僕が自殺を考え始めたのは、自殺決行日のおよそ一ヶ月前だった。
 それまでの僕は、いくら酷いいじめを受けても自ら命を絶とうだなんて一度も考えたことがなかった。
 僕の好きなRPGゲームでは、もっぱら『いのちだいじに』という作戦名を使っていたほどだ。そんな僕がまさか、『いのちそまつに』を選択するとは自分でも驚きだった。

 中学の頃から僕は、ニュースで中高生の自殺が取り上げられていると、目を逸さずにはいられなかった。
 そのほとんどはいじめが原因で、決して他人事ではない気がしていたからだ。
 ああ、彼は、彼女は逃げてしまったのか。弱いなぁ、と思う反面、いつかは僕が報道される側になってしまう時が来るのではないか、と恐れもしていた。

 僕はそういったニュースを見た日の夜、いつも布団の中で心を痛めていた。
 彼らは、どんな思いで自ら命を絶ったのか。命を絶つことで、果たして救われたのか。いじめられて死にたくなる気持ちは、僕にも少しはわかる。けれど何も死ぬほどのことではないんじゃないか。死ぬ勇気があるのなら、なんだってできるんじゃないのか。のちに自殺を決行することも知らないその時の僕は、本気でそう思っていた。

 夜にそんなことを考え出すと、止まらなくなる。しばらく考え込んでいるうちにいつの間にか眠ってしまって、気づけばまた憂鬱な一日が始まる。そんな日々を、僕は過ごしていた。

 そんなある日のこと、僕にとってショッキングなニュースが飛び込んできた。そのニュースは、僕の人生を変えるほど衝撃的なものだった。それは僕が自殺を決行する、一ヶ月前の朝のニュースだ。
 隣町にある高校の女子生徒が、飛び込み自殺をしたとのことだった。
 ニュースでは見覚えのある駅舎、聞き覚えのある町の名前が報道された。まさか僕の住んでいる町の、すぐ隣の町の高校生が自殺をするなんて、と僕は自宅のテレビに釘付けになった。
 十五歳の女子生徒が、と険しい表情をした中年の男性アナウンサーが言っていた。
 僕と同じ、高校一年生だ。
 少女が持っていた鞄の中から遺書が見つかり、そこには同級生からいじめを受けていた、という内容のものが書かれていたそうだ。さらに最後には、『これで私は、自由になれる』と綴られていたらしい。その言葉を聞いて、ドクンと心臓が跳ねた。やけに胸に突き刺さる言葉でもあった。

 男性アナウンサーは終始、神妙な面持ちで遺書の一部を読み上げていた。
 僕はそのニュースをもっと見ていたかったけれど、すぐにどうでもいい芸能ニュースに変わった。

 僕が一番驚いたのは、そのニュースを見たあと学校へ行ってからだった。
 夏休み明けの初日、いつも通りバスに乗って学校に着くと、酷い落書きが施された上靴に履き替え、重い足取りで教室に向かった。
 教室へ向かう途中で今朝のニュースを見たのか、すでに噂をしている生徒がいた。隣町の高校で起きた出来事なのだから、皆興味があるのは頷ける。そんな中、生徒たちの噂話が僕の耳に届いた。

「死んだのは早川夏希っていう人らしいよ」

 よく知っている名前が僕の耳に突き刺さる。同姓同名の別人であってほしいと思った。しかし聞けば聞くほど、僕のよく知る早川夏希に相違なかった。
 彼女とは家が少し離れていることもあってか、中学は別々だった。それでも通っていた塾が同じだったので、中学の頃は週に二回は顔を合わせていた。
 早川夏希は紛れもなく僕の初恋の人で、恩人でもあった。
 しかしあの明るい彼女が自殺をしたなんて、僕には信じられなかった。

「おい神村、ちょっと金貸してくんねぇ? なんか喉が渇いたんだよ」

 教室に向かう途中の廊下で、いきなり遠山に見つかってしまった。こいつに逆らうと面倒なことになるので、僕はすぐさま財布から二百円を取り出し彼に渡した。

「……はい」
「おう、悪りぃな。そのうち返すからよ」

 そう言って自販機へ向かう遠山の背中を、僕は睨みつける。今まで彼に貸した金が返ってきた試しはない。返ってくるのはいつも、遠山の重たい右ストレートだけだ。いまや僕の肩は、遠山のサンドバッグになっていた。

 この日の一時限目は、全クラスホームルームに変更された。近隣の高校でいじめが原因の自殺が起きたことで、全校生徒にアンケート用紙が配布された。
 それはもちろん、いじめに関するアンケートだ。

①あなたは今、いじめられていますか?

