅いんだよ。そう思いながら、僕は立ち上がってその場を後にした。
家に帰る途中、僕はあの不気味な少女のことを考えていた。あの少女は、笑っているのだと僕は思っていた。けれど、彼女は泣いていたのだ。近くで見ると、彼女の瞳から涙がぼろぼろと零れていた。そして彼女のあの言葉。扉が開かれた音で上手く聞き取れなかったが、彼女は僕に何かを訴えかけていた。
週が明けた月曜日、この日僕は午後になってから家を出た。土曜日はあの後家に帰って、何をするでもなくゴロゴロして過ごした。
日曜日は朝から家を出て、一日中歩き回った。やり残したことは何か、そのヒントを探すべく外へ出たが、答えはどこにも落ちていなかった。唯一の収穫は、人間と幽霊の区別がつくようになったことだ。人間は光を浴びると影ができる。そして僕もそうだったように、幽霊には影がない。街中を歩いていると、影のない人と何度かすれ違った。僕のような幽体なのか、それとも霊体なのかは判然としないが、生気のない顔で歩いていたり、ただ呆然と突っ立っている人もいた。
日の光を浴びることのできない彼らは、この世に存在してはいけないのだ。未練を断ち切り、在るべき場所へと旅立たなければならない。それはもちろん、十七日後に死んでしまう僕もそうだ。影のない僕たちと、今を生きている人たちは、それぞれ帰るべき場所がある。僕たちは、その帰るべき場所へ向かわなくてはならないのだ。一日中ひたすら歩き回って得たものは、そう思えたことだった。
その帰りに僕の肉体が入院している病院に寄った。しばらく呑気に眠っている自分の寝顔を眺めた後、屋上へ足を運んだ。
例の赤いパジャマを着た、幽霊らしくない明るい女性がベンチに腰掛けていた。彼女に何かアドバイスをもらおうと思ったけれど、その日も彼女は話し相手に飢えていたようで、僕が話をする隙はなかった。一時間ほど話して、また歩いて家に帰った。
そして月曜日になって、工藤さんに会うためにバスに乗って学校へ向かった。
ちょうど学校が終わる時間に合わせて、校門の前で待ち伏せた。
しばらく待っていると、工藤さんがやってきた。彼女は今日も一人だ。
「あれ、今日も学校来たんだ」
僕を一瞥してから、彼女は小声で言った。
「暇だからね。昨日は一日中歩き回ってたよ」
「ふうん。それで、答えは見つかったの?」
僕は返事をせず、下を向いて歩いた。二人並んで歩いているのに、影は一つしかない。わかっていても、影を見るたびに胸が痛む。
「やっぱり、見つからないかぁ」
僕の沈黙で悟ったのか、彼女はぽつりと呟いた。
「私さ、いろいろ考えてみたんだけど、神村って好きな人とかいなかったの?」
「好きな人? えっと……いないけど」
一瞬、浮かんだ顔があった。もうこの世にはいない、女の子の顔だ。
「……あ」そういえば、と思い出した。
「ん? やっぱり好きな人いるんでしょ? その子に告白したかった、とかそういうのが心残りなんじゃない?」
工藤さんの言葉は、僕の耳には入らなかった。
僕の好きだった早川夏希さんは、自由を求めて自殺をした。そして今、彼女の魂はどこへ向かったのか。きっと成仏できずに、自由にもなれずに彷徨っていることだろう。どうしてそのことに僕は今まで気づかなかったのか。僕は踵を返して、行き先を変更した。元々行き先なんてなかったのだけれど。
「神村? どこ行くの?」
「ちょっと用事を思い出した」
「用事? もしかして、好きな人のところへ行くの?」
「……そんなんじゃないよ」
僕はバスに乗って隣町の駅へ向かった。一人で行くと言ったのに、工藤さんもバスに乗った。
