家に着いて、外飼いにしているペットのコロ吉の頭を撫でた。犬には僕の姿が見えているようで、近づくとコロ吉は尻尾を振っていつもと同じ反応を見せた。
「散歩、もう連れてってやれなくてごめんな」
コロ吉は舌を出しながら、不思議そうに首を傾げる。触ることはできないけれど、もう一度頭を撫でて、家に入った。
部屋に入ると、すぐにベッドに倒れるように寝転んだ。工藤さんに言われたように、もう一度真剣に考えてみた。
僕の未練とは何か。やり残したことは何か。飛び降りる前に、何か願わなかったか。
確かに一つだけ、引っかかっていることがあった。
僕は学校の屋上から飛び降りる直前、あることを願っていた。でも、それがなんだったのか思い出せない。思い出せないということは、きっと大したことではないのかもしれない。死ぬ前に、コーラを飲んでおけばよかった。死ぬ前に、携帯のデータを消去しておけばよかった。たぶん、そんなところだろう。
他に何かないだろうかと考えているうちに眠りに落ちて、朝を迎えた。
僕に残された日数は、残り十九日だ。
まだ、十九日もある。あと、十九日しかない。どう判断するべきか、僕にはわからない。
時刻は午前七時半。僕はベッドから起き上がり、壁を擦り抜け階段を下り、外へ出た。
眩しい太陽の光を浴びて、大きく伸びをした。そこでふと気がついた。僕の足元からは、影が伸びていなかった。僕は太陽にまで存在を無視されるんだな、と自嘲気味に笑う。コロ吉は丸まって眠っていた。
僕はこの日も学校へ向かった。もちろん、工藤さんに会うためだ。僕一人で考えても答えは出ない。彼女の力がどうしても必要なのだ。
学校へ着いて教室へ入ると、そこには誰もいなかった。そもそも、学校に着いた時から様子がおかしかった。玄関に生徒が一人もいないのだ。授業が始まっているのかと思ったが、やはり違うようだった。
教室に貼ってあるカレンダーを確認すると、今日は土曜日だということに気がついた。ため息をつきながら自分の席に座り、天井を仰いだ。僕は工藤さんの家の場所を知らない。だから月曜日になるまで、彼女に会うことができないのだ。
これからどうしようか。ここ二、三日、何十回と心の中で呟いた言葉がここでも出た。そういえば、と思い出した。
「何かあったら、いつでも呼べ。念じれば、俺に届く」
エンドーさんは、確かにそう言っていた。試しに僕は、念じてみることにした。
エンドーさん、エンドーさん。来てください。
目を瞑り手を合わせ、心の中で呼びかけた。これでいいのかな、と思いながらゆっくりと目を開け、教室内を見回す。エンドーさんの姿はなかった。
念じ方が悪かったのかな、と思ってやり直そうと目を瞑ったその時、背後から「おい」と野太い声が聞こえた。
「人をこっくりさんみたいに呼ぶんじゃねぇよ。何の用だ?」
そう言ってから、彼は机の上にドカッと座った。
「あ、どうも」僕は小さく頭を下げた。本当に現れるとは思っていなかったので、少し動揺していた。
「用件を言え」威圧的な声でそう言い、彼は僕を睨みつけた。
「えっと、念じたらすぐ来てくれる感じなんですね」
特に用件もなく呼び出してしまったので、慌ててそう言った。用もないのに召喚してしまい、申し訳なく思った。
「お前、まさか用もないのに呼び出したんじゃねぇだろうな」
案内人というものは、人の心の中も読めるのだろうか。まさか、と笑いながら僕は首を振った。
「それよりどうだ。この世への未練は断ち切れそうか?」
「ああ、えっと、そのことなんですけど、たぶん、僕には未練なんてないと思います。まだやり残したことがあるなら、普通自殺なんてしないでしょう?」
「いや、お前には未練がある。俺にはわかるんだ」
「わかるなら教えてくださいよ。いくら考えても、さっぱりわかんなくて……」
「それはできないな。お前自身が、見つけないとダメなんだ」
突き放すようにエンドーさんは言った。そう言われてしまうと、もう何も言い返せない。きっと土下座をしても、逆立ちをしてみても彼は教えてくれないだろう。そんな雰囲気を纏っていた。
