――あ、あれっ……?


 気がつくと、目の前にいくつものバラが咲き誇っていた。


 ――ここは、どこだろう……?


 見覚えのある景色に、首を振って辺りを見渡す。


 ――ここって、もしかして……わたしの家、だよね?


 わたしは自宅のエントランスに立っていた。

 カバンもスノードームもちゃんと持っている。お気に入りのコートが少し汚れているけれど、どこかに痛みがあるわけでもない。

 いつの間に帰ってきたのだろうか。記憶がすっぽり抜け落ちている。

 あれからどうなったんだろう。

 記憶が定かじゃない分余計気になるけれど、確かめに行く勇気なんてもちろん持ち合わせていない。

 助けてくれた銀髪男性の安否だって気がかりだ。でも、今は公園に足を踏み入れたくない。

 悶々とする頭を抱えたまま自宅の門と玄関ポーチの往復を繰り返す。

 だけど銀髪男性への心配やどうやって帰ってきたのかという疑問より、恐ろしい男達に囲まれた恐怖のほうが上回っている。

 助けてもらってお礼も言えなかったもどかしさや、疑念と不安を抱えたまま玄関ポーチで足を止めると、カバンから鍵を取り出した。

 ……わたしは、弱虫だ。


「……ただいま」


 玄関をくぐるといつもの暖かい我が家の空気が広がっていた。それだけでさっきまでの恐怖が幾分和らいだ気がする。

 靴を揃えてリビングの扉を開けると、お母さんがキッチンカウンターから笑顔を見せた。


「緋莉、おかえりなさい。パーティー楽しかった?」

「うん、楽しかったよ……」


 肩から下げたかばんを持つ手にきゅっと力を込めて、なんとか平静を装う。


「今日はケーキを焼いてみたの。食べる?」


 目を細めて笑うお母さんの栗色の長い髪がふわっと揺れる。短く「うん」と返事をすると、「着替えてくるね」と言い残してそそくさと二階へと向かった。


 しんと静まる部屋に入ると、嫌でも思い出すのはやはりさっきの銀髪男性だ。今からでも警察に通報したほうがいいだろうか?

 けれど状況をうまく説明できる自信もないし、なによりお母さんに心配をかけたくない。

 クリスマスパーティーの帰り道で怖い男達に絡まれた、なんて言ったら楽しい気分に水を差すことになる。

 男の人同士なんだから、きっと大丈夫。
 それに助けてくれたってことは、腕力にも自信があるに違いない。実際相手もたじろいでいたし、もしかするとあの人の強さにびっくりして逃げちゃったかもしれない。

 そう言い聞かせることしかできない弱い自分に、罪悪感が重くのしかかる。

 部屋着に着替えてからもしばらく悩んだ挙句、結局通報はしなかった。

 その後はずっと、胸に小さな棘が刺さったまま過ごしているみたいだった。

 お母さんが焼いてくれたケーキの味もあまりわからなかったし、それが余計に悲しくてつらい。わたしが喜ぶと思って、せっかく作ってくれたのに。

 心の中で誰に向けてかわからないごめんなさいを繰り返し、顔に笑顔を貼り付けたまま、人生最悪になったクリスマスイブの夜は、ゆっくりと時間を掛けて過ぎ去っていった。


 翌朝のクリスマス当日。

 目が覚めると嘘のように身体が軽かった。いつもなら目覚ましが鳴って起きるまで十五分はかかるのに。昨夜の出来事が嘘のように気分が清々しい。

 体を起こして机の上に置いてある映画のフライヤーに目をやると、さらに頭が冴えてきた。だけどなにしろ昨日の今日だ。浅桜くんとふたりきりになって、わたしは自然に話せるだろうか。それに、うまく笑えるだろうか。

 今日は大切な日にしたい。できれば昨夜のことなんて忘れてしまいたいけれど、銀髪男性の後ろ姿が瞼の裏に焼きついて離れない。いや、そもそもあの人を忘れるなんてできるわけがないのだろう。

 彼はわたしを助けてくれた。そのせいで酷い暴行を受けた。
 家に帰ってから通報しなかった後悔が、いまさら押し寄せてくる。

 あの人の無事を確認して、いつかきちんとお礼をしたいな……。


 時刻はまだ六時前だったが、ベッドから抜け出して身支度を整える。

 今日着る服は一週間も前から決めていた。なのにいざ着てみると、おかしなところが無いか気になってしまう。

 黒のサロペットにゆるめのニット、その上に暖かいもこもこのジャケットを羽織って鏡の前で右往左往。

 ほんとにこれで大丈夫かな。
 浅桜くんは背が高いから、隣を歩くならもっと大人っぽい服にしたほうがいいかもしれない。
 でも、これでも充分落ち着いた雰囲気はあると自分では思う。
 ジャケットがもこもこだからいけないのだろうか……。

 夜も明けきらないうちに着替え始めて、事前に用意していた服に再び落ち着く頃には一時間が過ぎていた。それからは髪を念入りにブローして、前髪を留めて外してを繰り返した。