駅前のバス停で降りると、僕たちはさっそく駅舎へ入った。ここは、早川さんが飛び込み自殺を図った駅だ。
「ねぇ、次は電車に乗るの?」工藤さんが僕に訊ねた。
「乗らないよ。ここにいるんだ。僕の探してる人が」
「そうなんだ。いつもここの駅を利用してる人なんだね。待ってれば、その人は現れるの?」
「……いや、もういると思う」
工藤さんは不思議そうに首を傾げる。僕は何も言わずにホームに出た。
工藤さんには行くなと言われていたけれど、僕は屋上へ向かった。屋上の少女が僕と同じ境遇だったと聞いて、それまで抱いていた彼女の印象がガラッと変わった。
なんだか放っておけない気がしたし、僕も彼女と同じ道を歩むことになるかもしれないのだ。なんとか彼女の話を聞き出して、突破口を見出そうという考えもあった。
彼女は二十年間もひとりぼっちで、あの場所で苦しんでいたのだ。屋上には幽霊が出る、と噂されて、怖がられて、辛かったはずだ。何か彼女の力になれやしないだろうか、とも思った。
学校内には部活にやってきたと思われる生徒が何人もやってきて、今朝よりもやや騒がしくなった。屈託無く笑い合う彼らを横目に、僕は階段を上がって屋上へ出た。
手摺りに掴まり、セーラー服を着た少女は僕に背を向けて、どこか遠くの景色を眺めているようだった。それとも元気いっぱいに学校へやってくる生徒たちを、恨めしそうに睨みつけているのだろうか。
恐怖で足が動かない。こんなにはっきりと幽霊が見えるだなんて、未だに慣れないし慣れたくもなかった。やっぱり帰ろうかと思ったけれど、腹を決めて僕は恐る恐る彼女に近づき、「あの……」と声をかけた。
僕が呼びかけても、彼女は微動だにしない。聞こえなかったのだろうか。僕はもう一度、彼女に声をかける。
「あの……大丈夫ですか?」
先ほどよりも声を張った。僕の声が届いたのか、彼女はゆっくりと振り返った。
「ふ……ふふ……」
不気味に笑いながら、彼女は緩慢な動きで僕に近づいてくる。逃げようにも身体が動かない。やっぱり帰ればよかった、と考えているうちに彼女はすぐそばまで迫って来ていた。
「ふふ……ふふ……」
僕は恐怖のあまり、目を瞑った。
すると彼女の笑い声が消え、屋上が静寂に包まれた。風の音だけが、僕の耳に届いた。
あの不気味な少女は、消えてくれたのだろうか。僕はゆっくりと、目を開ける。
少女の顔が、僕の目の前にあった。長い前髪が顔を隠し、表情が窺えない。しかし前髪の間から、薄っすらと血走った目が見えていた。彼女は口を開き、声を発した。
その時、屋上の扉が開いた。僕は反射的に後ろを振り返る。扉を開けたのは教頭先生で、作業着を着た数人の男性を引き連れて僕のすぐ横を通った。
身体が動くことに気づいた僕は、もう一度振り返る。あの少女の姿はなかった。
足の力が抜けて、僕は尻餅をついた。
助かったのか。でも、何か腑に落ちない。彼女が僕に何を伝えようとしていたのか、最後まで聞き取れなかった。
教頭先生と作業着の男性たちは、フェンスを取り付ける打ち合わせをしているようだった。僕が飛び降りたことを受けて、フェンスの設置を検討しているのだろう。
今さらフェンスを取り付けても、遅いんだよ。そう思いながら、僕は立ち上がってその場を後にした。
家に帰る途中、僕はあの不気味な少女のことを考えていた。あの少女は、笑っているのだと僕は思っていた。けれど、彼女は泣いていたのだ。近くで見ると、彼女の瞳から涙がぼろぼろと零れていた。そして彼女のあの言葉。扉が開かれた音で上手く聞き取れなかったが、彼女は僕に何かを訴えかけていた。
