――また、泥のように眠ってしまっていた。

 薄暗い部屋で目を開けると、見覚えのある天井がそこにあった。

 ふと、体を支える両手とお尻の感触がふわふわと柔らかいことに違和感を覚える。この弾力がなぜか妙に心地よく、そして新鮮に思えた。

 机に突っ伏したまま眠ってしまったからか、体の節々が痛い。けれど、気分は妙にすっきりとしている。そして違和感の正体に気がついた。

 ――おかしい。わたしは課題をしながら眠ってしまったはずなのに、なぜ今ベッドで目覚めたのだろう。覚えていないだけで、寝ぼけながら自分でベッドに入ったのかな?


 首を傾げつつベッドから抜け出して扉の前まで行くと、ふとウォールミラーに映る自分自身と目が合って思わず「ひっ」と悲鳴をあげた。


 ――な、なんなの、これ?


 闇の中でふたつの目が妖しく紅く輝いている。一瞬他に誰かいるのかと疑ったが、間違いなくわたし自身の目だ。その紅い瞳がわたしをじっと見つめている。


 ――わたしの()、どうなってるの?


 目が痛むわけでも視界が霞むわけでもない。だけどどこかで見覚えがある瞳だ。


 ――まさか、この瞳の色、ルカさんと同じ……?


 その場にへたり込むと、しりもちをついたまま手を伸ばし照明のスイッチを入れた。パッと部屋が明るくなると、鏡の中のわたしの瞳はいつもの薄い茶色へと戻っていた。


 おそるおそる鏡に近づいて自分の瞳を観察するが、特に変わったところはない。寝ぼけて見間違えたのかもしれない、とも思えてくる。でも、もう一度灯りを消して確かめる気にはなれなかった。

 気分を落ち着かせるためにシャワーを浴びた。お湯に打たれながら何度か鏡を見てみたが、やはり明るい場所ではわたしの瞳に変化は見られなかった。

 バスルームから出てリビングでテレビをつけると、夕方のニュースが流れていた。


「たった今入ってきたニュースです。今日の午後、また冬咲市双木町で男性の変死体が発見されました。繰り返します。本日十六時頃、首にふたつの傷跡があり倒れている男性が見つかったとのことです。これで似たような被害者は合わせて七名となりました。今のところ被害者同士の接点などは見えておらず、無差別殺人の可能性が高いとのことです」


 また、この事件か。一体犯人はなにが目的で次々に人を殺めるのだろう。

 事件は怖いけれど、今のわたしにとってそれより重要なことはわたしの瞳の変化、それに今日が冬休み最終日だということだ。

 浅桜くんへの恋心、蓮崎くんと本城さんへの疑念、お母さんの隠しごと、ルカさんの謎……。

 頭の中でパズルのピースが散らばっているような悶々とした気持ちに、自身の体調不良も重なったおかげでごっそり残っていた課題に追われると、あっという間に高校一年の冬休みは終わりを迎えた。


 三学期が始まった。

 最初のホームルームで二月末に控えた予餞会の実行委員を決めることになり、担任の先生の推薦で男子の代表を浅桜くんが務めることになった。さらに浅桜くんの推薦でわたしが女子の代表となり、毎日の幸福度がこれまでにないくらい増していて、暗闇で変化した瞳の不安も日々を重ねるごとにわたしの中で希薄になっていった。

 それでもあの日から暗い場所では鏡を見ないようにして過ごしている。病気を疑って自分なりに調べたりもしたが、結局なにも当てはまらなかった。目が痛いとか視力が落ちたというはっきりとした症状もないので、誰かに相談したり病院で診てもらったりもしていない。ルカさんの瞳も紅いのだしきっとそういう人もいるのだろうと、できるだけ楽観的に考えるようにしている。

 在校生各クラスの実行委員が集まって役割を決めた結果、わたし達はそれぞれの部活動へ協力を仰ぎ、出し物をまとめてタイムテーブルを作ることになった。


「今日の放課後から部室をまわってみようか」

「せっかくだし、卒業生と在校生の両方が楽しめる企画だといいね」


 お昼ご飯を食べながらの打ち合わせ。それを続けるうちに浅桜くんへの緊張感はどんどんなくなっていったが、同時に好きな気持ちは増し続け、わたしにルカさんという恩人がいることを浅桜くんにもきちんと打ち明けたいと思うようになっていた。

 少し気になるのは、最近になって蓮崎くんの視線を感じる時間が増えたことだ。休み時間や放課後にさりげなく目が合うと、ちくりと胸を刺すような罪悪感に見舞われる。でもその度に気づかないふりをして、心の中で『ごめんね』と密かに唱え続けた。瑞花は蓮崎くんが本城先輩と一緒にいたところを見て以来、蓮崎くんのことをあまり良く思っていないらしい。

 予餞会の準備に終われた慌ただしい一月が過ぎ、本格的に冬の寒さが訪れた二月の放課後、わたしと瑞花は図書室のパソコンでお菓子の作り方を検索していた。

 相変わらずわたしは気怠い日と調子の良い日が不定期だけど交互に訪れている。ブルーデイの憂鬱を疑いもしたが周期も違うし関係はなさそうだ。それに倦怠感があっても翌日にはほぼ治っているので、今となっては正直あまり気にしていない。バイオリズムって本当に存在するのかもしれないな、くらいに思っている。

 そして一月の間も冬咲市の殺人事件は止まらず、犠牲者の数はついに十名を超えていた。

 おかげで部活動などは時間を短縮し、生徒はなるべく集団で下校するように言われている。被害者が倒れている現場から立ち去る女性の姿が目撃されたとニュースで言っていたが、緑地公園の犯行は女性には不可能だとか、相変わらずワイドショーでは無意味な論争が繰り広げられていた。