「お前、このままだとこの学校の屋上にいるあの女みたいになっちまうぞ」
「あの女って……エンドーさん、知ってるんですか?」
間違いなく、屋上にいる髪の長い不気味な少女のことだろう。
「知ってるも何も、あいつは俺が担当したやつなんだ。もう二十年も前の話だがな」
「に、二十年? てことは、彼女は二十年間ずっとあの場所にいるってことですか?」
「そういうことになるな」
気の遠くなるような話だった。二十年間あの場所にいるなんて、僕にはきっと耐えられないだろう。
「あいつもな、お前と一緒で、いじめを苦にあの場所から飛び降りたんだ。でも死ねなかった。意識不明の重体で、二ヶ月後に死んだ。あいつは二ヶ月も時間があったのに、未練を断ち切れずああなったんだ」
工藤さんも言っていたように、やはり屋上にいた不気味な少女はいじめを苦に自殺していた。ということはつまり、彼女はいろんな意味で僕の先輩ということになる。彼女のようになるのだけはなんとか避けたい。汗が頰を伝って流れ落ちた。
「……彼女の未練は、なんだったんですか?」
「あいつは未練というよりも、恨みと悔恨の念が強すぎるんだ。自分をいじめた奴らを恨み、それによって自殺してしまった自分が憎いんだ。死んでから後悔しても、遅すぎるんだけどな」
言いながら、エンドーさんは机から降りた。
「後悔……ですか」僕は力なく言った。
「いつの時代も、いじめはなくならないもんなんだな。またなんかあったら、いつでも呼べ」
エンドーさんは巨体を揺らし、のそのそ歩きながら教室を出ていった。
僕も、少しだけ後悔はしていた。父さんや母さんがあんなに悲しんでいたのは予想外で、二人に謝りたかった。僕はただ自由になりたかっただけなのだ。まさかこんな大事になるなんて思っていなかった。でも、あのまま生きていても辛いだけだし、僕にはこの選択肢しかなかったのだ。間違ったことはしていないはずだ。たぶん、きっと、僕の判断は正しかったと思う。いや、正しかったと思いたい。
まだ話したいことがあったので、エンドーさんを追って僕も教室を出た。しかし、廊下に彼の姿はなかった。
「散歩、もう連れてってやれなくてごめんな」
コロ吉は舌を出しながら、不思議そうに首を傾げる。触ることはできないけれど、もう一度頭を撫でて、家に入った。
部屋に入ると、すぐにベッドに倒れるように寝転んだ。工藤さんに言われたように、もう一度真剣に考えてみた。
僕の未練とは何か。やり残したことは何か。飛び降りる前に、何か願わなかったか。
確かに一つだけ、引っかかっていることがあった。
僕は学校の屋上から飛び降りる直前、あることを願っていた。でも、それがなんだったのか思い出せない。思い出せないということは、きっと大したことではないのかもしれない。死ぬ前に、コーラを飲んでおけばよかった。死ぬ前に、携帯のデータを消去しておけばよかった。たぶん、そんなところだろう。
他に何かないだろうかと考えているうちに眠りに落ちて、朝を迎えた。
僕に残された日数は、残り十九日だ。
まだ、十九日もある。あと、十九日しかない。どう判断するべきか、僕にはわからない。
時刻は午前七時半。僕はベッドから起き上がり、壁を擦り抜け階段を下り、外へ出た。
眩しい太陽の光を浴びて、大きく伸びをした。そこでふと気がついた。僕の足元からは、影が伸びていなかった。僕は太陽にまで存在を無視されるんだな、と自嘲気味に笑う。コロ吉は丸まって眠っていた。
僕はこの日も学校へ向かった。もちろん、工藤さんに会うためだ。僕一人で考えても答えは出ない。彼女の力がどうしても必要なのだ。
学校へ着いて教室へ入ると、そこには誰もいなかった。そもそも、学校に着いた時から様子がおかしかった。玄関に生徒が一人もいないのだ。授業が始まっているのかと思ったが、やはり違うようだった。
教室に貼ってあるカレンダーを確認すると、今日は土曜日だということに気がついた。ため息をつきながら自分の席に座り、天井を仰いだ。僕は工藤さんの家の場所を知らない。だから月曜日になるまで、彼女に会うことができないのだ。
