浮ついた足取りで家に入ると、外との気温差でまるでさっきまで違う世界にいたように思えた。

 今日起きた事件は浅桜くんの告白も含めて全部夢だったんじゃないだろうか。頬をつねってみたけれど、こんなので夢かどうかを確認している時点でこれが現実なんだと実感が込み上げてくる。……ひとりでなにやってるんだろう。

 状況はなにも変わっていない。登下校中に二度も殺人犯扱いされて、蓮崎くんが殺人犯を名乗るルカさんに襲われて、浅桜くんに告白されて、初めてのキスをした。

 たった一日でこれだけいろんなことが起こるなんて、今日は一生忘れられない日になりそうだ。

 リビングの扉を開くと、お母さんがカウンターキッチンから小走りで駆け寄ってきた。


「緋莉、おかえりなさい。菊川先生からお電話頂いたけど、具合はどう?」


 ソファーに鞄を置いてマフラーを外しながら、お母さんになにから伝えるべきかを考える。


「うん、もう大丈夫だよ」


 ついさっきまでは浅桜くんと両思いになれたことで浮かれていたけれど、お母さんの顔を見ると、菊川先生の言っていた染色体異常のことが頭をよぎる。


「安心したわ。外は寒かったでしょう。すぐお風呂に入りなさい」

「うん……」


 悩んだけれど、いつかは聞かなくてはいけない。それなら早いほうがいい。

 スカートの裾をぎゅっと握って静かに深呼吸すると、わたしはお母さんに問いかけた。


「お母さん……わたしって病気なの?」

「え?」


 一瞬お母さんの顔にちらりと影が差すのを、わたしは見逃さなかった。


「今日、菊川先生がお母さんから聞いたって言ってたよ。わたしには染色体の異常があるって」


 お母さんはわたしをじっと見つめたまま、しばらく言葉を選ぶように口を閉ざしていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。


「……病気ってほど深刻じゃないから、心配しなくても大丈夫よ」

「ほんとに? 病院とか行かなくていいの?」

「ええ、大丈夫」

「またこんなふうになっちゃったら、どうしたらいいの?」

「菊川先生には説明してあるから、保健室で休ませてもらいなさい。あと少しで薬が完成するし、そうすれば全部解決するわ」

「その薬を、お母さんが作ってるの?」


 間髪を入れずに問いかけていく。


「まさか、お母さんそこまで賢くないわよ。さっ、もう気にしないでお風呂入ってらっしゃい」


 一方的に切り上げるようにして、お母さんはカウンターキッチンへ戻ると、置いてある野菜を洗い始めた。


 釈然としないけれど、お母さんが大丈夫と言うのだから心配ないのだろうか。

 わたしはお母さんを尊敬しているし、信用も信頼もしている。お母さんが言うことに今まで間違いなんてなかった。


「うん……わかった。今日は心配かけてごめんね」

「お母さんこそ、もっと早くに話しておけばよかったわね。ごめんなさい」

「ううん、大丈夫。じゃあ、お風呂入ってくるね」


 二階の自分の部屋へ入ると、鞄を開けてふたつ目のオペラを手に取った。浅桜くんに渡したほうはあまり崩れていなかったけれど、こっちは完全にへこんだあとがある。

 封を解いて箱を開けると、案の定中身はぐしゃぐしゃに潰れていて、到底食べられそうにない。浴室へ行く途中キッチンへ寄って心の中でごめんなさいと呟くと、お母さんに気づかれないようにそっとゴミ箱へ入れた。

 結局ルカさんには渡せなかったけれど、きっとこれで良かったのだろう。そう自分に言い聞かせて、今日一日の出来事を振り返りながら、血のように生ぬるく心地よいお湯をわたしは浴び続けた。


 今日は少し早めに家を出た。昨夜は浅桜くんに告白された幸せな記憶を何度も反芻していたおかげでなかなか寝付けなかったけれど、頭の中はクリアに冴えわたっている。

 学校へ着くと校庭は部活の朝練で賑わっていた。生徒会活動で登校している生徒達も多く、教室では七時半という早い時間にも拘らず、数名の生徒がスマホをいじったり談笑したりして過ごしている。

 教室に入ると数人の友達に心配の目を向けられたけれど、昨日のことを詳しく詮索してくる人はいなかった。「体は大丈夫?」とか、「昨日は大変だったね」といった軽い挨拶程度の言葉をかけられたくらいで、その優しさが心地良い。

 荷物を整理して一息つくと、すぐに保健室へ向かった。


「失礼します」


 ドアをノックして保健室へ入ると、中はコーヒーの良い香りが漂っていた。


「先生、おはよう」

「あら、おはよう立華さん。体調はどう?」

「おかげさまで、もうすっかり平気。昨日はありがとうございました」

「どういたしまして。もし体調が優れなかったらいつでもおいでね」

「うん。あのさ、先生」

「なあに?」


 返事をしながら、菊川先生はマグカップを両手で包みこんで持ち上げた。


「今この街で起きてる連続殺人事件あるでしょ? あれって全部失血死なのに血痕が少ないって言われてるけど、それについて先生はどう思う?」

「朝から物騒な話題だね」


 菊川先生はくすりと笑い、コーヒーを一口啜る。


「うーん、深く考えたことはないけど、単に別の場所で殺害されて運ばれた、とかじゃないかな? だとしたら血痕がなくても違和感ないでしょ?」


 そうか、なぜそれに気づかなかったのだろう。発見された場所が事件現場とは限らないのに。


「だから捜査を撹乱させるための隠蔽工作だと思うよ。実際まだ犯人捕まってないし」

「そっか……そうだよね。ありがとう、先生」

「どうしてそんなこと聞くの?」


 そう訊かれて一瞬答えに詰まる。


「いや、頸動脈とはいえ、針のような小さな傷口で亡くなるまで血が止まらないなんて不思議だなって思って」


 吸血鬼の仕業を疑っている、なんて言えるわけがない。


「へえ、よく気がついたね。確かにお医者さんが緊急時に動脈採血することもあるけど、圧迫止血で対処できるし、そんなに小さい傷が原因で次々と人が亡くなるなんておかしいよね。ってことは全く身動きが取れない状態にされていたか血液凝固障害が起きたのかもしれないけど、それも不可解ではあるかな」