 おでこを出すと子どもっぽい……おでこを隠しても子どもっぽい……一体どうしろと言うんだろう。

 時刻は既に八時を過ぎていた。




「クリスマスなのになんだか浮かない顔ね。心配事でもあるの?」


 お母さんと朝食を摂っていると、ふいにそう言われて心臓がどきんと跳ねた。


「ううん、そんなことないよ……」


 目を逸らしたまま返事をしても、疑ってくださいと言っているようなものだろうか。


「ねえ、お母さん……。もしもわたしに彼氏ができたら、どう思う?」


 ちょっと恥ずかしいけれど、変な疑いを持たれるよりはいい。これでわたしの態度にも合点がいくだろうし。


「え、うそ、緋莉! 今日ってもしかして、そういう日なの?」


 お母さんの顔がパッと明るくなる。たまに見せるお母さんのこの無邪気な表情が好きだ。


「うん……まあ。だからちょっと、緊張しちゃってさ」

「あら、そうだったの! うまくいったら、お母さんにも紹介してね!」

「いや、まだどうなるかわかんないけど……」

「クリスマスなんだし、きっと大丈夫よ!」

「そうだね、そうだと嬉しいけどね」


 わたしの返答などお構いなしに、その後もお母さんはうれしそうにはしゃいでいた。

 ずっと楽しみにしていた気持ちは、今日弾けるくらいに膨らんでいるはずだった。

 だけど歯を磨いても朝食を食べても、血を流してまでわたしをかばってくれたあの人の存在が、わたしの心の隅にいつまでも居座り続けていた。


 お母さんに見送られ家を出ると、待ち合わせした駅前に向かって歩き始めた。

 浅桜くんとの約束は十時。今はまだ九時。駅までは徒歩ニ十五分。浅桜くんを待たせたくないからこれでいい。

 学校以外で浅桜くんと会えると思うと、それだけでうれしい。しかも今日はふたりきりだ。まだ家を出たばかりなのに、うるさいくらいに胸がどきどきしている。

 クリスマスプレゼントを入れた紙袋にちらりと目を向けると、自然と頬が緩んだ。

 会ったらまず、なんて言ったらいいんだろう。プレゼントはどのタイミングで渡そうか。喜んでもらえるかな。

 緊張からか速足になってしまい体温がどんどん上がっていく。あまり寒さは感じないけれど、これでも今日は冷え込んでいるらしい。

 しんと張り詰めるような冷たい冬の空気の中に、緑地公園からであろう新緑の匂いを嗅ぎ分けると、昨夜の一件がまた頭の中をじわじわと侵食し始めた。

 あれからどうなったか気になるし、緑地公園を通っていこうか。といっても昨日となにかが変わっているなんてことはないだろうけれど。

 でも、だからこそ、いつも通りの風景を見ておけば少しは気がらくになるかもしれない。


 緑地公園の南出入口に差し掛かると、普段は目にしない人だかりが目に留まった。こんなに人がいるなんて珍しい。公園の中に人が次々と吸い込まれるようにして駆けていく。

 ふいに昨夜の暴行が頭をよぎる。

 甦ってくる恐怖心を頭を軽く振って落とすと、またすぐ別の不安が浮かびあがってきた。

 まさか、あの後銀髪男性になにかあったのだろうか。

 すぐに不安は予感へと変わり、緑地公園に足を向ける。

 おそるおそる人混みの隙間をぬって奥へと進んでいくと、不吉な予感を膨張させるように動悸も激しくなっていく。

 男達に絡まれた辺りまで来ると、人混みが減って途端に視界が開けた。そこには映画やドラマでしか見たことのない黄色の規制線が張られていた。

 冷たい手がそっと心臓に触れたような、冷やりとした感覚が襲いかかってくる。

 胸が苦しい。

 にじり寄るように規制線の手前まで近寄ると、思わず「ひっ」とうわずった声をあげた。

 ブルーシートで隠しきれないくらいの、ペンキをぶちまけたような赤黒い染み。周囲の重々しい空気から伝わってくるその正体。


 これは……。


 ――血痕だ。


 まさかあの人の血……じゃないよね?


 確かに暴行は受けていた。頭から出血もしていた。けれどここまで大量じゃなかったし、こんなに飛び散ってもいなかった。

 あまりに凄惨な状況を目の当たりにして、心にさざ波が立つ。

 足が徐々に震え始めた。

 いったいあの後なにがあったのだろう。地面についたおびただしい血痕は、まるで獲物が猛獣に引きずりまわされた跡のようにも見える。

 口の中がからからになって、ごくりと生唾を飲み込んだ。唾液が喉をゆっくりと通過して、焼けつくような痛みが走る。

 雑踏の声が風のように頭の中へと流れ込んできた。


「通り魔ですって」


 ――でも万が一、これがあの人のものだとしたら……?


「女の子も殺されたらしいわよ」


 ――わたしがあのとき、警察に通報しなかったから……?


「ちょっとあなた大丈夫? 顔色が悪いわよ」


 思わず口元に両手を当てると、隣にいた女性が声を掛けてくれた。

 なのにわたしは規制線の向こうに視線を奪われたまま、女性と目を合わせることもできない。

 返事もせずにあとずさり現場から距離をとると、勢いよく踵を返してそのまま自宅へと走った。


 わたしのせいじゃない。わたしは悪くない。

 わたしには……関係ない!