 そんなことはお構いなしに、目前に迫ったバレンタインに向けて校内は色めき立っていた。


「やっぱり普通のチョコじゃ物足りないよね。溶かして固めるだけなんて、誰でもできるし」


 瑞花がマウスをクリックしながらぼやいている。

 センター試験を終えて、一般入試真っ最中の三年生はもうほとんど登校していない。受験生に気兼ねなく調べものができるのはありがたい。


「瑞花はどんなのが作りたいの?」

「やっぱりわたしは見た目もかわいいお菓子がいいな。マカロンとか」

「それ、自分が食べたいだけじゃないの?」


 笑いながらページをクリックしていくが、どれもいまいちピンとこない。結局結花さんに相談することにしてパソコンから離れると、わたし達は宵月家を目指して灰色の湿った空の下を歩いた。


「緋莉はもちろん浅桜くんにあげるんだよね。ルカさんにはあげないの?」

「一応考えてはいるんだけど、いつ会えるかわかんないし」


 あの日以来、ルカさんとはまた会えない日々が続いていた。

 もうこの町にいないのではないかと考えてしまうこともあるけれど、同時にまたそろそろふいに会えるのではないかという期待も、僅かながら膨らんでいる。

 わたしがルカさんと会える日を密かに待っていることを知ったら、ルカさんはどう思うのだろう?

 相変わらず低い空を見上げながら、ふうっと白いため息をひとつ落とす。

 わたし達の距離はいつもどおり変わらない。

 わたしはただ待つだけの日々。


 瑞花の家は玄関にまで甘い香りが漂っていて、リビングに行くとアルパカのワッペンが施されたエプロンを着た結花さんがキッチンに立って調理をしていた。


「ただいま、おねえちゃん。今日はなに作ってるの?」


 真剣な表情でクリームを塗り重ねていた結花さんが、顔をあげてにこっと微笑んだ。


「ふたりともおかえり。もちろん明日のためのバースデーケーキよ。手間はかかるけど、お父さん毎年楽しみにしてくれてるからね」


 結花さんの言葉に、瑞花が首を傾げる。


「明日って、なにかあったっけ?」

「なに言ってるのよ。お父さんの誕生日でしょ」

「あ、そっか! すっかり忘れてた!」


 瑞花は目を丸くすると、両手を口に当てて大きな声をあげた。

「お父さんかわいそう」と言いながらくすくすと笑う結花さん。それなら今日は予定を変更して、プレゼントを探しに行くほうがいいかもしれない。


「もうすぐバレンタインだから浮かれてたんでしょ。彼氏ができた途端にお父さんの誕生日忘れちゃうだなんて、きっとお父さん悲しむよ」


 姉妹揃っての困り顔。いや、結花さんのは呆れ顔か。どっちにしても双子かなってくらい、かなり似てる。

 やっぱり親子よりもきょうだいのほうが顔は似ているのかもしれない。といっても浅桜くんとお父さんもよく似ていたけれど。

 そういえばわたしとお母さんの顔はあまり似ていない。お母さん曰く、わたしの顔はお父さん似らしい。


「どうしよう緋莉。プレゼントなにも用意してないや」

「だよね。だって瑞花、お父さんの誕生日なんて一言も口にしてなかったもん」


 スマホを取り出して時刻を確認する。まだ十六時を過ぎたところだ。これから買いに行っても十分間に合うだろう。


「今から買いに行こうよ。わたしも付き合うから。お店もまだ空いてるし大丈夫だよ」

「でも、今日はバレンタインのお菓子決めるはずだったのに」

「バレンタインまでにはまだ時間あるじゃない。それに結花さんだって今は忙しそうだし」

「あら、緋莉ちゃんは、わたしになにか用事かな?」


 バレンタインと自分の名がセットになっていることに気がついたらしい結花さんが、わたしに顔を向けた。


「はい、実はバレンタインに作るお菓子が決まらなくて、結花さんに相談したかったんです」


 それを聞いた結花さんの顔に、明るい笑みが浮かんだ。


「もちろんいいよ。で、瑞花の相手は蘭雅くんだとして、緋莉ちゃんは誰にあげるの?」

「そ、それは……」


 少しいたずらっぽい笑みに切り替えた結花さんは、わざとらしく顎に人差し指を添えて言った。


「ふふ、どんな人なのか教えてくれたら、その人に合うようなお菓子を考えてあげるんだけどなあ」


 結花さんが知らない相手とはいえ、いざ浅桜くんのことを口にするのは恥ずかしい。

 なんて説明すればいいんだろう……。今は浅桜くんじゃなくて、ルカさんのことを話しておこうかな。それならさほど恥ずかしくもないし。


 年上で、銀髪で、瞳が紅くて、意地悪だけど優しくて、わたしを守ってくれた人……。

 頭の中でルカさんの特徴を思い浮かべていくだけで、改めて非日常を纏う人だなと思う。まあそのほうが口にするわたしも非現実を語っているようで気が楽だけど。


「えっと、ヨーロッパ出身の銀髪ハーフで、紅い瞳をした年上の男性です」


 そう言うと、結花さんが一瞬体をびくっと震わせてわかりやすく目を丸くした。なにをそんなに驚いているんだろう。


「……そっか。緋莉ちゃんの好きな人って、そうだったんだね」


 えっ、なに? 結花さんの目がどこか憐れみを含んでるように見えるんだけど。


「緋莉ちゃんも、とうとう下り始めたんだね。果てしなく暗い……あの坂道を」

「な、なんのことですか?」


 ほんとうにわからない。話が通じなくなってきた。結花さんは一体なにを言ってるんだろうか。