 さすが養護教諭だ。わたし達の噂話とはレベルが違う。


「でも、どうしてそんなことが気になるの? 立華さん医療に興味あるの?」

「べ、別にそういうわけじゃないけど……」


 これ以上聞くのは、まずいかな。


「ありがとう、先生。またなにか気づいたことがあったら教えてね」

「え? ちょっ……立華さん!」


 なにか詮索されそうな予感がしたわたしは、慌てて保健室をあとにした。


 教室へ戻り再び自分の席に着くと、前の扉から浅桜くんが入ってくるのが見えた。そしてわたしと目が合うと、そのままこちらへと歩いてくる。


「おはよう」

「お、おはよう」


 昨日の今日だ。照れ臭いのは仕方がない。

 浅桜くんが鞄を手にしたまま、顔を近づけてくる。

 ちょ、ちょっと待って、こんなところでキス? それはまずい! さすがにまずい!

 そう思いながらもぎゅっと目を瞑り少しだけ顔を上げると、浅桜くんはそっとわたしに耳打ちをした。


「昨日はありがとう。オペラうまかったよ。あれならお店でも出せるね」

「え? ……ほんとに? うれしい。こちらこそありがとう」


 あ、あぁ、そうか。そうだよね。教室でキスなんてするわけがない。密かに期待していた自分が恥ずかしい。

 それよりもお店でって、もしかして浅桜くんのお父さんのお店でってこと……だったりして? 

 思わず顔を伏せると浅桜くんはそのまま囁き声で続けた。


「さっき生徒玄関で蓮崎に会った。だけど様子が変なんだ。今日は近づかない方がいい」

「う、うん、わかった。じゃあ関わらないようにするね」


 またガラリと音がして扉のほうへ目を向けると、今度は蓮崎くんが姿を見せた。浮かれていた頭を切り替えて、さりげなく蓮崎くんを観察してみる。


 見た感じはいつもどおりだけど、どこが変なんだろう。


 蓮崎くんは教室に入ると同時に、いつもの友達らしい生徒達に話し掛けられていた。でも、その受け応えにも特に変わったところはない。


「見てのとおり会話や応対は普通なんだ。でも、ルカが言ったとおり記憶が一部無くなっているらしい。さっき昨日の話をしようとしたら、ほんとうに知らないって感じだったからな。首の傷跡がきれいさっぱり消えていることも腑に落ちない」


 そう言いながら、浅桜くんは席に向かう蓮崎くんを横目でちらりと追いかけている。


「放課後までに蓮崎とふたりで話してみるから、緋莉は今日一日何事も無いように振る舞っておいてね」

「うん、わかった」


 ……って、え?


 浅桜くん、今わたしのこと、『立華』じゃなくて、『緋莉』って言った……よね?


「じゃあまたあとで」

「待って!」


 思わず呼び止める。


「どうしたの?」


 浅桜くんが振り返る。


「あの、無茶なことは……しないでね。優陽……くん」


 恥ずかしくて死にそうだったけれど、ちゃんと浅桜くんの目を見て言った。おそらく顔はりんごのように真っ赤だろう。瞳が紅いことなんて、今なら全然気にならない。


「優陽でいいよ。ありがとう」

「わ……、わかった。じゃあ……優陽」


 その笑顔と言葉にまた胸が高鳴る。こんな感情の起伏があとどれくらい続くのだろうか。マンネリ化なんて言葉はよく聞くけれど、ほんとにわたしにもそんな瞬間が訪れるのかな。


 優陽が席に戻りしばらくすると、瑞花がわたしの前の席に座った。


「おはよう緋莉ぃ、体は大丈夫?」

「瑞花、昨日はありがとう。すっかり良くなったとは言えないけど、今日は落ち着いてるよ」

「そうだろうねえ、朝から浅桜くんとあれだけ見せつけてくれたんだから、具合も良くなってくれてないと困るよ」


 ふふっと笑い意地悪な目をした瑞花はなにかを察しているのだろう。今すぐ話せと言わんばかりだ。


「もしかしてあの後、浅桜くんとうまくいったの?」


 それもこれも、瑞花のおかげでもある。だからではないけれど、瑞花には一番に知らせたかった。


「えっと、あの、おかげで浅桜くんと……ううん、優陽と付き合うことになっちゃった」


 口に出すと余計に恥ずかしくて、語尾が霞むように小さくなった。

 瑞花が急に立ち上がり、わたしの両手を掴む。


「やったね! おめでとう緋莉!」


 こ、声が大きい! まるで教室中に響くような大声。

 優陽が机に両肘を付いて、頭を抱えているのが見えた。心の中でごめんねと呟くが、わたしはどこか浮かれてもいる。何度も泣きそうな声で「おめでとう」と言ってくれる瑞花に、わたしも何度も「ありがとう」と返した。