週が明けた月曜日、この日僕は午後になってから家を出た。土曜日はあの後家に帰って、何をするでもなくゴロゴロして過ごした。
日曜日は朝から家を出て、一日中歩き回った。やり残したことは何か、そのヒントを探すべく外へ出たが、答えはどこにも落ちていなかった。唯一の収穫は、人間と幽霊の区別がつくようになったことだ。人間は光を浴びると影ができる。そして僕もそうだったように、幽霊には影がない。街中を歩いていると、影のない人と何度かすれ違った。僕のような幽体なのか、それとも霊体なのかは判然としないが、生気のない顔で歩いていたり、ただ呆然と突っ立っている人もいた。
日の光を浴びることのできない彼らは、この世に存在してはいけないのだ。未練を断ち切り、在るべき場所へと旅立たなければならない。それはもちろん、十七日後に死んでしまう僕もそうだ。影のない僕たちと、今を生きている人たちは、それぞれ帰るべき場所がある。僕たちは、その帰るべき場所へ向かわなくてはならないのだ。一日中ひたすら歩き回って得たものは、そう思えたことだった。
その帰りに僕の肉体が入院している病院に寄った。しばらく呑気に眠っている自分の寝顔を眺めた後、屋上へ足を運んだ。
例の赤いパジャマを着た、幽霊らしくない明るい女性がベンチに腰掛けていた。彼女に何かアドバイスをもらおうと思ったけれど、その日も彼女は話し相手に飢えていたようで、僕が話をする隙はなかった。一時間ほど話して、また歩いて家に帰った。
そして月曜日になって、工藤さんに会うためにバスに乗って学校へ向かった。
ちょうど学校が終わる時間に合わせて、校門の前で待ち伏せた。
しばらく待っていると、工藤さんがやってきた。彼女は今日も一人だ。
「あれ、今日も学校来たんだ」
僕を一瞥してから、彼女は小声で言った。
「暇だからね。昨日は一日中歩き回ってたよ」
「ふうん。それで、答えは見つかったの?」
僕は返事をせず、下を向いて歩いた。二人並んで歩いているのに、影は一つしかない。わかっていても、影を見るたびに胸が痛む。
「やっぱり、見つからないかぁ」
僕の沈黙で悟ったのか、彼女はぽつりと呟いた。
「私さ、いろいろ考えてみたんだけど、神村って好きな人とかいなかったの?」
「好きな人? えっと……いないけど」
一瞬、浮かんだ顔があった。もうこの世にはいない、女の子の顔だ。
「……あ」そういえば、と思い出した。
「ん? やっぱり好きな人いるんでしょ? その子に告白したかった、とかそういうのが心残りなんじゃない?」
工藤さんの言葉は、僕の耳には入らなかった。
僕の好きだった早川夏希さんは、自由を求めて自殺をした。そして今、彼女の魂はどこへ向かったのか。きっと成仏できずに、自由にもなれずに彷徨っていることだろう。どうしてそのことに僕は今まで気づかなかったのか。僕は踵を返して、行き先を変更した。元々行き先なんてなかったのだけれど。
「神村? どこ行くの?」
「ちょっと用事を思い出した」
「用事? もしかして、好きな人のところへ行くの?」
「……そんなんじゃないよ」
僕はバスに乗って隣町の駅へ向かった。一人で行くと言ったのに、工藤さんもバスに乗った。
駅前のバス停で降りると、僕たちはさっそく駅舎へ入った。ここは、早川さんが飛び込み自殺を図った駅だ。
「ねぇ、次は電車に乗るの?」工藤さんが僕に訊ねた。
「乗らないよ。ここにいるんだ。僕の探してる人が」
「そうなんだ。いつもここの駅を利用してる人なんだね。待ってれば、その人は現れるの?」
「……いや、もういると思う」
工藤さんは不思議そうに首を傾げる。僕は何も言わずにホームに出た。