抱いた犬を起こさぬように、こどもは寝床から這いだした。
魔女はデッキの揺り椅子にもたれて、まぶたを下ろしていた。
ゆら、ゆら、静かに揺れる彼女の、近づきがたい美しさ。
こどもは畏れて足を止める。
闇と同じ色のローブが、そのまま黒い河とひとつに溶けてしまいそうだ。
「なんだい、眠れないのか?」
こどもは、まぶたを持ちあげた彼女にほっとする。
なのにろくに顔も見られぬまま、おずおずと近づき――、
壊れたハチドリを、両手で差しだした。
「こどもが壊した。ごめんなさい」
「おやまぁ」
魔女はハチドリを受けとり、壊れた翼の破片を検分する。
「わざとじゃない。そうだろう?」
「……うん」
「おいで」
魔女は犬にハチドリをくわえさせ、「机にもどしておくれ」と頭をなでる。
犬が尻を向けると、魔女はこどもを膝に抱きあげた。
「心配することはない。私は外側なら直してやれる。そう言ったろう」
「ハチドリ、まだ直る? ぜんぜん動かないの」
「ハチドリってのは、死んだように眠るもんなのさ」
魔女の胸にもたれて、こどもは大きな息をつく。
「よかった」
「おやすみ。こどもも、犬も」
おつかいを終えて戻ってきた犬まで、魔女の膝に乗り上がる。
魔女は重たいねぇと笑った。
「このコ、おうちにかえりたいの。かえれないの、かわいそうだ」
「……そうだねぇ。だけど、犬。おまえはもう、あれはいらないだろう?」
そうですねと応えるように、犬はこどもの顔に鼻をすりつける。
あまえた声で鳴く犬に、こどもは硬い毛の首を抱いた。
魔女は、こどもの知らない言葉の歌を口ずさむ。
河の流れと同じリズムの、寂しい歌だ。
魔女と犬のぬくもりに挟まれて、こどもはとろけるように深く眠った。
※
こどもが目を覚ましたときには、犬は冷たくなっていた。
きのうは確かに濡れていた鼻さきに、最後のキスを落とす。
花の冠で飾った犬のからだは、黒い河の流れに、ゆっくりと沈んでいく。
「命は、いつか必ず失うものだ」
「うん」
「あの犬は、おまえのそばで死ぬことを選んだ。だからおまえが、覚えていておやり」
「……うん」
犬の体が、霧のむこうに見えなくなる。
しゃがみこんで動かないこどものとなりに、魔女は凛と立っている。
その人差し指を、こどもはきゅうっと握りこんだ。
「魔女は、こどものママみたい」
「わたしが?」
魔女は笑う。
その横顔が、みるみる男の輪郭になっていく。
こどもは幾度も目を瞬いて、美しい男を見上げた。
「じゃあ、パパ?」
「どうかな」
まばたきする間に、今度は同い年くらいの少女の姿になっている。
「どれがほんと?」
「どれだか、もう忘れてしまったな」
少女がきちんと並んだ白い歯を見せて笑う。
「なら魔女は、こどものママでパパで、お友だちにもなれるね」
「私はおまえのどれでもない」
「どうして? ケチんぼ」
「こどもはいつか、還るのだから」
こどもが黙ってしまうと、魔女はこどもの頭に手のひらを置いた。
くしゃくしゃの柔らかい髪。
しなやかな命に満ちた髪だ。
「さぁ、これから、ハチドリを直してやらなきゃね」
「直る?」
「おまえが壊したんだから、おまえが直すんだよ。教えてやろう」
「ホント!? すごい! うれしい!」
黒い河のうねりに背を向け、ふたりは笑いながら家へ帰る。
部屋の明かりが細い帯を作る。
錆びた蝶番がきしむ音をたて、扉がしまった。