これからどうしようか。ここ二、三日、何十回と心の中で呟いた言葉がここでも出た。そういえば、と思い出した。
「何かあったら、いつでも呼べ。念じれば、俺に届く」
エンドーさんは、確かにそう言っていた。試しに僕は、念じてみることにした。
エンドーさん、エンドーさん。来てください。
目を瞑り手を合わせ、心の中で呼びかけた。これでいいのかな、と思いながらゆっくりと目を開け、教室内を見回す。エンドーさんの姿はなかった。
念じ方が悪かったのかな、と思ってやり直そうと目を瞑ったその時、背後から「おい」と野太い声が聞こえた。
「人をこっくりさんみたいに呼ぶんじゃねぇよ。何の用だ?」
そう言ってから、彼は机の上にドカッと座った。
「あ、どうも」僕は小さく頭を下げた。本当に現れるとは思っていなかったので、少し動揺していた。
「用件を言え」威圧的な声でそう言い、彼は僕を睨みつけた。
「えっと、念じたらすぐ来てくれる感じなんですね」
特に用件もなく呼び出してしまったので、慌ててそう言った。用もないのに召喚してしまい、申し訳なく思った。
「お前、まさか用もないのに呼び出したんじゃねぇだろうな」
案内人というものは、人の心の中も読めるのだろうか。まさか、と笑いながら僕は首を振った。
「それよりどうだ。この世への未練は断ち切れそうか?」
「ああ、えっと、そのことなんですけど、たぶん、僕には未練なんてないと思います。まだやり残したことがあるなら、普通自殺なんてしないでしょう?」
「いや、お前には未練がある。俺にはわかるんだ」
「わかるなら教えてくださいよ。いくら考えても、さっぱりわかんなくて……」
「それはできないな。お前自身が、見つけないとダメなんだ」
突き放すようにエンドーさんは言った。そう言われてしまうと、もう何も言い返せない。きっと土下座をしても、逆立ちをしてみても彼は教えてくれないだろう。そんな雰囲気を纏っていた。
「お前、このままだとこの学校の屋上にいるあの女みたいになっちまうぞ」
「あの女って……エンドーさん、知ってるんですか?」
間違いなく、屋上にいる髪の長い不気味な少女のことだろう。
「知ってるも何も、あいつは俺が担当したやつなんだ。もう二十年も前の話だがな」
「に、二十年? てことは、彼女は二十年間ずっとあの場所にいるってことですか?」
「そういうことになるな」
気の遠くなるような話だった。二十年間あの場所にいるなんて、僕にはきっと耐えられないだろう。
「あいつもな、お前と一緒で、いじめを苦にあの場所から飛び降りたんだ。でも死ねなかった。意識不明の重体で、二ヶ月後に死んだ。あいつは二ヶ月も時間があったのに、未練を断ち切れずああなったんだ」
工藤さんも言っていたように、やはり屋上にいた不気味な少女はいじめを苦に自殺していた。ということはつまり、彼女はいろんな意味で僕の先輩ということになる。彼女のようになるのだけはなんとか避けたい。汗が頰を伝って流れ落ちた。
「……彼女の未練は、なんだったんですか?」
「あいつは未練というよりも、恨みと悔恨の念が強すぎるんだ。自分をいじめた奴らを恨み、それによって自殺してしまった自分が憎いんだ。死んでから後悔しても、遅すぎるんだけどな」
言いながら、エンドーさんは机から降りた。
「後悔……ですか」僕は力なく言った。
「いつの時代も、いじめはなくならないもんなんだな。またなんかあったら、いつでも呼べ」
エンドーさんは巨体を揺らし、のそのそ歩きながら教室を出ていった。
僕も、少しだけ後悔はしていた。父さんや母さんがあんなに悲しんでいたのは予想外で、二人に謝りたかった。僕はただ自由になりたかっただけなのだ。まさかこんな大事になるなんて思っていなかった。でも、あのまま生きていても辛いだけだし、僕にはこの選択肢しかなかったのだ。間違ったことはしていないはずだ。たぶん、きっと、僕の判断は正しかったと思う。いや、正しかったと思いたい。
まだ話したいことがあったので、エンドーさんを追って僕も教室を出た。しかし、廊下に彼の姿はなかった。