 そのストレートすぎる問いに、僕はいいえに丸をつけた。匿名でも構わないとはいえ、変なプライドが邪魔をして正直に回答ができなかった。
 僕はいじめられている哀れな生徒、という憐憫の目で見られるのが嫌だった。その次の問いにも、僕は真実を書かなかった。
 アンケートを書きながら、クラスメイトたちは口元に笑みを浮かべ僕に視線を向ける。

「あいつ、なんて書くのかな」

 そんな言葉が、聞こえたような気がした。
 結局僕は、アンケートの全ての問いに正直に回答することができなかった。差し伸べられた救いの手を、自ら払いのけてしまった。
 この日も一通りいじめを受けて、殴られてパンパンに腫れ上がった左肩をさすりながら家に帰った。


「翔也おかえり。あんたと同じ小学校に通ってた、早川さんだっけ? 亡くなったんだってね」

 家に帰るなり、いきなり母さんが物憂げな顔で言った。小さな町で起こった悲劇だ、情報が回るのが早いようだ。

「本当に、早川さんなの?」僕は訊ねた。
「本当らしいよ。さっき買い物に行ったら、噂好きの隣の奥さんがそう言ってたから、間違いないわ。あんたの学校は、いじめとかあるの?」
「……ないと思う」
「そう、それならよかった」

 母さん、実は僕も学校でいじめられているんだ、とは言えず、肩を落としながら階段を上がって自室に入った。

 あの早川さんが自殺をした? 僕には信じられなかった。小学生の頃の彼女は明るい性格で、いつもクラスの中心にいて、誰からも好かれていた。そんな彼女がなぜいじめを受け、自殺にまで至ったのか。
 どうしてそうなったのか気になるけれど、それよりも彼女が死んでしまったことが何よりもショックだった。
 早川さんは僕の初恋の人でもあり、現在進行形で恋をしていた女の子でもあった。
 高校に入学してからは会うことはなかったけれど、僕はいつだって彼女のことを想っていた。

 小学五年生の頃だっただろうか。その頃僕は人生初のいじめを受けていた。仲間外れにされたり、机に落書きをされたり、教科書や上靴を隠されたりといったスタンダードないじめだ。
 そんな日々が一ヶ月ほど続いたある日のこと、見かねた早川さんがついに立ち上がった。

「いい加減やめなよあんたたち。そんなことして面白いの? 先生に言うからね」

 正義感の強い早川さんは、臆することなくいじめっ子たちに言い放った。彼女の一言で女子たちが僕の味方につき、さらには先生の耳にも入り、学級会が開かれて僕に対するいじめはその日からなくなったのだ。
 早川さんの勇気ある行動に、僕はどれほど救われただろうか。どれほど嬉しかっただろうか。
 そういうわけで早川さんは、僕の恩人でもあった。
 そんな彼女に、僕はずっと恋をしていたのだ。
 あの早川さんがまさか自殺するとはなぁ、などと考えながらゲーム機を起動し、テレビの電源を入れる。ゲームに没頭していると、僕は嫌なことを忘れられる。
 呪文を唱えて、モンスターを駆逐していく。作戦名は今日も、『いのちだいじに』だ。
 早川さんは命を大事にしなかった。どうして彼女が死ななければならなかったのか、僕にはわからない。わからないけれど、誰も彼女を責めることはできない。
 きっと彼女は一人で抱え込んで、耐え切れなくなってホームに飛び込んだのだろう。飛び込む瞬間、彼女は何を考えていたのだろう。

 ──これで私は、自由になれる。

 不意に、ニュースで流れていた言葉が頭を過ぎった。
 早川さんは自由になれたのだろうか。
 僕も彼女のようにこの世界から逃げ出せば、自由になれるのだろうか。
 僕はこの日から、初めて自殺というものを真剣に考えるようになった。