抱いた犬を起こさぬように、こどもは寝床から這いだした。

 魔女はデッキの揺り椅子にもたれて、まぶたを下ろしていた。
 ゆら、ゆら、静かに揺れる彼女の、近づきがたい美しさ。
 こどもは畏れて足を止める。

 闇と同じ色のローブが、そのまま黒い河とひとつに溶けてしまいそうだ。
 
「なんだい、眠れないのか?」

 こどもは、まぶたを持ちあげた彼女にほっとする。
 なのにろくに顔も見られぬまま、おずおずと近づき――、

 壊れたハチドリを、両手で差しだした。

「こどもが壊した。ごめんなさい」

「おやまぁ」
 魔女はハチドリを受けとり、壊れた翼の破片を検分する。
「わざとじゃない。そうだろう?」
「……うん」
「おいで」

 魔女は犬にハチドリをくわえさせ、「机にもどしておくれ」と頭をなでる。
 犬が尻を向けると、魔女はこどもを膝に抱きあげた。

「心配することはない。私は外側なら直してやれる。そう言ったろう」
「ハチドリ、まだ直る? ぜんぜん動かないの」
「ハチドリってのは、死んだように眠るもんなのさ」

 魔女の胸にもたれて、こどもは大きな息をつく。

「よかった」
「おやすみ。こどもも、犬も」

 おつかいを終えて戻ってきた犬まで、魔女の膝に乗り上がる。
 魔女は重たいねぇと笑った。

「このコ、おうちにかえりたいの。かえれないの、かわいそうだ」
「……そうだねぇ。だけど、犬。おまえはもう、あれはいらないだろう?」

 そうですねと応えるように、犬はこどもの顔に鼻をすりつける。
 あまえた声で鳴く犬に、こどもは硬い毛の首を抱いた。

 魔女は、こどもの知らない言葉の歌を口ずさむ。
 河の流れと同じリズムの、寂しい歌だ。
 魔女と犬のぬくもりに挟まれて、こどもはとろけるように深く眠った。





 こどもが目を覚ましたときには、犬は冷たくなっていた。

 きのうは確かに濡れていた鼻さきに、最後のキスを落とす。
 花の冠で飾った犬のからだは、黒い河の流れに、ゆっくりと沈んでいく。

「命は、いつか必ず失うものだ」
「うん」

「あの犬は、おまえのそばで死ぬことを選んだ。だからおまえが、覚えていておやり」
「……うん」

 犬の体が、霧のむこうに見えなくなる。

 しゃがみこんで動かないこどものとなりに、魔女は凛と立っている。
 その人差し指を、こどもはきゅうっと握りこんだ。

「魔女は、こどものママみたい」
「わたしが?」

 魔女は笑う。
 その横顔が、みるみる男の輪郭になっていく。

 こどもは幾度も目を瞬いて、美しい男を見上げた。

「じゃあ、パパ?」
「どうかな」

 まばたきする間に、今度は同い年くらいの少女の姿になっている。

「どれがほんと?」
「どれだか、もう忘れてしまったな」

 少女がきちんと並んだ白い歯を見せて笑う。

「なら魔女は、こどものママでパパで、お友だちにもなれるね」
「私はおまえのどれでもない」
「どうして? ケチんぼ」
「こどもはいつか、還るのだから」

 こどもが黙ってしまうと、魔女はこどもの頭に手のひらを置いた。
 くしゃくしゃの柔らかい髪。
 しなやかな命に満ちた髪だ。

「さぁ、これから、ハチドリを直してやらなきゃね」
「直る?」
「おまえが壊したんだから、おまえが直すんだよ。教えてやろう」
「ホント!? すごい! うれしい!」

 黒い河のうねりに背を向け、ふたりは笑いながら家へ帰る。
 部屋の明かりが細い帯を作る。

 錆びた蝶番がきしむ音をたて、扉がしまった。